つげ義春の漫画『無能の人』に、石を売る話がある。多摩川の河原にボロ布で小屋を掛け、棚や足元に赤ん坊の頭ほどの石を並べ、中で身を縮めるようにして男が店番をしている。男は己(おの)れの描く漫画に行き詰まった漫画家である。小屋を通りがかった者が男に、この石の出どころを訊くと、男はこの河原で拾ったものだと応える。ただで拾った石にお金を出して買うヤツはいない、と通りがかりの男が云う。漫画家の男もそう思っている。が、売り物である石は、河原に転がる無数の石から「選ばれた石である」と称することは出来る。選んだのはこの男である。丸みを帯びた形や表面の模様を、面白いと思う者がこの世にいないとは限らない。黄色い模様が星の形に見え、白い線の上下を引繰り返せば山奥に瀧が現れて来る。ある者が石一つを部屋に残してある日失踪する。その黒茶色の石はどこか猫が蹲(うずくま)っているように見えなくもない。その者の失踪の理由は借金かもしれないし、人間関係の縺(もつ)れかもしれないが、回りにいた者らにはその理由が分からない。住人が消えてガランとした六畳間に、その猫のような石が置いてあった。ある者が、その石は失踪した男がある男から貰ったもので、その男も行方不明になっていると云う。いやその男は刑務所に入っているだけだ、人殺しで。その刑務所に入っているという男は、その石をどうして持っていたのか、同じように誰かから貰ったのか、それともどこかで拾ったのか。その男も貰ったんだ、と別の男が云う。そんな話を聞いたことがある。それが恩のある者で、捨てるに捨てられなかったそうだ。その恩のある者はどうしてその石を持っていたのかは、その男は聞いていたのか。その嫁の父親から貰ったんだ、結婚の祝いに。たとえば一つの石には、このような謂(いわ)れがあるかもしれず、ある石を手に入れた者がそのことが理由で幸福の階段を上がり、それを手離した瞬間に不幸の坂を転げ落ちる。あるいはその逆の語り話も、この世には星の数ほどある。神社や寺の境内にあるものの一切は持ち帰ってはならないという言い伝えを子ども時代に聞いたことがある。草花、木の枝、木の実、木の葉、砂の一粒でも黙って持って帰るとバチが当たるというのである。が、融仙院良岳寿感禅定門の戒名を刻んだ石川五右衛門の墓石は削り取られ、持ち去られるという。削り取った者はバチが当たることを覚悟してでもそのご利益の夢に縋(すが)るのである。嵯峨車折神社(くるまざきじんじゃ)は、持ち帰り用の小石を売っている。手に入れた者はその小石を身から離してはならず、その日常を金で買った神の分身と共に過ごすのである。それから幾日か幾十日か幾百日の後、その者の願いが叶ったならば、身の回りに石がなければ河原から石を一つ拾い、その石に神への言葉を書いて報告する。車折神社の本殿の前にはその言葉を記された石が積み重なり、小山となっている。ことは、祇園の茶屋の女将が売掛け金の回収を願ったことにはじまるという。願い事はどうてもいい。ここに願い事を聞き入れてくれる神がいるということを、その女将は石ころをもって目に見えるように証明したのである。

 「新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊(いしころ)がのろのろ這つて歩いてゐるのを見たのだ。石が這つて歩いてゐるな。ただそう思うてゐた。しかし、その石塊(いしころ)は彼のまへを歩いてゐる薄汚い子供が、糸で結んで引摺つてゐるのだということが直ぐに判つた。子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天變地異も平気で受け入れ得た彼自身の自棄(やけ)が淋しかつたのだ。」(「葉」(『晩年』)太宰治太宰治全集 第一巻』筑摩書房1955年)

 「「台風19号」福島県内7人死亡 25河川氾濫、中・浜通り浸水多数」(令和元年10月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)