繁華な市街、高辻通室町西入ル繁昌町に繁昌神社がある。朱の板囲いの立つ、大人が並んで五六人も詣でれば動きが取れなくなるような境内である。その高辻通に面して立つ鳥居の傍らに、京都市が書いた駒札が立っている。「繁昌社(はんじょうしゃ)。繁昌社の祭神は宗像三女神田心姫命(たごりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)である。三女神は、海上交通の神で、商品流通の守護から「市の神」として信仰されている。江戸時代には、功徳院(くどくいん)と号し、真言宗の僧によって管理されていが、明治の神仏分離により神社だけが残った。当社はもと「班女(はんにょ)ノ社」とも称し、牛頭天王(ごづてんのう)の妃針才女(はりさいじょ)を祀り、それが転訛して班女になったと伝える。また、「宇治拾遺物語」巻三の中に、「長門前司(ながとのぜんじ)の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」と記す。この塚が、社の北西方向(仏光通に抜ける小路の中ほど)に現在も残っている「班女塚」だと伝える。後世の書物に、「班女」と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願すると書かれ、縁結びの神として詣でられている他、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は仏教の「弁財天」と解されることから、商売繁盛、諸芸上達の利益があるという。」その繁昌神社が配っている「繁昌神社の由来」には、「伝説では、清和天皇の代(八五八~八七六年)、藤原繁成と言う人の邸宅の庭に功徳池と言う大きな池があったそうです。延喜年間(九〇一~九二二)、その中島に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神(市杵島姫命は、仏教で言う弁財)を勧請したのが、当社の始まりです。」とある。整理をつければ、この場所に藤原繁成という者の屋敷があり、その池の中島に祀っていたのが田心姫命(たごりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)で、もう一つの説として、あるいはそれ以前にこの社に祀っていた牛頭天王の妃の針才女で、その針才女が時が経ち人の口が班女と云うようになり、社も「班女ノ社」と呼ばれ、今度は班女が、繁昌と人の口が変え、社も「繁昌社」となったのであり、この同じ場所を舞台にした話が『宇治拾遺物語』にあり、ここには長門国の元の国司の屋敷があり、亡くなった娘の遺骸がその屋敷から動かず、運び出すことが出来なかったため、この場所に埋めてそのまま塚とし、その塚は班女塚と呼ばれ、この班女が、恐らくはその塚に祀った牛頭天王の妃針才女の転訛であり、後のち「班女ノ社」と呼ばれる社となったということである。この場所には、あるいは時を違(たが)えたかもしれぬが藤原繁成と、長門前司の屋敷があり、藤原繁成の庭の池には三女神が、長門前司の娘の塚には針才女が祀られていたということになり、判然としないのは、この藤原繁成と名の分からぬ長門前司という者との関係である。『宇治拾遺物語』巻三にある「長門前司(ながとのぜんじ)の女(むすめ)、葬送のとき本所(もとのとこころ)に帰る事」はこうである。「今は昔、長門前司(ながとのぜんじ)といひける人の、女(むすめ)二人ありけるが、姉は人の妻にてありける。妹は、いと若くて宮仕(つか)へぞしけるが、後には、家にゐたりけり。わざとありつきたる男もなくて、ただ時々通ふ人なぞありける。高辻室町わたりにぞ、家はありける。父母もなくなりて、奥の方には、姉ぞゐたりける。南の表の、西の方なる妻戸口にぞ、常に人に逢ひ、ものなどいふ所なりける。二十七八ばかりなりける年、いみじくわづらひて、失せにけり。奥はところせしとて、その妻戸口にぞ、やがて臥したりける。さてあるべきことならねば、姉などしたてて、鳥部野へ率(ゐ)て去ぬ。さて、例の作法にとかくせんとて、車より取りおろすに、櫃(ひつ)かろがろとして、蓋いささかあきたり。あやしくて、あけて見るに、いかにもいかにも、つゆ物なかりけり。道などにて、落ちなどすべきことにもあらぬに、いかなることにかと心得ず、あさまし。