御衣黄(ぎょいこう)はソメイヨシノに遅れて咲く桜であるが、その際立つ特徴は、花弁の色にある。御衣の黄、とは朝廷の貴族らが着るものに好んだ萌黄であり、花弁がその萌黄のような薄緑をしているからであるが、この桜を知った者は萌黄桜とも緑桜とも名づけず、御衣黄と呼ぶようになった。御衣黄は、蕾から花弁が開いて数日はその萌黄に近い色をしているが、次第に薄緑を無くしてゆき、外に一枚一枚の身の端を丸めながら淡い黄色味の残る白色になり、同時に芯の底から紅色が滲(にじ)み上がり、星のように見える筋を花弁に作る。西陣の雨宝院(うほういん)に、その御衣黄の木がある。雨宝院は町中の小さな寺であるが、弘法大師空海の創建であるという。空海の祈禱で病癒えた嵯峨天皇が己(おの)れの別荘時雨亭を譲り渡し、空海はそれを雨宝堂と名づける。どちらの名にも雨の字があるが、雨宝は、祀った雨宝童子の名である。雨宝童子は、天照大神が日向の世に現れた十六歳の姿であるといい、ここでいう天照大神は、大日如来が姿を変えて現れたとする神である。雨宝は法雨の転化で、法雨は、雨のように遍(あまね)く人の心を潤す仏の教えである。左手に宝棒、右手に宝珠を持つ雨宝童子は、十六歳の力とその知恵を表す自信と不安の姿であり、恐らくは常に立ち戻るべき姿である。十六歳の少年は、己(おの)れの力で降らせるはずの雨を待っている。窓辺で雨が上がるのを待つのは、下の歳の少年である。雨宝院は、晴れの日でも、狭い境内いっぱいに枝を伸ばす桜や松や地の幾種もの花のせいで、雨の日のように薄暗い。その狭い中に本堂、大師堂、不動堂、稲荷堂、庚申堂、観音堂が棟を寄せ合い、願いを持って秘かに縋(すが)る近くに住まう者の、まずその秘かなる信心に足る寺の様子として、繁茂する草木は人目を憚(はばか)るその薄暗さを保っているのである。雨宝院の本尊は、象頭人身の歓喜天(かんぎてん)である。歓喜天は、悪神がその欲望のゆえに、欲望を満たすために善神と交わり、遂には仏法を守護する者となった神である。十六歳の雨宝童子の名を持つこの寺は、この歓喜天秘仏をその懐(ふところ)に隠し持つが故(ゆえ)に、愈々(いよいよ)寺の秘かさは本物として参る者を説得させるのである。今年の陽気は京都の桜を早く開かせ、この日見た雨宝院の御衣黄も、半ば以上すでに花を落とした姿だった。八重の御衣黄ソメイヨシノのように花片(はなびら)を散らさず、花の姿のまま地に落ちる。枝の上での十日余りの色の変化を見過ごした、紅の滲(にじ)む花が幾つも木の下に落ちている。落ちた花は、死に花であろうか。枝に葉を出し尽くせば、後(あと)は長く退屈な時間が待ち受けているばかりである。それは何も、この御衣黄に限ったことではないが。

 「東の國の博士たちはクリストの星の現はれたのを見、黄金や乳香や沒薬(もつやく)を寶(たから)の盒(はこ)に入れて捧げに行つた。が、彼等は博士たちの中でも僅(わず)か二人か三人だつた。他の博士たちはクリストの星の現はれたことに氣づかなかつた。のみならず氣づいた博士たちの一人は高い臺(だい)の上に佇(たたず)みながら、(彼は誰よりも年よりだつた。)きららかにかかつた星を見上げ、はるかにクリストを憐れんでゐた。「叉か!」」(「西方の人 7博士たち」芥川龍之介芥川龍之介全集第九巻』岩波書店1978年)

 「「廃棄物貯蔵施設」秋にも着工 大熊と双葉、19年度運用開始へ」(平成30年4月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)