御室仁和寺(おむろにんなじ)と呼ばれる大内山仁和寺は、仁和四年(888)の本堂落成であるが、その歴史は、上皇となった後の、昌泰二年(899)に出家し第一世となった宇多法皇から始まる。仁和寺第二世性信入道親王は、三条天皇の第四皇子であり、第三世覚行法親王は、白河天皇第三皇子である。天皇皇子が出家し門主となる門跡はこの仁和寺から始まり、門跡となった皇子が天皇を継げず、結婚も出来ず、その血が断たれることになることもこの門跡仁和寺から始まるのである。庶民と係わりのない、皇族貴族のために国家の鎮護を掲げた真言門跡寺院は、門跡寺院であるが故に、世に示すその権力が衰えれば財力も衰え、人材もまた衰え、吉田兼好は近くに住んで目にした仁和寺坊主の仕出かした失敗滑稽の幾つかを、『徒然草』に書きとめている。応仁・文明の乱(1467~1477)で戦火を蒙(こおむ)った仁和寺は伽藍の全てを失い、その跡地はそのまま荒野となり、所を変え堂宇一つとなっていた門跡仁和寺が再興するのは、第二十一世覚深入道親王の時であり、後水尾天皇の兄である覚深入道親王は、後水尾天皇中宮和子の兄である徳川家光に訴え、紫宸殿、清涼殿、常御殿を御所から貰い受け、それぞれ金堂、御影堂、御殿とし、新たに五重塔を建て、荒野は門跡寺院の見栄えを取り戻すのであるが、慶応三年(1867)の王政復古伏見宮第三十世純仁法親王が還俗し、皇室と仁和寺の関係は終わる。翌年鳥羽伏見の戦いが起こると、仁和寺嘉彰親王となった純仁法親王は、その軍事総裁となり、仁和寺霊明殿の水引で作った「錦の御旗」を薩長軍の先頭に掲げ、会津・桑名軍を賊軍に貶(おとし)めるのである。昭和二十年(1945)一月二十五日、三度首相となった近衛文麿が、聖戦完遂祈願と称して仁和寺霊明殿を参拝し、仁和寺の西に己(おの)れが建てた陽明文庫虎山荘に第三十九世岡本慈航を誘い、招いていた岡田啓介元首相、海軍大臣米内光政と話し合いを持ち、翌二十六日には、昭和天皇の弟高松宮が同じ場所で近衛文麿と食事を共にする。この者たちの口にした事柄は、日本の無条件降伏であり、皇室維持のため、責任を追及されるかもしれぬ昭和天皇を落飾させて金堂に住まわせ、仁和寺門跡を復活させることである。が、この国の歴史はそうならず、原爆二つを列島に落とされ、昭和天皇は、「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」と語って降伏し、大政翼賛会総裁だった近衛文麿は、A級戦犯者となり、収監出頭期限の日の朝、青酸カリを飲んで自殺する。京福電鉄北野線御室仁和寺駅は、線路の両側に蔽いがあるだけの小さな停留の駅であるが、降りて、道が上る先に見える石段の上の仁和寺のニ王門を目にすれば、寺と駅の関係を作ることに高度な配慮の手が入っていることが分かる。それは見覚えがありながら新鮮に思える、いささか心が動く光景である。ニ王門を入った境内は広々と何もなく、先にある中門から振り返ってニ王門を見れば、その何もなさに懐かしさを覚えるのであるが、部外者を寄せつけぬ虎山荘を、西の木の間に垣間見れば、ここは紛れもなく昭和が息する生々しい場所であり、まもなく平成が終わるという皇室の事柄は、暦の最初の文字が変わることではなく、今でも切れば血の吹き出る事柄なのである。

 「中村吉治博士は「古代日本の土地所有制について」という論文で、次のようにいわれる。すなわち、種の発芽や成育をさまたげるだけの目的で「しきまき」(頻蒔、二重に播種する。天津罪あまつつみ)が行なわれるとすると、これはすこし手がこみすぎている。もっと簡単で有効な方法がいくらでもあるはすである。そこで、種をまくことによって、その土地の耕作権を得るという習俗がもしあったとすれば、耕作権のうばいあいには、当然に人のまいた上にまた種をまくということ、つまり「しきまき」という行為が生じうる。そして、それは一般的にタブーとされておかなければならない重大な行為である。こう解釈する方がすなおな解釈であろう。中村博士はこういう風に解釈されることによって、この「しきまき」が罪とされた背景に、土地の所属・耕作が、そのように動くもの、きまった所有になっていないもの、という事実を仮定されるのである。」(虎屋俊哉『延喜式』日本歴史叢書8吉川弘文館1964年)

 「東京電力内に「横断チーム」組織へ 第2原発廃炉費用など検討」(平成30年6月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)