すべき方もなくて、さりとてあらんやはとて、人々走り帰りて、道におのづからやと見れども、あるべきならねば、家へ帰りぬ。「もしや」と見れば、この妻戸口に、もとのやうに候ひて、うち臥したり。いとあさましくも恐ろしくて、親しき人々集まりて、「いかがすべき」と言ひあはせ騒ぐほどに、夜もいたく更けぬれば、「いかがせん」とて、夜明けて、また櫃に入れて、このたびはよくまことにしたためて、夜さりいかにもなど思ひてあるほどに、夕つかた見るほどに、この櫃の蓋、細めにあきたりけり。いみじく恐ろしく、ずちなけれど、親しき人々、「近くてよく見ん」とて、寄りて見れば、棺より出でて、また、妻戸口に臥したり。「いとどあさましきわざかな」とて、また、かき入れんとて、よろづにすれど、さらにさらにゆるがず。土よりおひたる大木などを、引きゆるがさんやうなれば、すべき方なくて、ただ、ここにあらんとてか思ひて、おとなしき人、寄りて言ふ、「ただ、ここにあらんとおぼすか。さらば、やがてここにも置き奉らん、かくては、いと見苦しかりなん」とて、妻戸口の板敷をこぼちて、そこに下さんとしければ、いとかろやかに下されたれば、すべなくて、その妻戸口一間を、板敷など取りのけこぼちて、そこに埋みて、高々と塚にてあり。家の人々も、さてあひゐてあらん、ものむつかしくおぼえて、みなほかへ渡りにけり。さて、年月経にければ、寝殿もみなこぼれ失せにけり。いかなることにか、この塚の傍近くは、下種(げす)などもえゐつかず、むつかしきことことありと見伝へて、おほかた、人もえゐつかねば、そこはただその塚一つぞある。高辻よりは北、室町よりは西、高辻表に六七間ばかりが程は、小家もなくて、その塚一つぞ高々としてありける。いかにしたることにか、塚の上に、神の社をぞ、一ついはひ据ゑてあなる。このごろも、今にありとなん。」長門の前の国司だったという者に娘が二人いて、ふた親を亡くし、姉は結婚して屋敷の奥の部屋か、あるいは屋敷の奥の別棟に住み、若い時分に宮仕えした妹は、結婚して一緒に住む男もなく、屋敷の妻戸口の室にいて、時々通って来る者とつき合いをしていたのであるが、二十七八の歳で重い病に罹(かか)って亡くなり、姉が近親の者らと野辺送りの鳥部野に着いてみると、棺の中に妹の遺体はなく、まさかと探しながら道を戻ると、なんと安置していた妻戸口の室の中に妹の遺体は横たわっていたのである。参列した者らは恐ろしく思いながら夜を明かし、翌日夜の野辺送りの前にいま一度遺体を棺の中に移し、今度はしっかり蓋を閉めたのであるが、夕方になると妹は棺から出て、また室の床に横たわってしまったのである。集まった者らはまたも恐ろしい思いで遺体を棺に戻そうとするのだが、妹の遺体は土に生えた大木のようにビクともせず、皆は困り果て、妹はここから動きたくはないのではないかと思いを巡らすが、そうであったとしてもこのままにしておけず、室の床板を剥(は)がし、床下に下ろそうと持ち上げると、遺体は軽々と持ち上がり、そうして妹は生まれ育った屋敷の床下に埋葬されたのである。が、姉ら身内の者らは気味の悪い思いを拭えず、屋敷から出て行くと、住む者もないまま屋敷は朽ち果て、浮浪者の様な者も寄りつかず、近隣の者らも気味悪がって越して行き、妹の塚だけがぽつんとこの場所に残り、後にはその上に社が建ち、その塚も社もいまもその場所にあるということである。『宇治拾遺物語』の文中に、「班女塚」という言葉は出て来ない。いまこの目で見ることが出来る赤紫色に染まった岩は、班女塚として祀られていて、高辻通室町にあるこの岩がこの話の通りのものであるならば、後のち何者かがそう名づけたのには違いない。班倢伃(はんしょうよ)という女が中国前漢にいた。成帝の側室として仕えていたが、新たな後宮趙飛燕に成帝の気が移り、班倢伃は身を退かざるを得なくなる。班王况の娘で、倢伃、側室という身分だったこの女のあわれを詩人王維が「班倢伃」と題して詠んでいる。「玉窗(ソウ まど)螢影たり 金殿人声絶ゆ 秋夜羅幃(ライ、薄絹のとばり)を守る 孤燈耿(コウ)として明滅 宮殿に秋草は生じ 君王の恩幸は疏(ソ)なり なんぞ風吹聞くを堪えん 門外に金輿(キンコ、こし)たり 怪しむらくは妝閣(ショウカク、化粧部屋)の閉ずるを 朝より下りて相迎えず 総(スベ)て向かう春園の裏 花間に笑語の声」王の寵愛を失ったような失意の女を、この班倢伃のような女として班女と呼ばれ、あるいは失意の扇を持って舞う謡曲「班女」の知識が、この長門前司の娘を祀った班女塚と呼ばれる元(もとい)の知識である。