西賀茂の京都市営小谷墓地に、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の墓がある。墓地は毘沙門山の裾にあり、山は京都ゴルフ倶楽部のゴルフコースになっている。魯山人の墓は山裾を上った日当たりのいい外れにあり、墓石には「北大路家代々之靈墓」と彫られ、裏は「昭和十四年十二月建之 十二歳北大路和子書」と刻まれている。傍らの墓誌は二行で、「禮祥院高徳魯山居士 昭和三十四年十二月廿一日歿 俗名魯山人行年七十六歳、凉月院珠映浄和禪定尼 平成二十年七月廿九日歿 俗名和子行年八十一歳」と記されている。墓に差した二枚の水塔婆の主は、北大路泰嗣である。北大路和子は魯山人の三番目の妻中島きよとの間の長女で、北大路泰嗣はその和子の長男で魯山人の孫である。魯山人は最初の妻安見タミとの間に二男があり、長男櫻一は昭和二十四年(1949)四十歳で亡くなっている。次男武夫の死はそれより早く大正十四年(1925)、十六歳である。タミとの結婚は明治四十一年(1908)で、大正三年(1914)に離婚し、大正五年(1916)に結婚した藤井せきとの間に子は無く、せきとの離婚は昭和二年(1927)で、同じ年にきよと入籍し、きよとの離婚は昭和十三年(1938)で、同じ年熊田ムメと結婚し、翌昭和十四年(1939)に離婚、翌昭和十五年(1940)中道那嘉能(梅香)と結婚し、昭和十七年(1942)年に離婚、この年魯山人は五十九歳である。七十六歳で亡くなった時、魯山人の子で残っていたのは長女の和子ひとりだった。が、和子は最後まで面会を許されなかったという。その和子の字が北大路家の墓に刻まれ残っているのである。不安定な筆運びではあるが、勢いのある和子の字を使って、魯山人は昭和十四年(1939)に自分の墓を建てた。その前年に和子の母きよと離婚し、料理研究家熊田ムメと四度目の結婚をしている。昭和十一年(1936)に大事件が起きる。己(おの)れが開いた赤坂山王の料亭「星岡茶寮」から、魯山人は追放されるのである。大正五年(1916)三十三歳の魯山人は、二番目の妻藤井せきの父親の家作だった神田駿河台の自宅に「古美術鑑定所」の看板を掲げる、二十歳で京都から東京へ出て来て十三年後のことである。「古美術鑑定所」は後に骨董販売「大雅堂芸術店」となり、子ども時代に知り合いだった美術印刷便利堂の田中傳三郎の弟、中村竹四郎が加わり「大雅堂美術店」となった後、魯山人は売り物の器に料理を盛って客に出すようになる。魯山人は料理に自信があった。六歳で養子に入った木版師福田武造・フサの家で、魯山人は賄いを手伝って褒められ、後には任されるまでになっている。魯山人は、上賀茂神社の神事雑務を生業とする社家(しゃけ)の北大路清操(きよあや)と同じ社家の出の登女(とめ)の子とされているが、清操は登女の腹の子が己(おの)れの子ではないことを知って割腹自殺し、房次郎と名づけられた子は生まれると一旦は比叡山を越えた農家に預けられ、すぐにまた預けたとされる清操の近所に住む巡査夫婦の手に戻り、その巡査が行方をくらましその妻が病死すると、巡査夫婦の養子だった者同士が夫婦となって養父の駐在を継ぎ、巡査となったその夫が精神を病んだ末に死に、残された養女が己(おの)れの子と幼い義理の弟の房次郎を連れて実家に戻ったといい、その養女の母親が房次郎を嫌い折檻するのを見かねた者が、福田夫婦に房次郎の養子話を持ち掛けたのだという。魯山人、子ども時代の福田房次郎は、賄いをすることで養父母に対して道がついたことを学んだのであるが、養父武造の傍らで字を習い、紙を買わせて応募させる「一字書き」コンクールに入選を繰り返し賞金を得るという成功体験をする。