洛西小倉山にある二尊院のニ尊は、その本尊である釈迦と阿弥陀のことである。中国唐の善導の『散善義』に、「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」という喩(たと)え話がある。「人が西に向かって行くと、忽然として二つの河に出会う。火の河は南、水の河は北にありそれぞれ河幅は百歩、深くて底無く、南北には無限に続く。両河の中間に広さ4,5寸の白い道があって、両側から水と火とが絶えず押し寄せている。曠野(こうや)に頼るべき人もなくひとりぼっちで、しかも群賊悪獣が後ろから迫っている。引き返しても、立ち止まっても、前に進んでも死を免れない。そこで河にはさまれた白道を進んで行こうと決意すると、たちまち東岸に声があって、「汝、ただ決定(けつじょう)してこの道を尋ね行け。必ず死の災難はなからん。もしとどまれば即ち死なん」と勧め、また西岸の対岸から、「汝、一心正念して直ちに来たれ。我れ、汝を護らん」と呼ぶ者がある。東岸の群賊たちは、この道は嶮悪で死ぬに間違いないから我れ我れの所へ戻れと誘う。しかし、その誘いに一顧だもすることなく、一心に白道を直進し、西岸に達して安楽の世界に至り、諸難を離れ、善友とともに喜び楽しむことができたという。」(『岩波仏教辞典』第二版2002年刊)この東岸の声の主が釈迦で、西岸の声が阿弥陀である。フランツ・カフカに「掟の門前で」という掌篇がある。このような話である。「掟の門前に、ひとりの門番が立っている。この門番のところへ、ひとりの男が田舎からやって来て、掟のなかに入れてくれと頼む。けれども門番は、いまは いれてやるわけにはいかぬと言う。男はよく考えた上で、それでは のちほど入れてもらえるのかと、尋ねる。「それは ありうる」と、門番がいう、「しかし、いまは だめだ」 掟にいたる門は いつも開いているし、門番は脇に退いたので、男は身をかがめて、門越しになかを見ようとする。門番はそれに気づいて、笑いながら言う、「そんなに見たいなら、やってみるがいいさ、入るなという わしの禁を破ってでもな。ただし言っとくが、わしは強いぞ。でも、わしは いちばん下っぱの門番にすぎん。ところが、広間から広間に入るごとに いくらでも門番がいてな、つぎつぎに強くなるのだ。三番目のは見ただけでも、わしでさえ とても耐えきれん」 こんなに厄介なことだとは、田舎から来た男は 夢にも思ってはいなかった。掟は、いつでも誰でも 入っていいもののはずじゃないか、彼はそう考えたが、いま、毛皮のマントを着た門番を、彼の大きなとんがり鼻を、長くて 薄くて 黒い韃靼(だったん)のひげを、仔細に見ると、この様子では、入れてやるという許可をもらうまで 待つほうがいいと、決心をする。門番は彼に、床几を与え、門の脇のところに坐らせる。そこに彼は、何日も、何年も坐っている。入れてもらおうと、いろんなことを試みる。そして嘆願を繰り返しては、門番を疲れさせる。門番はしょっちゅう彼に ちょっとした訊問をし、故郷のこと、その他あれこれのことを 根掘り葉掘り尋ねる。しかしそれは、お偉方がするのとおなじ 気乗りのしない質問である。そして決まって最後には、まだ入れるわけにはいかぬと繰り返す。男は今度の旅のために、充分な支度をしてきたのだが、門番に掴ませるためには どんな高価なものでも、なにもかも使い切ってしまう。門番のほうは、なんでも受け取るのだが、受け取りながらこう言うのだ、「わしがもらっておくのは、お前さんのほうでなにか し残したことでもないかと 後悔してはいけないという、それだけのことだ」 何年もの間、男は門番を、ほとんど絶え間なく観察している。他の門番のことは忘れてしまい、この最初の門番が、掟に入るための唯一の障害だと 思われてくる。彼は、不運なめぐり合わせを呪う。最初の数年は、あたりかまわず大声で、のちに年老いてくると、もう誰に言うともなく、ぶつぶつ つぶやいているだけである。彼は子供じみてくる。永年 門番を研究しているうちに、彼のマントのなかの蚤とも知り合いになって、蚤にまで自分を助けてくれ、門番の気持ちを変えさせてくれと頼む始末。おしまいには視力が弱まって、自分のまわりが実際に暗くなったのか、それとも単なる目の錯覚なのかが分からない。それでも彼はいま、闇のなかに一条の輝きが、確乎として掟の扉から差してくるのを見分けている。もう、彼の命も永くはない。死の間際に 彼の頭のなかでは、門前で過ごした永年のあらゆる体験が、これまで番人に まだ一度もしたことのなかった一つの質問に凝集する。