八坂法観寺に次のような古文書が残っている。「寄進申地ノ事。一所 高辻室町ヨリ北西ノツラ口南北三丈四尺奥東西十五丈四尺。一所 同所口南北五丈奥東西十五丈。右ノ地ハ藤原氏の女。相傳ノ地也。志サシ有ニ依テ。八坂ノ寺法観寺ヘ。永ク寄進申所也。丁圓圓心房ノ時ヨリ。深ク頼ミ申候程ニ。同ク後世菩提ノ爲ニカ子(ネ)テ寄進申候上ハ。イツレノ子ドモナリトモ。違亂ヲ申候ハハ。不ケウノ子タルヘキ也。依テ寄進状如件。貞和二年(1346)七月十八日 藤原氏女 判。常曉 判。」『宇治拾遺物語』の成立は、建保元年(1213)~正久三年(1221)の間とされている。法観寺の文書(もんじょ)の通りであれば、この場所は貞和二年(1346)まで代々藤原家の所有地であったということであり、藤原繁成という者の血筋から下った者である可能性は高いということになる。そうであれば、長門前司も藤原姓の者である可能性は高いのであるが、藤原繁成と同一者であると証明するものは何も残っていない。京都市の駒札書は慎重であり、藤原繁成には一切触れず、繁昌社として祀っている宗像三女神と「班女ノ社」あるいは「半女ノ社」との関係もうやむやのまま放り出している。が、事実はある。法観寺に残る藤原氏の女の寄進状と、四角い石の囲みの上に載る赤紫の岩である。物語はこうである。昔、長門の前国司の藤原何某(なにがし)という者に二人の娘があり、その妹は十代の頃宮仕えをしていたのであるが、恋愛の失意に宮中を辞し、言い寄る者とのつき合いはあっても結婚に至るまでの男が現れぬまま、二十七八の歳に伝染病を患い、悲観して屋敷の井戸に身投げをした。一緒に同じ屋敷に住んでいた姉は外聞を気にし、感染を恐れて一旦引き上げた妹の遺体をまた井戸に戻してそのまま埋め、形だけの空の棺で野辺送りをして、水の使えなくなった屋敷と妹を見捨てるように去って行った。後に前漢の班倢伃を知る者によって、その塚は班女の塚と呼ばれるようになり、藤原何某の末裔がその妹を祀る社を築いた時、八坂神社の祭神である牛頭天王(ごづてんのう)の妃である針才女という珍しい神を勧請した。これも恐らくは知識のある者が、班女から針才女を導き出したのである。その後この社は法観寺に寄進され、下って江戸時代には真言宗功徳院が神宮寺となり、繁華な町中にあって社は妹の無念の籠った「班女ノ社」から「繁昌社」に改名され、新たに田心姫命(たごりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を勧請したのである。マンションの谷間の小路の奥に捨て置かれたような班女塚の謂(いわ)れがもしこの通りであれば、長門前司の妹の絶望は、長い年月を経て、商売繁盛、家内安全、諸芸上達、良縁成就に変じたのである。それは、人は神を頼りに絶望しないということである。

 「インディオたちは無言で円陣を組み、座りつづけた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。そのとき━二日過ぎていた━突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定されていた道をまた歩きだした。学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちがたってから、白人の幾人かとインディオのあいだに、ある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人が次のように答えた。「早く歩きすぎた」とインディオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」」(「考えさせられる答え」ミヒャエル・エンデ 田村都志夫訳『エンデのメモ箱』岩波書店1996年)

 「堆積物…外部「取り出せる」 第1原発、溶融燃料初の接触調査」(平成31年2月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)