白河夜船(しらかわよふね)という言葉がある。この言葉は四つの漢字から成り立っており、それぞれの漢字にも、その漢字を組み合わせた言葉にもそれぞれの意味を持ち、しらかわよふねといま読めば、白い河と夜の船あるいは白い河に浮かぶ夜の船という意味であるが、眠り込んでいた間のことをまったく知らない、覚えていないという意味であると、世にある辞書は紐解く者に教える。この言葉の場合意味があるというよりも、意味が込められているということであり、水位七メートルという数字が、ある川ではその七という数字に氾濫の危険を及ぼすという意味が込められていることと同じである。その者がある者に、京に行ってあちこち見て廻ったと云うと、ある者は京のしらかわはどうだった、どんなところだったと訊き返し、その者は、船で夜通っただけだから見ていない、分からないと応える。辞書の云いは、その者は京都に行ったことはなく、ある者に訊かれたしらかわを川だと思い、夜船で通ったと嘘の言い訳をしたというのである。岩波広辞苑は、この遣り取りの元を俳諧指南書『毛吹草(けふきぐさ)』によるとしている。その『毛吹草』(岩波文庫1971年刊)の巻第二にある「世話(※俚諺りげん、ことわざ)古語」にはこうある。「しら川よぶね 見ぬ京物がたり」二つの言葉は隣り合わせに置かれ、それぞれの意味の説明はなく、この言葉の前後には、次のようなことわざが並んでいる。「三がいにかきなし 六だうにほとりなし をんなに家なし 壁に耳 垣に目口 岩も物いふ 君は舟臣は水 いぼあひもち げすない上臈(しやうらう)はならす たのむ木(こ)のもとに雨もる かひかふ虫に手をくはるゝ まごかはんよりゑのこかへ おなしあなのきつね すまひもたつかた 兵庫のものは御免ある 一樹(じゆ)のかげ一河(が)のながれ 一むらさめのあまやどり 袖のふりあはせも他生(たしやう)の縁 燈台もとくらし 遠目はかりの箒木(はゝきゞ) 秘事(ひじ)はまつげのごとし すきにあかゑぼし たでくふむし めんめんのやうきひ きによりてほうをとけ あはぬふたあれはあふふた有 すつる神あれは引(ひき)あぐる神有 こせうまるのみ しら川よぶね 見ぬ京物がたり 国にぬす人 家にねすみ 僧に法(ほう)あり 狸ねいり 鼠のそらじに 船頭のそらいそぎ」よくある話として、行ったことのない者がさも見て来たように京の都を語ることが「見ぬ京物がたり」であり、「しら川よぶね」は、その見ぬ京物がたりの一つであると、ここでは知識をつけ足している。「白川は江州(こうしゅう ※近江国)との国さかいの山中村の奥に源を発して、京都盆地に流れこむが、いまは鴨東の山ぞいに静かなながれをはこんでいる。そのながれにそって、白川の地名は、その流域全体を指していたのだ。そのなかでさらに三条の北で一部が賀茂川流入するまでを北白川、それよりさき南へのながれを南白川とも称していた。しかし地名としては源に近い白川村に、北白川の名が与えられて、白川は白河と書かれて、今の岡崎のあたりをさすようになったのだ。白河の地は、藤原頼通の伝領した別業の地であったが、「天狗などむつかしきわたり」といううわさはあったが、ふかい緑の森のなかをその名も白川の清らかな水を見出した貴族たちが、その邸館や社寺をつぎつぎに立てて行ったことも無理ではなかった。京のたてこんでくる町をのがれて、白河に移り住む人も出てきたのである。このような新しい白河の位置を決定的にしたのは、白河院にはじまる院政政権の院庁が、この付近に定められたことであろう。そしてその付近には、法勝寺をはじめとする六勝寺など、かずかずの寺々が建てられた。おそらく当時の人々は、商業の町の発達とともに政治の都は白河に移ったとも考えたであろう。京・白河という並称が行われはじめたことでも、そのことが察せられる。」(『京都』林屋辰三郎 岩波新書1962年刊)白川とは、川の名であり、またその流域の地名でもある。見たこともない京の都であっても、白川という地が白川という川の流域の一部を指しているということを知っていれば、訊かれたしらかわがそのどちらであっても、夜船で眠っていて見ていないという言い訳は成り立ち、知らないと応えたことが、必ずしも行っていないとする理由にはならなくなる。