武造と取引のあった印刷屋の子が田中傳三郎である。明治三十六年(1903)看板職人になっていた二十歳の房次郎は、名乗り出た市中にいた伯母、北大路清操の姉の口から初めて己(おの)れの出生を聞かされ、実母登女が東京にいることを知る。かつて御所勤めをしていたことのある登女は、男爵四條隆平(たかとし)の家で住み込みの女中をしていた。上京し突如目の前に現れた房次郎に登女は、その姿を見かね着替えの古着を買い与えただけで、親として房次郎とは接しなかったという。が、そのまま東京で書道教室を開き、日本美術協会美術展で応募の「千字文」が一等二席に入ると、二人の関係に道がつく。房次郎は入選の後、洋画家岡本太郎の祖父岡本可亭の内弟子となり版下書きの仕事の傍ら、岡本家の賄いもするようになる。岡本太郎の母岡本かの子は、子どもの目で見た房次郎の食材に拘(こだわ)る様を小説「食魔」に書き残している。明治四十三年(1910)、房次郎はこの年の八月に併合した韓国に、母登女と一緒に渡っている。京城には、登女の前夫との間の鉄道員になった息子がいた。この時房次郎には、京都から東京に呼び寄せ入籍した安見タミとの間に長男櫻一がいて、タミは二人目を身ごもっていたが、房次郎は朝鮮行きをタミに伝えていない。京城の京龍印刷局の書記に就いた房次郎は、二年半の間上海にも移動し、中国の陶器や書や篆刻を見、料理を味わったという。日本に戻り東京日本橋に再び書道教室を開き、版下書きを始めた房次郎は、和本出版商の藤井利八を通して滋賀長浜の文具商河路豊吉と関係が出来る。二番目の妻となる藤井せきは、この利八の娘である。河路豊吉は数寄者(すきしゃ)だった。書画骨董の目利きで、文人画家を支援する茶人が数寄者である。房次郎は道が通じた河路豊吉の前で初めて濡額を刻り、その独特の筆と彫りは趣味人を引き寄せ、後々北陸鯖江の古美術商窪田卜了軒(ぼくりょうけん)、金沢のセメント商細野燕臺(えんだい)の食客となるのであるが、その前に房次郎には会いたい人物があった、京都の数寄者、内貴清兵衛(ないきせいべえ)である。内貴清兵衛に房次郎を引き合わせたのは、便利堂の田中傳三郎である。内貴清兵衛は、初代京都市長内貴甚三郎の長男で、継いだ家業の呉服屋を弟に追われた後も日本新薬、島津電池製作所などの役員をし、広大な田畑宅地の上がりで食っていた。この時三十一歳の房次郎は、四つ上の内貴清兵衛の住まいとなっていた別荘に上がり込み、食通で料理もこなしていた清兵衛の身の回りの雑用やら賄いも受け持つようになり、清兵衛の目を通して、維新で寺や大名が手放し出回った古美術骨董の値打ちを身につけるのである。大正三年(1914)京都市中に借家住まいをさせていたタミと離婚し身軽になった房次郎は、清兵衛の元も離れ、金沢の数寄者細野燕臺の食客となる。食客でありながら房次郎はここでも台所を預かり、燕臺の家の者を喜ばせている。燕臺は、自分で染付をした焼き物を食器に使っていた。これを見た房次郎の驚きの様は、後に魯山人となって数十万の器を焼いたことを思えば想像がつく。房次郎は胸ときめかせ、燕臺の器を焼いた山代温泉の須田靑華窯で初めての染付をした。大観とも名乗りはじめた房次郎は燕臺を通して金沢でもう一人の数寄者、太田多吉と出会う。太田多吉は料亭「山の尾」の主(あるじ)で、己(おの)れの指示で焼かせた器だけを店で使っていた。房次郎、福田大観はこの太田多吉から改めて玄人の料理知識を聞き知るのである。大正五年(1916)実兄が死んで北大路姓を継ぎ魯卿とも名乗るようになる三十三歳の房次郎は、藤井せきと結婚し、「古美術鑑定所」を開く。