ジム・ジャームッシュの日本の公開が2017年の映画『パターソン』のパターソンは、アメリカ・ニュージャージー州にある市の名であり、市営バスの運転手をしている主人公の名でもある。パターソンは、朝六時過ぎに目を覚ます。同じベッドの傍らに妻が寝ている。パターソンはひとり、椅子の上に畳んで置いた着替えを持って寝室を出て行き、台所で牛乳に浸したシリアルをスプーンですくって口に運ぶ。ふと目についたマッチの箱を手に取り、つくづくそれを眺める。ランチボックスを手に提げ、パターソンは、勤め先まで歩きながら詩を考える。それはこんな風な詩である。「我が家にはたくさんのマッチがある。常に手元に置いている。目下お気に入りの銘柄はオハイオ印のブルーチップ。でも以前はダイヤモンド印だった。それは見つける前のことだ、オハイオ印のブルーチップを。そのすばらしいパッケージ、頑丈な作りの小さな箱、ブルーの濃淡と白のラベル。言葉がメガホン型に書かれている。まるで世に向かって叫んでいるように。「これぞ世界で」「最も美しいマッチだ」───」パターソンは出来つつある詩を、バスの運転席でノートに書き、発車の時刻が来れば中断するのであるが、頭の中では言葉は継続している。バスが町に出れば、乗客の乗り降りがあり、乗客たちの会話がパターソンの耳に入る。が、カメラが捉えている通りの様子はどこか不安定であり、不安気な音楽がその流れる景色に重なり、これは多分運転手パターソンのハンドルを握る緊張を表しているはずである。パターソンの妻は仕事を持たず、部屋のいたる所を白と黒の模様に塗り替えるようなことで時を過ごし、パターソンの昼飯に添えたオレンジに無数の目玉を描くような、どこか浮世から離れたような女である。パターソンは仕事を終えると真直ぐ家に帰り、妻の作った夕食を食べ、飼い犬のブルドッグの散歩がてら馴染みのバーに寄ってビールを飲む。これがこの男の一日であり、翌朝も六時過ぎに起きて、ひとりで朝食を摂り、会社までの道々詩を考え、市内を巡るバスのハンドルを握り、昼は滝の見える公園で食事を摂りながら、また詩を考える。「僕のかわいい君、僕もたまにはほかの女性のことを考えてみたい。でも正直に云うと、もし君が僕のもとを去ったら、僕はこの心をずたずたに裂いて、二度と元に戻さないだろう。君のような人はほかにいない。恥ずかしいけど。」妻はパターソンの詩の才能を疑わず、世間に発表しろと云うが、パターソンはそのつもりがない。が、そのつもりがないことの理由を妻が理解出来るように説明することは出来ないと、パターソンは思っている。この、妻は恐らく理解できないだろうという妻との隔たりを思うことでなお妻を思いやる、パターソンを演じるアダム・ドライバーの表情が、この映画のすべてである。ジム・ジャームッシュは時折り風景を、パターソンの勤める煉瓦造りのバス会社の辺りを、陰影を巧みに夢の如くに描いてみせ、パターソンという町はパターソンという男の頭の中にある想像の町なのかもしれぬという思いを見る側に抱かせる。映画のはじまったその週のある日、妻は自分の夢を叶えたいとパターソンに云う。パターソンはやや戸惑い、どの夢かと遠慮気味に妻に訊く。パターソンはそのように「夢見る」妻を慮(おもんばか)り、慮る必要があると、妻をそう理解している。妻は白黒模様のギターが欲しいと云い、ギターを覚えてカントリー歌手になる夢を叶えたいと云う。妻を慮ればパターソンは、だめであると妻に云うことは出来ない。二人の関係がもし壊れることがあれば、妻も壊れ、自分も壊れて仕舞うかもしれないと思うことが、パターソンは何より怖ろしいのである。波風を避け、波風を立てぬパターソンの慎重な暮らし振りは、外からは味気なく息苦しく思えるかもしれない。が、それは妻を守り、詩を書くことを守るためのパターソンのただ一つの方策なのである。しかし波風は起こる。