改めて広辞苑の云いを書き写せばこうである。「(「毛吹草」によれば、京を見たふりをするものが、京の白川のことを問われ、川の名と思って、夜船で通ったから知らぬと答えたことからという)熟睡して前後を知らぬこと。」白河夜船に込められている、熟睡して前後を知らぬことという意味は、実際に京に行った者が夜船で寝過ごし、白川という川も土地も見なかったので知らないと云ったとしてもあり得ることである。京において、しらかわを川だと思うことは誤りではない。が、行ったことのない理由とされるのはどうしてなのか。『京都の地名』(平凡社1979年刊)にはこうある。「承応二年(1653)の新改洛陽並洛外之図によると白川本流が廃絶しており、それに代わって白川の支流であった小川(こがわ)が新たに白川として登場している。従って現在、平安神宮(現左京区)前の慶流橋から疎水と分れて南へ流れ、知恩院古門前(現東山区)を西に流れて四条通の北で鴨川運河に合流する川も白川とよぶが、これは昔の小川であり、かつての白川本流ではない。」この新改洛陽並洛外之図の図面情報を信じれば、白川の流れが消えてなくなった時期があるということになる。そうであれば、しらかわを川だと思って夜船で寝ていて分からないという云いが嘘であるとして、「白河夜船」が京を見たふりをした者の話として言葉が出来たということはあり得ないことではない。元禄三年(1690)刊行の『名所都鳥』は、白川をこう記している。「白川 愛宕郡。水上は、北しら川南禅寺の奥より出て、寺の門前より西へながれて粟田白川橋の下、知恩院古門前より大和橋へながれ三条と四条の間へ出たり。又白川といへる所、きよくしづかにして、仙客(せんかく ※仙人、鶴)も遊びつべき気色也。まことに和朝の桃源ともいふべし。むかし此所に兵乱おこる時は、宇治の里人妻子をかくす所なり。そこへ行に坂ひとつ有。道きはめてほそく、一人此路をふせぐ時は、たとへたけきものゝふもたやすく入きたる事なし。今は土民の家もちかくかまへて、卯月頃の茶つみいと興有。又白川の名みちのく、筑前の奥にもあり。今爰(ここ)にいふは京の白川也。」ここでいっている白川は、小川が変じた白川のことであり、加えて宇治にも白川という名の地があるといい、その白川の地はいまも白川の地名で茶畑として残っている。その者は、しらかわを川だと思った。白川はその名の通り、水の澄んだ涼しげな川なのだろう。そのような川を夜船に乗って、一杯ひっかけて、うとうとしてそのまま横になったら、どんなにか心地良いことだろう。京にはそのような川があるに違いない。知恩院古門の手前の白川に、一本橋と呼ばれる石の橋が架かっている。二枚組の御影石を六枚渡した幅六十七センチの橋である。比叡山千日回峰行を了(お)えた修行者が、粟田口尊勝院にその報告のため入洛の時、はじめて渡る橋であるという。一本橋の長さは十一・七メートルあり、組になった石はわずかにくの字に内に傾いている。すぐ傍らには車の通ることの出来る橋が架かっており、一本橋は日常生活に欠かせないという存在ではなく、その意味では無くしても差し支えない橋である。が、この橋が何度か架け替えられて残るのは、橋そのものより、いまも水底薄く流れ続けている白川に対する周りの者の執着の思いがあるからに違いない。一本橋を渡る足元はまことに心細い。これは千日修行を経た者こそが、改めて思い知るべき心細さなのかもしれない。

 「なぜそうしたかと云うと、アメリカの海事法で、漂流している船に会った時は人を救助したあと、船体をその場で燃やしてしまうことになっている。もしそのまま放っておくと、あとで他の船が見つけた時、空船だということを知らずに自分の走っているコースから離れて救助に来るから、それだけ大きな迷惑をかけることになる。それで乗組員だけ救けて、船は火をつけて海上で燃やしてしまうのです。」(『浮き燈台』庄野潤三 新潮日本文学55「庄野潤三集」新潮社1972年)

 「津波に備え第1原発「防潮堤」増設検討 北海道東部沖地震想定」(平成30年9月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)