田中傳三郎の弟中村竹四郎は、東京で出版社「有楽社」を起こした兄彌二郎が発行する『グラフィック』で著名人の写真と談話の聞き書きを担当し、『食道楽』で東京市中の評判の店の記事を編集していた。大正六年(1917)二十八歳の竹四郎は、兄傳三郎に引き合わされた房次郎の肉体、手と目と舌から生まれ出た言葉に魅せられ、二人は大正九年(1920)「大雅堂美術店」を開くのである。が株の大暴落で商売は躓(つまず)き、房次郎は客に出す茶に加え、売り物に料理を盛ってもてなすという前代未聞のことをする。客はそのようにもてなされたことに驚き、自ずと出された器を見る目が改まる。魯山人と名乗る骨董屋の料理に評判が立つ。客筋は、竹四郎がかつての仕事で面識のあった政治家実業家らである。「大雅堂美術店」は「美食倶楽部」を名乗り、会費を払った者に料理を出すようになる。人を雇い、食材は魯山人が自ら仕入れ、売り物で間に合わなくなった器を山代須田靑華窯と京都東山窯で揃え、ここに古物を真似た魯山人の焼き物がはじまるのである。が、大正十二年(1923)関東大震災が起こる。店舗を失った魯山人と竹四郎は、すぐに芝公園に葦簀張りの店「花の茶屋」を出し、二百人いたという会員の常連を呼び戻し、その僅(わず)か二年後葦簀茶屋は、名高き料亭「星岡茶寮」に大化けするのである。打ち捨てられていた華族の茶道場「星岡茶寮」を斡旋した東京市電気局長長尾半平も、「星岡茶寮」の再興として売った寮債を初めに買った貴族院議長徳川家達(いえさと)も「美食倶楽部」の会員であり、再興資金はこれら名士の財布から順調に集まった。が、相談を受けた内貴清兵衛は、魯山人に金を出さなかったという。このことで魯山人が何も思わなかったはずはない。魯山人にとって学ぶべき対象は、越えるべき対象なのである。「星岡茶寮」の料理人は当時の常識だった口入れ屋からではなく新聞で募集し、女中は水商売の経験者は採らず、茶や生け花を習わせ、客に酌をさせず、室に芸者は上げない。料理は一品づつ出し、その器やら灰皿やら花瓶やら火鉢やら数千の品々はすべて魯山人が手を入れ焼いたものである。このような料亭は世間のどこにも無かった。食材の吟味に手間と金を掛け、目新しさの際立った「星岡茶寮」は繁昌し、後には「星岡の会員に非ざれば日本の名士に非ず」と人の口に上るまでになるのである。魯山人は小学校を出ると薬屋へ丁稚奉公に行くが勤まらず、養父の木版を手伝い、西洋看板職人、書道教授、版下書き、朝鮮公務書記、濡額篆刻製作、骨董商、「美食倶楽部」を経て、料亭「星岡茶寮」の顧問となり、遂に北鎌倉山崎に己(おの)れの窯「星岡窯(せいこうよう)」を持つまでになる。この間藤井せきと離婚し、妊娠していた「星岡茶寮」の女中頭の中島きよを入籍させ、魯山人は「星岡窯」に建てた母屋で生活を始めるのであるが、きよと長女和子は入籍から六年の後まで、魯山人のいない不可解な転居を重ねる借家住まいをさせられている。窯を持った魯山人は益々焼き物にのめり込み、百貨店で開く個展の図録にしたたかに有力者の推薦文を載せる一方で、星岡窯の職人だった荒川豊蔵が幻の志野焼の窯跡を発見したのを機に発行しはじめた『星岡』の誌上で、料理をはじめ陶芸、絵画、書、あるいは茶道の既成流行の権威を叩きのめす如くに否定してゆく。「星岡茶寮」の登記上の経営者は、中村竹四郎だった。年下の竹四郎が魯山人に見せるハンカチを持たせるような姿は、従業員から二人が夫婦のように見えたという。が、情況が変わる。経営者でない魯山人が独断で大阪「星岡茶寮」の出店を決め、従業員を次々に馘にしたことで従業員の間に不満が募り、食器製作の参考と称して高額な骨董に許可なく売り上げをつぎ込み、経営が立ち行かなくなるまでになっていたのである。