安永九年(1780)に世に出た『都名所図会』の神泉苑の記述を読めば、その文間に隠れ潜む事柄があるとしても、この池にまつわる来し方のあらましの元(もとい)は知ることが出来る。「神泉苑御池通大宮の西にあり。(真言宗にして、東寺宝菩提院に属す)善女竜王社(ぜんによりゆうわうのやしろ)は池の中島にあり。(例祭は八月朔日なり)二重塔は大日如来を本尊とす。池を法成就池(ほふじやうじゅいけ)といふ。むかし大内裏の時は、封境広大にして天子遊覧の地なり。(『拾芥抄』に曰(いは)く、二条の南、大宮の西八町、三条の北、壬生の東云々)池辺には乾臨閣を営みて、近衛次将を別当職とし、庭中には巨勢金剛石(こせのかなおかいし)を畳みて風光を貯(たくは)ふ。守敏は諸竜を咒(じゅ)して瓶中(へいちゆう)に入れ、弘法大師は天竺無熱池の善女竜神を請じ、天下旱魃(かんばつ)の愁ひを扶(たす)けて叡感を蒙(こうむ)り、小野小町も和歌を詠じて、雨を降し、鷺は宣旨(せんじ)をうけて羽を伏せ蹲(うづくま)れば、官人これを安々と捕らしむ。帝(みかど)御感(ぎよかん)のあまり五位の爵を賜はりしもこの所なり。また白河院御遊の時、鵜をつかはせて叡覧あるに、鵜この池中に入りて金覆輪の太刀を喰うて上りけり。これより銘を鵜丸といふ。崇徳院に伝はり、六条判官為義にこの御剣を賜はりける。祇園会もこゝに始り、弘仁三年(812)には嵯峨帝この苑中に於いて花の宴あり。これ花宴の始りなり。───星霜漸く累(かさ)なり、遂に建保(1213~18)の頃より荒廃に及ぶ。承久の乱(1221年)後には武州の禅門(北条泰時)、築地を高うし門(かど)を堅めて修造ある。その後また荒れて旧跡幽(かすか)なりしを、元和(1615~24)の頃、筑紫の僧覚雅といふ人、官に申して再興し、真言霊場となす。北野右近馬場、この神泉苑等は纔(わづか)なりといへどもこれ大内裏の遺跡なり。」延暦十三年(794)の平安京造営に伴い、大内裏の位置から南東にあった湧水の池と周りの森を、天皇皇族の行楽の場に整備したのが、神泉苑の始まりであるが、旱魃となった天長元年(824)、苑は新たな意味を持つ場となる。淳和天皇の命で、東寺の空海と西寺の守敏が、旱(ひでり)でも水の枯れないこの池の辺で雨乞いの呪力を競い、空海が解き放った善女竜神が天に昇り、全土に遍(あまね)く雨を降らせることが出来たとして、神泉苑は雨乞い、あるいは湧水の清きによる疫病祈禱の場所となるのである。平安の世が終わり、政治権力が天皇朝廷から武士の手に移ると、京の中心にありながら苑は顧みられることもなくなり、死体、糞屎の捨て場と成り果てるのであるが、時下り、関ケ原の戦で勝った徳川家康は、この荒れ廃れた神泉苑の北の大部を削るように御所に門を向けた二条城を建て、その湧水は堀の内を巡ることとなり、残りは東寺の寺地となって、いまも平安禁苑の片鱗を見ることが出来るというのである。神泉苑は、空海が呼び寄せたという善女竜神を祀る小島に架かるあざとい朱色の太鼓橋と、苑の端の料亭が浮かべている、舳に竜の頭を付けた舟を除けば、周りに鬱蒼と桜が繁る何の変もない池である。その日、胴長を履いた男二人が腰まで池の水に浸かり、大きなたも網で水に浮いた塵や枯葉を掬っていた。『都名所図会』の挿絵にはない南門の石鳥居を入って、池を右手に回った奥に建つ鎮守稲荷社に幾本かの色の薄いアジサイが咲いていて、その葉蔭に「幻生童子、元禄十五午年」と彫られた、頭の欠けた五十センチほどの墓石があるのに、足が止まった。その並びにあるもう一つの墓には「──尼、文化元甲子」と彫られている。幻生童子とは、妙に作り物めいた名のようであるが、墓のいわれは分からない。この池で命を落とした子どもの供養に、その親が建てたものかもしれない。生きていたことがまぼろしであったような我が子。本名を明かさなかった森田童子の訃報があった。命終は四月二十四日である。六十五歳である。森田童子は、唄うつもりはなかったと云った。自分が作った歌を、誰も唄うことが出来なかった、あるいは誰も唄おうとしなかったので、仕方なく唄うことになったのであると。ある日の夜、彼女の歌を聴いた帰り、中央線西荻窪駅のホームで、ついさっきまでライブハウスで唄っていた彼女がぽつんと電車を待っていて、サインを貰うことを思いついたのであるが、紙の持ち合わせもペンも無く、持っていた文庫本に、彼女のボールペンで「ぼくが君の思い出になってあげよう。」と書いて貰ったのである。森田童子は、あるいは彼女の言葉は、センチメンタルに過ぎた。生きて、寝て起きて、飯を喰うならば、センチメンタルという心情はあっさり途切れてしまうか、跡形もなく消えゆくものなのである。その消えゆくものに、森田童子は自ら唄うことで責任を負ってしまったのである。あの声は、その果てのない不安の戦(そよ)ぎである。

 「私は何のために、あの船酔いの苦しい旅に出かけたのだろう。それも今では思い出せない。その頃は何やら思い屈することばかり重なって、都会生活にうちひしがれそうになっていたのであろう。今ではうすぼんやりしたそんな記憶だけが残っている。そこいらに着物を脱ぎすてて、脱ぎすてたのを風にとられないよう石で押えて、そうして向き向きに臥(ね)そべりながら、一月の海の中に、ぼんやりつかりながら話合った島々の老人たち、それから藤本さん、彼らも恐らくもうこの世界の人ではあるまい。」(「式根島三好達治三好達治随筆集』岩波文庫1990年)

 「【原発ゼロへ 第2原発廃炉表明】突然表明に波紋 憶測行き交う」(平成30年6月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)