京都府立植物園発行の、週刊植物園五月四日号の週刊見頃情報に、ハンカチノキの名があった。この木の名前に記憶はあったが、実物はまだ見たことがない。東京上野桜木に住まいのあった頃、休みの日に木蔭のベンチに座りに行った小石川植物園に、ハンカチノキが植わっていたが、花の時期は知らないままでいた。小石川植物園は、上野桜木から言問通を下り、本郷西片から白山通に抜けて自転車で二十分ほどのところにあった。「忘れ得ぬ他人と言えば、去年の秋梅雨のころのある日、傘を差して、小石川植物園の塀に沿うた道を歩いていると、いきなり「どこへ行くの。」と見知らぬ女に声を掛けられた。思わず「図書館。」と答えると、「あら、じゃ、いっしょに行きましょう。」と、女は恰(あた)かもこちらのことをよく知っているかのように近づいて来、並んで歩きはじめた。この物怖じしない素振りが私を不安がらせた。四十過ぎの、家庭の主婦とも思えない、化粧ッ気のない女である。足を速めると、女も足を速め、また元の歩調に戻すと、女も無言で合わせて来る。どうあっても付きまとうて来る気配である。図書館へ着くと、併(しか)し女は自然に別の本棚の方へ行ったのでほっとしていると、しばらくしてまた近寄って来た。厚い博物図鑑を私の前へ広げ、「この虫は食べられるでしょうか。」と言う。見れば、大きな芋虫の極彩色の絵が描いてあった。驚いて女の顔を見返すと、目を血走らせて、「いいえ、私たちは食べていました。」と言う。その切迫した物言いが、全身の毛が凍るほどに恐ろしかった。───私もまた「芋虫を食べて」生きて来たに相違なかった。」(車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂文藝春秋1998年)正式の名を東京大学大学院理学系研究所附属植物園であるという小石川植物園は、原生林のような林を持つ広大な敷地がコンクリートの塀で囲まれていて、北側の裏の塀は大人の手が届かない高さがあり、東と西は狭い坂道に沿ってうねり、南には共同印刷の工場があり、並ぶ民家の傍らのその下請け工場が、いつも山のように重ねた製本前の紙の束を軒先に晒しているところである。植物園の入り口は南東の隅にあった。白山通から西に坂を上って北東の角から東の坂を下れは、そのまま入口に着くのであるが、子どもがする遠回りのように反時計回りに、小庭のついた二階建団地や古い洋館風の学生寮が建つ裏道から、使い道の目途の立たない草の生えた広い空地の間の西の坂を下って、日の当たる南の塀へ曲がって行くのである。学校帰りの子どもの遠回りでは、初めて見る虫や景色と出会うかもしれないが、この塀沿いの遠回りには、新たな世界を見つけ出すということは、恐らくない。馴れた道にこそ発見の元(もとい)があるというもの云いは、型通りに使われればよい云い回しであり、この遠回りの心持ちにはむしろ邪魔になる。その植物園の大きさに時間を費やすだけの遠回りの心持ちというのは、変のない気安さである。道の気安さは、川原の土手にも、田圃道にも、山道にもあるかもしれない。が、この道は、片側に鬱陶しい塀が立ちはだかっているにもかかわらず、心持ちは気安いのである。塀に沿って自転車を漕いで行く時、視線の片側は遮られ続け、目に見えるのは塀によって半分にされた世界である。残りの半分は、塀が倒れることでもない限り、在ることで起こる諸々の一切に注意を向ける必要のない、ないも同然の世界である。そうであればこの気安さは、目の前の世界が半分になっていることで味わうということなのであろうか。ハンカチノキは、フランスの宣教師アルマン・ダヴィッドが、1860年代に中国四川省で見つけ、ダヴィディア・インヴォルクレイタと名づけられ、日本では、折って結わいた白いハンカチのような花の形からそう呼ばれている。京都府立植物園のハンカチノキは、三メートルほどの高さから葉の間にそのハンカチのような花を幾つも垂らしていた。丸い蕾のような花に下がった大小二枚の三角の花弁は、苞葉という葉であるという。木の下にはその白い苞葉が、捨てられたハンカチのように何枚も落ちている。その一枚を、ひとりの女が拾って、傍らの盲人の男の手に触らせた。女は三十前後、男は五十代である。二人の姿は、咲きはじめたバラ園でも見掛けていた。二人の口数が少ないのは、親子であるからかもしれない。女は、色は白と云った。生まれつき全盲の者は、色は分からない。その言葉は色を示さず、ノートの白やシーツの白や雪の白の感触を思い出すことだという。この盲人がハンカチノキを触るのが初めてであれば、この者の知る白色に、この花の感触が加わるのであろうか。盲人の男は花を女に戻し、女は元の木の下に屈(かが)んで置いた。盲人は意思があって植物園に来たのか、あるいは付き添う娘のような女に連れられて来たのかは、二人の様子では分からない。盲人は、植物も、その植物が生えている世界のすべてを見ることが出来ない。このことは、目が見える者がその目を閉じただけでは分からない。盲人も、目が見える者が塀によって世界が半分になる気安さは、恐らく分からない。が、盲人も手を触れながら塀を伝って歩くのであれば、その二度目には、気安さを覚えることがあるのである。

 「テレビが毎日歌や踊りやお話をしてくれる。こたつはとてもあたたかい。眠くなるとこのまま横になって寝る。いい人になろうと思う。いい人に為るといい夢ばかり出て来る。」(日本画家不染鉄から倉石美子に宛てた昭和四十年(1965)十二月六日消印の絵ハガキの言葉)

 「葛尾の復興拠点認定 22年春の避難指示解除目指す」(平成30年5月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)