が、魯山人は、すべて「星岡茶寮」運営のため、理想の「星岡茶寮」実現のために疑いなく良かれと思っていたのである。昭和十一年(1936)七月、魯山人の元に竹四郎の弁護士から封書が届く。「被通知人 北大路房次郎 通知人(中村竹四郎)ハ 自己ノ経営ニ係ル東京星岡茶寮 大阪星岡茶寮ニ於ケル割烹営業 並ニ鎌倉星岡窯ニ於ケル陶磁器製造ニ付 被通告人ヲ料理並ニ窯業ノ技術主任トシテ雇傭中ノ処 今般都合ニ因リ解雇 一切ノ関係ヲ謝絶致候ニ付 此段御通知ニ及候也。」魯山人は日頃の態度、その不遜をカケラも見せず、一読怯える様子を見せたという。魯山人の内心は竹四郎との和解であり、それを察した内貴清兵衛と荒川豊蔵が二人の和解の席を設ける。が、魯山人はその席に姿を現さなかった。後に魯山人は裁判を起こし、九年後の昭和二十年(1945)申し立ては星岡茶寮の三店は竹四郎、星岡窯は魯山人との案で和解するが、二人の関係は解雇通知で終わっていた。裁判の間魯山人は、栄養剤「わかもと」の販売促進用の器や東京火災保険五十周年の記念品数千点を焼き、太平洋戦争が始まると窯の火が制限され、職人が兵に取られ、焼き物の数が減るが、海軍提供の薪で航空隊の食器などを焼いている。中島きよとの離婚はこの間のことで、きよは和子を魯山人の元に残し、星岡窯の職人と駆け落ちしたのだという。和子の字で魯山人が墓を建てるのはその翌年昭和十四年(1939)である。昭和二十年(1945)裁判で竹四郎の所有となった星岡茶寮の三店は空襲で全焼する、が、魯山人の星岡窯は戦災に遇わなかった。戦後、銀座に魯山人の作品だけを売る専門の店が出来、軍人らが土産物に買って行ったアメリカで評判になり、来日した彫刻家イサム・ノグチ魯山人の個展を見て感激し、そのまま山口淑子と共に一年余星岡窯に住むことになるのであるが、家の表に干した洗い物を魯山人が叱り、山口淑子に裏に干させたというエピソードは、魯山人魯山人たる一面を物語っているかもしれない。昭和二十八年(1953)日米会長だったロックフェラー三世からアメリカでの展覧会と講演の依頼を受けた七十歳の魯山人は、ついでに欧州を巡る計画に拡げ、翌昭和二十九年(1954)方々から搔き集めた金で旅に出、西洋料理を食い、ピカソシャガールと面談する。が、帰国から亡くなる七十六歳の年まで魯山人は借金の返済に追われ、焼き物を焼き続けなければならなくなる。昭和二十三年(1948)に結婚した和子とは、この頃はすでに絶縁状態にあった。たびたび和子が魯山人の蒐集品を無断で持ち出し売り捌いていたからである。昭和三十年(1955)とその翌年に打診された人間国宝の指定を、魯山人は断る。かつては個展の図録にお墨付きの推薦文を書いてもらうため有力者に活鯛や高級墨の付け届けまでしたのであるが、職人に給料も払えぬほどの窮乏にあっても、魯山人は意地を通したのだ、と云えるのかもしれぬ。昭和三十四年(1959)十二月、横浜の病院で魯山人は息を引取る。死因はタニシなどに寄生するジストマ虫による肝硬変である。魯山人は、傲岸不遜(ごうがんふそん)だったと云われている。三番目の妻だった中島きよは、魯山人を「怖い人」だったと云う。朝晩の風呂の後、替えの下着とビールを用意させ、その下着の洗濯はきよの母親がやっていた。売り物の器を取り巻きの者にタダで遣り、妻には生活費を渡さなかった。墓の字を書いた長女和子に向かって、叱り言葉でなく自分の子ではないと云った。「星岡茶寮」の従業員に人扱いしないような言動、料理についた髪の毛一本で全員を坊主にし、一度ならず女中に「手をつけた」ことがあった。