日常を過ごす中で、がらんとして何もない部屋に立つ時、その者はこののちその部屋を借りるのかもしれず、あるいは中にあった家具などすべて外に運び出し、最早鍵を掛けて出てゆくばかりのところかもしれぬ。もし忘れもののないよういま一度見廻したところであれば、その部屋は過日、不動産屋の後ろにつき従って目にした時の部屋に戻ったわけであるが、がらんとした目の前の部屋は、その者の中ではじめと仕舞いの意味を帯びて目に映ることになる。転居を繰り返した者であれば、そのような二つの意味を帯びてがらんとした部屋を幾つも頭の中に持っている。京都御苑の南西(みなみにし)に、拾翠亭(しゅうすいてい)という入母屋の二階建の建物がある。明治の世となるまで九條家の別荘だった建物である。その最後の当主、公爵九條道孝の四女節子は大正天皇皇后貞明であり、昭和天皇の母である。維新で明治天皇と共に九條家もまた東京に移り、その母屋は一旦解体されて東京の住まいとなり、今は東京国立博物館の庭の隅に建っている。茶会や歌会に使われたという拾翠亭は、一階の広間と小間に炉が切られ、一階にはもう一間、二階には二間半の座敷が一間あり、小舟を浮かべることが出来る庭の池を除けば、建物に浮世離れしたところはない。壁も戸の作りも、京都の町なかに残る古い商家のそれよりも簡素である。これははじめから簡素な茶室を旨として作られたのではなく、恐らくは徳川の世の公家の余裕のない懐具合によるものである。とある二月の日の射さないその日、拾翠亭は一階も二階も戸はすべて開けてあり、室には床の間の小さな花瓶に丈を短く切った花が二三活けてあるだけでがらんとしている。室にも外の庭にも人の気配はなく、畳は足の裏に冷たい。その者はこの室をこれから借りるわけでもなく、借りていて出てゆくところでもない。何やらひと様の家に黙って上がり込んだようでもあるが、この室にはひと様の生活らしきものは花を除けばまるでなく、家に主(あるじ)があるわけではないから、室で待っていても誰かやって来るわけではない。何をするわけでもなく、かといって横になるようなことは認められない、薄ら寒い室に座っていることには我慢がいる。一階から二階へ室を移してもその我慢は変わらない。畳の上では屈するべき膝を一旦は折り、落ち着かぬ理由を見定めぬまままた立ち上がり、窓に寄る。ひと様の家に上がり込んで、二階から冬の庭を見下ろす。真後ろで、同じように見下ろす者の気配がある。振り返っても誰もいないことは分かっている。気配は、九條家の誰かが残していったものに違いない。記憶は人が思うところに残り、あるいは思うところに現れる。拾翠亭の無人の室は、主(あるじ)であった九條家の人らを記憶し、感傷に云えば、がらんとした室に残っているのは、最後に窓辺に立った者の視線である。

 「さっきから、着飾った婦人と何度もすれちがっているみたいだ。気持ちが妙に浮きたつ。でも、だれもいない。香りのせいなのだ。菩提樹の黄色い花がきつすぎるほどにおっているだけ。遠くの丘が暑さにゆるゆる溶けて、稜線の緑が空の青にじんわりにじんでいる。その上に綿雲が白く点々。気が遠くなるほどのどかだ。」(「菩提樹の香る村」辺見庸『もの食う人びと』共同通信社1994年)

 「「双葉」初解除!帰還困難一部先行 復興拠点立ち入り規制緩和」(令和2年3月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)