彼は門番に、手招きをする。硬直してくる身体を、もう起こすことができないのだ。身の丈の差が、男にとって非常に不利なふうに 変わってしまったものだから、門番は深く彼のほうに 身をかがめなくてはならない。「この期に及んで、まだなにを知りたいのかね?」と、門番は尋ねる、「強欲な奴だ」「みんな、掟を手に入れたいと懸命じゃないか」と、男、「永年の間、わたしのほかに 誰も入れてくれと言って来なかったのは、どうしたことなんだ?」 門番は、男がすでに臨終であることを知り、かすんでゆく聴覚に なんとか届かせようと、大声でわめく、「ここでは誰も、ほかに許可をもらった者はいない。この入り口は、お前さんだけのために 定められていたんだからな。さあ、閉めてくるとするか」(「掟の門前で」フランツ・カフカ 吉田仙太郎訳『カフカ自撰小品集Ⅱ』高科書店1993年刊)法然は、善導の『観経疏』に称名念仏という言葉を見出し、「南無阿弥陀仏」という念仏言葉を唱えるでけで誰をも悟らせ、浄土往生が叶(かな)うとし、その弟子親鸞は、『歎異抄』にこう語る。「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。」あるいは、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死(しやうじ)をはなるゝことあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」あらゆる煩悩苦悩から結局逃れることが出来ない凡人衆生を憐み、成仏させることが阿弥陀仏の本願であり、自分の力のみを信じ、善行を誇る者はその自立の意思を捨てない限り、救いの対象とはならない、と親鸞は云うのである。カフカの小説は寓話であるとして、読む者はその喩えが何の喩えなのかと思う誘惑にかられ、それを読み解くという言葉に置き換え、そういい換えた者が得ようとするのは、その答えである。喩え話である「ニ河白道喩」は、答えは皆の手元に用意されている。「東岸は娑婆世界、西岸は浄土、群賊は衆生の六根(※煩悩を起こす眼・耳・鼻・舌・身・意)・六塵(※執着の対象として心を汚す色・声・香・味・触・法)・五陰(※五縕ごうん、人をつくる元。色縕・受縕・想縕・行縕・識縕)・四大(※地・水・火・風)、火の河は衆生の瞋憎、水の河は衆生の貪愛、白道は浄土往生を願う清浄の心。───現世では釈迦の教法に帰依し、死後は阿弥陀仏誓願を頼みとせよ。」(『岩波仏教辞典』)「ニ河白道喩」の者は追いつめられ、追いつめられるということは、この世に生きて生活を送っているということであるが、南無阿弥陀仏を唱えることで浄土へ往くことが出来た。衆生、生きているすべての者は、自力で死を思い、考えようとする。が、恐らく免れ得ないという答えのほかは思いつかない。考えることは煩悩である。それ以上死を思うな、死のことは阿弥陀仏に委ねよ、と浄土教は説くのである。委ねるという行為も厳密には自力であるが、これは生きよ、生きていよという強い意思を通じてのことにほかならない。カフカの「掟の門前で」は寓話ではない。田圃の畦道に咲く曼珠沙華曼珠沙華という花であることのほかに何も意味しないように、「掟の門前で」の掟は掟であり、門番は門番であり、田舎者の男は田舎者の男である。この男が阿弥陀に己(おの)れの死を委ねたかどうかは分からない。ただこの男の死によって、掟の門は閉ざされたのである。二尊院の墓地は小倉山の中腹にあり、市街を見渡すことが出来る高さにある。墓地には阪東妻三郎が眠っている。生活する地べたよりも高い所にある墓は、身軽になった死の構えのように心地よく目に映る。

 「九十ニ歳になる父は四国の伊予西条の生まれである 幼いころ千葉の伯父の養子にもらわれた それ以来千葉を動かない 最初わたしはわたしの血の半分をはぐくんだ土地をあるいてみたいと思った 四国を好きになったら 自分を肯定できるだろう 四国を嫌いになったら 自分を嫌いになるだろう わたしはわたしを歩くことになるだろうと思っていたが 歩くほどに わたしは父を歩くことになった 四国の子だった父を───こんなに青い風土と別れねばならなかった父の幼年の 代参をしなければならないと思ったのだ 父には関係のない話だが」(「父の国」高橋順子『お遍路』書肆山田2009年)

 「処理水の再浄化「必要なし」 規制委員長、科学的安全性踏まえ」(平成30年10月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)