機関紙『星岡』に写真つきで私信の相手の字を貶(けな)し、己(おの)れの作る料理以外の料理を悉(ことごと)く貶(けな)した。魯山人は晩年、ラジオドラマを聞いて涙を流すことがあったという。追放事件の後の和解の席で、中村竹四郎は内貴清兵衛に諭され、泣いた。が、戸の裏にいた魯山人は出て行かなかった。妻きよは絶えず叱責され、母親の前で泣いた。ひと時星岡窯にいた長男の櫻一は、焼いた器を魯山人に叩き割られて泣いた。身重で幼い櫻一を抱えていた最初の妻安見タミは、房次郎に一言も告げらずに朝鮮に行かれてしまって泣いた。長女和子は実の子ではないと云われて泣き、面会を許されず魯山人の死の床で泣いた。理不尽に馘になった「星岡茶寮」の従業員も泣いた。人間国宝を辞退した時、魯山人は回りの者に選考委員の格を疑い、芸術家の無位無冠を語ったという。が、この云いだけでは魯山人の息遣いには近づかない。魯山人はたとえ爪の垢ほどでも、責任を負わされることを恐れた。人間国宝となった者は国から助成金を貰う以上、今までのような無責任な言動は慎まなければなれないかもしれないし、あらぬ批判の的となるかもしれない。勲章を得て職人に給料が払うことが出来るようになることよりも、そのことで想像のつかない社会的責任を負うことの方が、魯山人には何より耐えがたいことだった。竹四郎との和解の席に現れなかったのも、その後に不自由な身となって負わされるであろう己(おの)れの責任を只々恐れたからである。こう想像すると北大路魯山人の青臭い息が、顔近く生臭く臭って来る。魯山人は執拗に「美」を語った。その「美」は自然の中にあり、あるいは自然そのものであるとも語っている。その「美」への執着の原点を訊かれた魯山人は、三つの時負ぶわれて見た躑躅ツツジ)の赤い色だったと云っている。が、それは一つの思い出には違いないが、相手の期待に沿う善意の応えにすぎない。魯山人の云う「美」への本当の衝動は、恐らくは魯山人にも説明がつかなかったはずである。説明が出来るもの、説明がつくことは面白くないのであり、面白くないものに、人は突き動かされることはないのである。魯山人は「そのこと」を説明がつかないこととして、他人と分かり合うことが出来なかった。そうではない、分かり合うことなど出来ないのである。故(ゆえ)に魯山人は傲岸不遜(ごうがんふそん)の男に見えた。晩年の魯山人が流した涙は、最後まで分かり合うという誘惑に屈しなかった者の崇高な涙である。そうであれば魯山人の回りで流した涙も、同じ崇高な涙でなければならない。

 「夏の暑さがつづくと、たべものも時に変わったものが欲しくなる。私はそうした場合、よくこんなものをこしらえて、自分自身の食欲に一種の満足を与える。雪虎━これはなんのことはない、揚げ豆腐を焼き、大根おろしで食べるのである。その焼かれた揚げ豆腐に白い大根おろしのかけられた風情を「雪虎」といったまでのことである。もし大根おろしの代わりに、季節が冬ででもあって、それがねぎである場合には、これを称して「竹虎」という━京都の話である。これはまったく夏向きのもので、朝、昼、晩の、いずれに用いてもよい。まず揚げ豆腐の五分ぐらいの厚さのもの(東京では生揚げと称しているもの)を、餅網にかけて、べっこう様の焦げのつく程度に焼き、適宜に切り、新鮮な大根おろしをたくさん添え、いきなり醤油をかけて食う。」(「夏日小味」北大路魯山人『星岡』9号・昭和6年6月『魯山人著作集第三巻』1980年)

 「第1原発・処理水500~600倍に希釈 海洋放出時の東電検討案」(令和2年3月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)