蛇いちご魂二三箇色づきぬ 河原枇杷男。昭和四十八年(1973)青木八束は小説「蛇いちごの周囲」で第三十六回文學界新人賞を受賞し、その年の第六十九回芥川賞の候補になるが受賞しなかった。青木八束は、脚本家田村孟の筆名である。昭和四十四年(1969)三十六歳だった田村孟は連続ドラマポーラ名作劇場『サヨナラ三角』の脚本を途中で投げ出し、以後テレビドラマの脚本は書かないと宣言する。『サヨナラ三角』の演出者の交代に、あるいは交代で起こる演出のムラに抗議し、その抗議が通らず降りたのである。田村孟は昭和三十年(1955)東京大学文学部国文学科を卒業し、松竹大船撮影所に入り、昭和三十六年(1961)一期上にいた大島渚らと松竹を退社して創造社を作る。創造社は大島渚らが理想とする映画を造るための会社であった。が、金が思うように集まらず、田村孟は生活のため会社が取って来たテレビドラマの脚本を書かなければならなかった。田村孟が書いたのは、テレビが日本の茶の間に普及しはじめた頃のドラマである。創造社が造った映画は評価され、田村孟が書いた脚本は、昭和四十三年(1968)『絞死刑』(共作、監督大島渚)、昭和四十四年(1969)『少年』(監督大島渚)、昭和四十六年(1971)『儀式』(共作、監督大島渚)がキネマ旬報脚本賞を受賞する。が、田村孟文學界新人賞を取った年、創造社は解散する。テレビ業界に別れを告げ、大島渚と袂を分かつことになった田村孟が書いた小説が、「蛇いちごの周囲」なのである。田村孟の出身である群馬の、戦後間もない田舎に住む少年の前に東京から若い女がやって来る。戦時中その若い女の姉が、少年の家の分家の長男に嫁ぎ、その長男である夫は戦死し、その後その姉も自殺をしている。話は、少年が東京から来た若い女を「あなた」と語り、若い女が姉の遺品である回転椅子を高校受験を控えた少年に遣るため、リヤカーで姉の嫁ぎ先である少年の家の分家の製材所に取りに行くところから始まる。その分家には、若い女の姉の夫だった長男の両親と知的障害の次男と養女が一人いる。若い女は生前の姉と手紙の遣り取りをしていて、姉とその義父の間に男女の関係があった、あるいは出来たことで姉が自殺をした、あるいは義父に殺されたのではないか、と義父に問う。が、義父ははなから相手にせず、家の跡継ぎのため若い女に知的障害の次男との結婚を迫ったりするのである。事実はどうなのかという疑問に応えるようには、話は展開しない。事実はさして重要ではないとでもいうように、若い女が抱いていた憶測はあっさり否定され、若い女には確たる証拠もなく、それ以上に反論は出来ない。少年は遣り交わす二人の前で、ある女のことを思い出す。その女は田圃の畦道で、防空頭巾に蛇いちごを摘んでいたのである。少年の云いに従って蛇いちごを捨てたその女は、若い女の姉であったかもしれないと思うのであるが、若い女はその太っていた姉を本当は愚鈍な女と思っていて、姉の夫の回りには姉よりも素敵な女が何人もいたと云うのである。少年は若い女が姉の夫のことを云う口ぶりから、その姉の夫を好きだったのではないかと考える。小説は、少年と若い女が曳いて来たリヤカーに乗って坂を下る遊びをするところで終わる。小説の中の人物の関係性は古く、少年が若い女のことを「あなた」として語ることで若い女の物怖(お)じしない青春性や、少年の若い女を思う気持ちにこの小説で狙ったであろう鮮味が醸し出されたことは確かであるが、他の人物は横溝正史の小説から借り出されて来た者たちの如きであった。若い女と他の人物との関係性を濃くすれば、徹底した意地汚い遣り取りをしてしまえば、若い女の青春性はひとたまりもないと考え、恐らく田村孟は他の人物を距離を縮めて来ない気味の悪い存在として置かざるを得なかった。それはしたたかな人物の造形に定評がある脚本家田村孟の小説家としての限界であった。