その日の日の出過ぎに雨があり、天気予報は終日の曇りで頭上には青空があり、これから向かう西風を吹き下ろして来る嵐山の上空は、灰色い雲に覆われていたのであるが、丸太町通が西に尽き、南へ下れば渡月橋に至る長辻通で雪が舞い出し、向こうに常寂光寺(じょうじゃっこうじ)の山門が控える道まで来て、雪と風の俄(にわ)かの勢いに、道端の茶店の玄関に逃げ込み、雪を払い、軒先から町中(まちなか)の東の空を見れば、まだらに青い色が浮かんでいる。ガラス戸の京名物鰊(にしん)そばがぱたぱた鳴る軒を借りた茶店は、十二月下旬から三月下旬まで休業の紙が貼ってある。道を挟んでいまは何も植わっていない畑の向こうに、芭蕉の弟子、向井去来の草庵を再建した落柿舎が見えるが、出入る人の姿はない。常寂光寺の山門を出て来た母娘のような二人連れが、雪の中を傘もなく歩いて過ぎる。その二人とすれ違うようにやって来た中国人らしい男女三人の若者が、降る雪と常寂光寺の背後の小倉山にカメラを向ける。頭を上衣のフードで覆った老夫婦が通り過ぎ、若い女が一人、若い男が一人着るものを濡らして茶店の前を通り過ぎて行く。来る途中の嵯峨公園のブランコで子どもを遊ばせていた若い中国人の夫婦がやって来て、前を走る子どもを振り向かせ、ビデオカメラを向ける。と、風が止み、雪が止み、中国人の子どもが空を見上げる。雲が瞬く間に消え失せ、前の畑に日が射して来る。天正十三年(1586)十一月に起きた大地震の被害犠牲の鎮魂のため、豊臣秀吉が京都東山に奈良東大寺の大仏を凌ぐ大仏建造を発願し、文禄四年(1595)その大仏殿の落成供養を千僧供養と称し、仏教界すべての宗派の僧を一同に集めた際、日蓮宗が二分する。千僧供養に出仕すれば、「法華経」を信じない者への不受不施、布施を受けても布施を行ってもならないとする戒律を破ることとなり、不受不施を通した日奥は妙覚寺を去り、受不施派との宗論の果てに徳川家康によって対馬に流され、その後不受不施派は幕府から邪教として禁じられ、明治に至るまで地下信仰となる。その日奥に同調し、本圀寺を去った三十五歳の日禛(にっしん)が隠居所としたのが、小倉山の常寂光寺である。その文禄五年(1596)の正月、日禛は、秀吉の実姉智(とも)の出家の戒師となっている。文禄四年(1595)、智の長男であり、秀吉の養子となって関白を継いだ秀次が、突如謀反の疑いを掛けられ、高野山切腹させられる。秀吉と淀の間に世継ぎの秀頼が生まれたためである。秀次の首は鴨川三条の河原に晒され、秀吉の命で、その傍らで秀次の妻子、側室ら三十九人が斬首される。秀次の母智は、わが子らの弔いのため剃髪し、瑞龍院日秀となったのである。その日秀が開いた瑞龍院は、嵯峨の村雲にあった。日禛の常寂光寺から僅かの距離のところである。日禛が常寂光寺を開いたのも同じ文禄五年(1596)である。日禛はその年の四月、本圀寺を去り、日蓮が流罪となった佐渡に渡り、三百年前の日蓮の足跡を辿った後、京に戻り、和歌の素養を持って藤原定家百人一首を編んだ小倉山に小寺を構えた。日蓮宗の聖地から和歌詠みの聖地へ、言わば憧(あこが)れの地からまた憧れの地へ、教えに殉じて先の人生を折ったこの男の身の処し方、心の様(さま)は、透けて見えるようにいかにも分かり易(やす)い。恐らくは日禛の口から発した言葉も分かり易く、分かり易さは言葉の力となり、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)を支援に持ち、小倉山の地の寄進を受けたに違いない。「常寂光土」は、永遠絶対の浄土を意味し、死後ではなく、境地としていまあるこここそが浄土であるとするものであるが、日禛は小倉山のその場所を、目に見えて分かる「常寂光土」であるとし、己(おの)れの寺を「常寂寺」と名乗った。山門を入れば、斜面に石段があり、その前に茅葺の仁王門があり、斜面に生えた幾本もの楓やモミジの枝に一枚の葉もなく、紅葉の色にいまは目を眩(くら)まされることもなく、地面は苔に覆われ、石段を上がれば本堂で、その石段の途中で、潰(つぶ)れた鈴のような音が、その方向を眩ますように鳴るのが耳に残り、本堂まで上がれば、嵯峨野を見渡すことが出来る山の高さまで来ている。「動いている間は、浄土は見えない。」また鈴の動く音がすると、俄(にわ)かに裏の竹林が風に騒ぎ、空が翳(かげ)り、雪が降り出して来る。葉の茂る樹の下で宿っていると、髪をべとつかせた肥った若い白人の女が、上にある展望台へ行く小道を上って行く。その後を追うように、今度は黒いトレンチコートに黒い革鞄を手に提げた中年の男が、舞う雪の中を上がって行く。天気の急変した境内から人影が途絶える。「浄土を思う者がいなければ、多分浄土というものは存在しない。」まだ横殴りの雪の中を、白人の女が下りて来て、黒いコートの男が下って来る。順序は狂っていない。が、その仕事の途中のような様子の男が目に残る。晴れ間の戻った展望台から、京都タワーの姿がはっきり見ることが出来る。が、今日の晴れ間はいつまで続くか分からない。小道を下りながら、雪で髪を濡らした肥った白人の女のことを考える。女が旅行者であれば、自国へ帰り、訊かれて旅の話をするかもしれない。「ジョウドには雪が降っていた。」潰れた鈴の音のその鈴は、黒い猫が首に付けていた。日禛は五十七歳で没した。日禛が死ぬまで日蓮宗不受不施派を通したのであれば、たとえば「法華宗」を理解しない飼い猫の死にはどう向き合うのか。いま黒い猫は、日向で寝そべり参拝者に頭を撫でられているが。

 「私の好きなギボシは、七月のうちに花も終つてゐたが、素枯れかかつた花の茎が倒れかかり、菊芋と教へられた黄色い花は、次ぎ次ぎに咲き盛つては黒く腐つてゐたが、丈高い茎は、頭が重く、倒れかかつて来ると、狭い庭を塞いで縁側に届く始末なので、倒れないやうに、紐で結はへておかねばならなかつた。それと並んで、何という花なのか知らないが、子供が道の端から引いて来た、向日葵に似た茎をもつた野生植物が、傍若無人に伸び、且(か)つ茎を肥らし、ために他の植物は痩せるほどであつたが、それが漸(ようや)く黄色い総(ふさ)のやうな花を附けはじめてゐた。」(上林曉「夏暦」『現代日本文學体系65井伏鱒二・上林曉集』筑摩書房1970年)

 「放射線教育「難しい」6割超 福島県内の学校アンケート」(平成30年3月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)