バーの常連の若い黒人が女に振られた腹いせに、バーで女に拳銃を向け、果ては己(おの)れの頭に向けたところでパターソンがその腕に掴み掛かって男を床に押し倒す。が、その拳銃はおもちゃだった。そうと分かってもパターソンは笑うことが出来ない。パターソンの運転するバスが故障し通りで動かなくなって仕舞うという波風も起こる。が、パターソンは冷静に乗客を誘導し、事態は深刻には至らない。最大の波風は、その週末に起こる。妻が焼いたカップケーキがバザーで売れ、その祝いに夜二人で映画を観て家に戻ると、パターソンの詩のノートがブルドッグによってズタズタにされて仕舞っていたのだ。世に出すためコピーを取っておくよう、妻は云っていたのである。その妻には、慰める手段が何もない。パターソンは「ただの言葉だ」と云うが、それは本心ではなく、動揺は隠しようもなく、自分が書いてきたすべての詩を失ったいま、「心をずたずたに裂いて、二度と元に戻さないだろう。」と書いたパターソンの詩のフレーズが見る者に蘇る。パターソンはひとりで家を出、毎日昼飯を摂りながら詩を考えていた滝の見える公園に来て、日本からやって来たという永瀬正敏扮する詩人に出会う。永瀬が、偶然にもパターソンが敬愛する詩人の詩集を開いたところで、二人は言葉を交わしはじめる。もしかして詩人かと永瀬が訊くと、パターソンは自分はバスの運転手であると応え、永瀬は、バスの運転手は詩的だと云う。が、二人の会話はどこかぎこちない。この永瀬扮する詩人を、ジム・ジャームッシュは固苦しく演出している。パターソンという人物は、恐らく馴れ馴れしい世慣れした者を受け入れることはない、とジム・ジャームッシュはパターソンのために思った。あるいはパターソンは、ジム・ジャームッシュにそう思わせる人物として意思を持ち生きてきたのである。自分の詩を失ったばかりであることを知らない永瀬は、出会った記念のようなつもりで、持っていた一冊の真新しいノートをパターソンに贈る。これは見知らぬ日本人の詩人からの贈り物であるが、ジム・ジャームッシュからパターソンへの励ましのようにも見てとれる。パターソンはその励ましに応えるように、白いページに新しい詩の一行を記し、妻と過ごす生活に戻って行く。「その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終わって行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。」(「雨瀟瀟」永井荷風『雨瀟瀟・雪解他七篇』岩波文庫1987年刊)これは晩年を迎えた永井荷風祈りである。映画『パターソン』は、この世にいないような夫婦、その意味で理想のような夫婦を描いているというものいいでは、この映画を観たことにはならない。これは特別な映画である。ジム・ジャームッシュは、自分の作った登場人物に対して祈っている。バーの拳銃事件もバスの故障も大事に至らないのも、ジム・ジャームッシュ祈りである。パターソンが飼い犬の仕業によって詩を失うことは、一つの試練であるが、それを乗り越えさせ、これ以上この先この夫婦に不幸が起きないようジム・ジャームッシュは祈っている。そのようにジム・ジャームッシュはこの映画を撮っている。

 「いつもぶらぶら暮らすように運命づけられていたわたしは、それこそなんにもしなかった。何時間もつづけて窓の外の空や、鳥や、並木みちを眺めたり、郵便でとどいたものを残らず読んだり、眠ったりしていた。ときには家を出て、夕方おそくまでそこらをぶらつくこともあった。」(「中二階のある家」アントン・チェーホフ 松下裕訳『チェーホフ小説選』水声社2004年)

 「福島県特化のプロジェクト 環境省、支援策をパッケージ化」(平成30年8月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)