田村孟はその後数篇の小説を発表したのみで、再びテレビドラマの脚本書きに戻ることになるのである。昭和五十一年(1976)『青春の殺人者』(監督長谷川和彦)のキネマ旬報脚本賞受賞で小説の挫折を乗り越えた田村孟は、再び長谷川和彦と組んだ映画『連合赤軍』で長いトンネルに入って仕舞う。昭和五十四年(1979)から取り掛かった『連合赤軍』の第一稿が出来上がったのは、九年後の昭和六十三年(1988)であった。田村孟学生運動を支持する側として見守るような立場にいた。そのことが脚本を書く上で意味を見出す前に自問の末にブレーキを掛けなかったとは云い切れない。結局『連合赤軍』は決定稿に至らず、映画化されなかった。が、そのトンネルのさ中でも咲いた花はあった。昭和五十九年(1984)公開の『瀬戸内少年野球団』(監督篠田正浩)の脚本である。田村孟は、映画の話よりも小説の話をする時に顔がほころんだ。この違いが恐らくは映画と小説に対する田村孟の思いの差である。が、フォークナーを全部読みなさいと云った時その表情は改まった。いや、車谷長吉の『鹽壺の匙』を褒めた時はほころんでいた。洛北西賀茂に正伝寺がある。かつてデビッド・ボウイが自ら焼酎のCМ場所に選んだという寺である。本堂の手前に鐘楼の立つ空地があり、蛇いちごの実が幾つか生っていた。山裾の上にある方丈の庭の眺望は清々(すがすが)しく、瓦を葺いた低い築地塀越しに東の比叡山の姿が見える。一面白砂を敷いた奥、塀に沿って島のようなサツキや山茶花のこんもりと丸い刈込みがあり、花が咲いて仕舞えばそれは凡庸な風情であるが、雪の積もる写真を見れば、誰が見ても静寂な庭である。覆われて見えないものに抱く畏れは、想像が働くことであり、庭一面に蛇いちごの実を生らせるのも想像を働かせることである。蛇いちごが一面を覆った光景はどぎついかもしれないが、手を加えず放っておけば、すぐ前の叢に生えている蛇いちごが易々(やすやす)と塀を越え庭を覆って仕舞うことはいつでもあり得るのである。「蛇いちごについてありとあらゆることをたて続けに喋った、かわいげに見えるその一粒一粒の中に蛇の卵が一個ずつはいっている、だから食べれば腹の中が蛇だらけになる、それを知っているから仔山羊だって絶対にくわない」(「蛇いちごの周囲」田村孟田村孟全小説集』航思社2012年刊)「「そうですか。苦しい人ですね。」「苦しい?」「いや、死んだ卵で生きるというのは。」(『赤目四十八瀧心中未遂車谷長吉 文藝春秋社1998年刊)田村孟は『連合赤軍』以外にも幾つかの映画にならなかった脚本を残したまま、平成九年(1997)六十四歳で亡くなった。「石膏詰め子殺し事件を題材とする映画、神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』を原作とする映画、ゾルゲ事件を題材とする映画」(『田村孟全小説集』年譜)死卵を産んだ脚本家が苦しくないはずはなく、その顔がほころぶはずもないのである。

 「この地上では誰であれ、信念にかかわって二つのことが問われる。一つは、この人生の信じるに足るかどうかについて。いま一つは、自分の目的の信じるに足るかどうかについて。二つの問いとも、誰もが生きているという事実を通して、すぐさま断乎として肯定でもって答えるので、問いが正しく理解されたのかどうか怪しくなるほどだ。ともあれ人はいまや、この自分自身の基本の肯定に向けて、あらためて努めなくてはならない。」(「八つ折りノートH」フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説全集⑥掟の問題ほか』白水社2002年)

 「復興情報などまとめた地図 葛尾で「福島アトラス04」完成報告」(令和元年6月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)