刈稲を置く音聞きに来よといふ 飯島晴子。田圃に実る稲穂の実物を、見ることも触ることもないまま一生を終える者はいるかもしれない。海から大網を引き上げる時の漁船の揺れや、屠殺場の豚の悲鳴を知らない者はそれ以上にいる。変わった句である。刈った稲を置く音を聞きに来い、と云っているのは農家である。この農家は作者に対して、新米を食べに来いとも、稲刈りを手伝ってくれとも云っていない。風が吹いて揺れ撓っている時にも、稲は音を立てる。が、水を抜いて乾いた田圃で、根元から鎌で刈り取って地に置いた稲束の立てる音を、農家の者は聞きに来いと云うのである。機械が袋詰めまでする今日の田圃で、この稲の音はしない。この稲の音は機械化される前の音か、機械が入ることの出来ない不便な田圃の音である。一年に一度きりの、農家には耳慣れた音であり、収穫に思うところがあるのは当たり前のことであろうが、腰を屈め黙々と刈ってゆく農家の者は、その稲の重みが立てる音にいちいち耳を傾け、手を休めることはしない。仮にその音に、他所者(よそもの)に対して説明がつく思いがあったとしても、総じて農家の口は重い。いつであっても農家にとっての重要事は刈稲の地に置く音ではなく、それは天候でありここに至るまでの技術のはずである。それらの説明は音では出来ない。稲を寝かせた音で説明をつけようとする者が俳人である。ある日稲刈りを見た作者の飯島晴子は、その稲の音が耳に残った。それがどうして耳に残ったのかは、その時には分からなくても後のち思いつくかもしれない。その後のちの考えの手立てとして、飯島晴子は農家の口を借り、その口が聞きに来よと云ったとしたのである。飯島晴子は、京都の人である。子ども時代に御室仁和寺(おむろにんなじ)のそばに住み、家の裏は田圃であったという。仁和寺前の一条通を西に向かえば、広沢池(ひろさわのいけ)に出る。広沢池の西側、北嵯峨の田圃で稲刈りが始まっていた。烟は籾殻を燃やしているのである。飯島晴子は、七十九歳で自死している。稲刈り機の響く田圃に立って、稲束の地に置く音が聞こえるとすれば、それは飯島晴子の耳を通った音である。

 「雨戸の隙間からさし入った光が障子をほんのりと明るくしている。船溜りに漁師どもの声がする。しのびやかな櫓の音もする。帆を上げるためにきりきりと滑車を滑らせる綱の音もきこえる。おっつけ夜は白むであろう。けさも川は霧でとざされているだろうか。夜具にくるまり、目をつむっている私に川が見えてくる。名前のない川である。」(「諫早菖蒲日記」野呂邦暢野呂邦暢作品集』文藝春秋1995年)

 「福島県の高校生が六ケ所村訪問 核燃料の課題向き合う」(令和元年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)