借景庭園でいの一番に名の挙がるその庭に面した濡れ縁を、三人の女が仏殿の角を曲がって一人ずつ現れ、その端まで歩いて行く。先頭の老婆は九十手前の様子で杖を突き、その後ろを七十ほどの女、六十ほどの女が続き、前の二人の面立ちは目鼻に似たところがあるが、最後の一人はどちらにも全く似ていない。三人の身なりは、畏(かしこ)まったものではないが、普段着を外出に着替えたようなものを着ている。戸口に立つ老婆を残して二人が内に入り、室の隅の仏壇に向かう。老婆がそのどちらかに声を掛け、杖を握らないもう一方の手で提げたバッグから畳んだ千円札一枚を取り出し、顔の似た女に手渡す。二人は一瞬顔を見合わせ、軽い困惑と軽い戸惑い表情を浮かべる。その軽い困惑は、老婆に金を出させたことによるもののようでもあるし、その千円という額によるものかもしれない。老婆に似た女が浄財の千円を仏壇の前の箱に納め、並んで手を合わせ、戸口の老婆は立ったまま戸に身を預けるようにして、手を合わせる。が、どの者もそう熱心一念という様子ではなく、型通りに手を合わせ終えると、老婆に似た女は老婆の足元まで戻って、腰を下ろし両膝を九の字に折る。最も若い女は、その二人から二三歩離れた室の中ほどで膝を崩すようにして座る。老婆は、仏殿の角の柱に立ったまま凭れ掛かり、庭に顔を向ける。が、老婆の立つところからは、この圓通寺(えんつうじ)の庭の売りである比叡山の姿は見えず、傍らの顔の似た者の位置からも、やや離れて座るもう一人の者の位置からも、恐らくは見えない。塀のように低く刈り込んだ生垣と、数本の杉檜の向こうにある比叡山を見ることが出来るのは、室の中央から右寄りであり、この三人は、見慣れた者として、いま右寄りにいる庭を見慣れぬ者らのために話すのを控え、恐らくはその位置に留まっているのである。庭は長方で、平らで、半ば禿た苔が覆い、左寄りの生垣に沿って丈の低い石が、島の様で並べられている。が、その石の幾つかは三分の二を土の中に埋められているという。比叡山は、枝を打った杉檜の間に、そのなだらかな稜線を左右に伸ばしている。圓通寺の元(もとい)は、後水尾法皇の山荘幡枝御茶屋である。後水尾法皇は、後に修学院離宮比叡山の麓に造り、足の遠のいたその茶屋を寺にして残すことを思いつくが、徳川幕府はそれを認めなかった。「若狭の国主、京極忠高の室が寛永十四年(1637)六月十二日忠高の卒して後、この地に寡居していた。これが圓通寺の開祖円光院瑞雲文英尼である。円光院は園左大臣基任の第三女で、後光明帝の母である「壬生院」の姉であり、霊元天皇の母である、新広義門院国子には叔母に当たる。「新広義門院」は元「新中納言局」と号し、園基音公の女(むすめ)で、円光院と同家であったため、法皇夫妻は「高貴宮(あてのみや)」(霊元天皇)の御養育を文英尼にお命じになった。───幡枝御茶屋が、禁中よりの御祈禱所として、また、主人若狭守忠高の菩提を弔うための寺としたい円光院の願いが幕府を通ったのは「東福門院」に代って霊元天皇の母親役を文英尼が勤めたことによってである。また、文英尼がかつて京極忠高に嫁したのは、先妻が卒したためで、その先妻が徳川秀忠の女(むすめ)、東福門院和子の姉初姫であった。すなわち文英尼は東福門院の義理の姉にも当たる。文英尼は東福門院にも、幕府にとっても、また天皇家にさえ大切な人であったのである。文英尼は林丘寺の元(玄)瑤尼のすぐ上の兄君である輪王寺門跡守澄法親王などの斡旋により、東福門院の崩じた翌年、延宝七年(1679)妙心寺の百九十六世禿翁周禅師を請じ、これを開山としてついに寺とすることができた。霊元天皇は圓通寺に年々三十石あて扶持されることを約されたが、翌延宝八年(1680)後水尾法皇が八月十九日崩御された後を追って、十一月十一日文英尼もまた七十二歳で寂した。」(「圓通寺の庭」久恒秀治『京都名園記』誠文堂新光社1968年刊)老婆が濡れ縁を辿って仏殿から出て行き、その後に顔の似た女が続いた。もう一人の女が出て行くまでに、暫(しばら)くの間があった。庭に顔を向けて座れば、背になる仏殿の奥の襖に、墨で草木と鳥の絵が余白の多い図柄で描かれている。その痛みの烈しい襖の向こうから女の声が聞こえて来る。その声にはっとしたように、残っていた女が立ち上がり、濡れ縁に出て、姿が見えなくなる。龍安寺の石庭の趣(おもむき)に近い、あるいは趣を真似たこの庭の生垣を土塀に変え、杉檜や他の樹木をすべて取り払った庭景色を想像することで、この庭のこの庭たらしめているものに理解が導かれるという。が、そのような想像を施さなければ、庭たらしめているものへの理解は遠く、危(あや)ういものであるということでもあるのである。石組と平らな苔の地面は素朴である。刈り込んだ生垣も単純なしろものである。が、木の間に見える奥の比叡山はどうであるか。この場所でしか見ることが出来ない比叡山の姿、という時のこの場所は、限定された特長のある場所であるということであり、この比叡山がよく見えるという特長はこの場所として正しいのである。が、その正しい、真っ当な景色をそのまま作り庭に置くとどうなるか。真っ当な山の姿は、その真っ当さ故(ゆえ)に忽(たちま)ちに絵に描いたような俗物に早変わりしてしまうに違いないのである。この真っ当であることが危ういのであり、それがため、この庭を作った者は、山を遮る影のように杉檜を植え、その危うさから逃れようとしたのである。例えば、室の奥の襖まで見る位置を移して見れば、杉と檜に数本の室の柱が加わり、その真っ当な危うさは、揺るぎない景色となって浮かび上がって来るのである。奥の襖の向こうの声は、母の足の悪さを訴え、一人暮らしの生活が困難になりつつあると云う。老人ホームに入ってもらえば、私たちは安心なんですとも云う。このようなことを云う女の声が、比叡山の借景と重なるのであるが、とちらも何ほどの関係もない。仏殿を出て、廊下伝いに裏側に回ると、中庭を挟んだ向こうの、障子戸を半分開けた室に、先ほどの老婆に似た顔の女と、傍らで作務衣の坊主頭の男が片膝を立て話を聞いている姿が見える。繰り返せば、この寺の庭の景色と、母親の行く末を案じ訴える女の声とに関係はない。が、その女の声は、圓通寺という寺が己(おの)れの胸の内を自(みずか)ら発している声として、もう一つ別の柱の影のような一筋を、庭から見える比叡山の前に加えたのである。

 「このほかに何という木であったか、五倍子(ふし)に似た実のつく木があった。五倍子よりはずっとかたくてかつ大きく、一カ所に丸い孔があいており、中はからっぽで、そこへ唇をあてて吹くとヒューヒューと鳴った。ホロブエと言った。十歳ばかりのころこのホロブエを美しくみがいて宝物のように持っていたことがあったが、どうしたものかなくなってしまった。そしてその木もお宮を再建するとき伐られてしまった。」(宮本常一『家郷の訓』岩波文庫1984年)

 「震災関連「自殺」は100人超 福島県最多、避難生活の長期化影響」(平成30年6月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)