誰もいない、という言葉には嘘が含まれている。誰もいないと辺りを見て思う者がそこにいて、ここ渡月橋が架かる桂川の川縁の駐車場に係の者が二人、警備の者が一人いる。あるいは金閣寺の参道口に警備の者が二人いて、奥の駐車場に係の者が一人棒を持って立っている。それ以外の人影はない。早朝であればこの者らもいない、誰もいないひと時があるのかもしれない。いまより以前、二月(ふたつき)前であれば、やがてどこからともなく人は現れ、観光バスが駐車場を埋める。が、いまは土産物屋もものを食わせる店も全部シャッターを下ろし、幟旗を仕舞い、一時間経っても、半日経っても誰もやって来ない。夜が来ても、恐らくは明日になっても、人はここには現れない。太宰治は、筆扱いが不自由になった戦争さ中の昭和二十年、『お伽草紙』の題で四篇の小説を書いている。「私はこの「お伽草紙」という本を、日本の國難打開のために敢闘してゐる人々の寸暇に於ける慰勞のささやかな玩具として恰好のものたらしむべく、このごろ常に微熱を發してゐる不完全のからだながら、命ぜられては奉公の用事に出勤したり、また自分の家の罹災の後始末やら何やらしながら、とにかく、そのひまに少しづつ書きすすめて來たのである。」(「舌切雀」太宰治太宰治全集 第七巻』筑摩書房1976年刊)その『お伽草紙』の前書きにはこうある。「母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう(防空)壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は繪本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に讀んで聞かせる。」この「五歳の女の子」は、四月二十日に七十八歳で亡くなった太宰治の長女津島園子である。「浦島太郎といふ人は、丹後の水江とかいふところに實在してゐたやうである。丹後といへば、いまの京都府の北部である。あの北海岸の某寒村に、いまもなほ、太郎をまつつた神社があるとかいふ話を聞いたことがある。私はその邊に行つてみた事が無いけれども、人の話に依ると、何だかひどく荒涼たる海濱らしい。そこにわが浦島太郎が住んでいた。」(「浦島さん」)太宰が、実在していたようであるという浦島太郎は、『日本書紀』にこう記されている。「(雄略天皇)二十二年の春正月(むつき)の己酉(つちのとのとり)の朔(ついたちのひ)に、白髪皇子(しらかのみこ)を以て皇太子(ひつぎのみこ)とす。秋七月に、丹波國(たにはのくに)の餘社郡(よさのこほり)の管川(つつかは)の人瑞江浦嶋子(みづえのうらしまのこ)、舟に乗りて釣す。遂(つい)に大龜を得たり。便(たちまち)に女に化爲(な)る。是(ここ)に、浦嶋子、感(たけ)りて婦(め)にす。相逐(あひしたが)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴(めぐ)り覠(み)る。語(こと)は、別巻(ことまき)に在り。」(『日本書紀』巻第十四 雄略天皇)ここにある「別巻」は、いまは失われているとされているが、逸文として残る「丹後國風土記」に「浦嶼子(うらしまこ)」の項がある。「丹後(たにはのみちのしり)の國の風土記に曰(い)はく、與謝(よさ)の郡(こほり)、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫(たみ)、日下部首(くさかべのおびと)等が先祖(とほつおや)の名を筒川の嶼子(しまこ)と云ひき。爲人(ひととなり)、姿容(すがた)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。斯(こ)は謂(い)はゆる水の江の浦嶼(うらしま)の子といふ者なり。是(こ)は、舊(もと)の宰伊預部(みこともちいよべ)の馬養(うまかひ)の連(むらじ)が記せるに相乖(あひそむ)くことなし。故(かれ)、略(おほよそ)所由之旨(ことのよし)を陳(の)べつ。長谷(はつせ)の朝倉の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)の御世(みよ)、嶼子(しまこ)、獨(ひとり)小船に乗りて海中(うみなか)に汎(うか)び出でて釣するに、三日三夜を經るも、一つの魚だに得ず、乃(すなは)ち五色の龜を得たり。心に奇異(あやし)と思ひて船の中に置きて、卽(やが)て寐(ぬ)るに、忽(たちま)ち婦人(をみな)と爲(な)りぬ。其の容(かたち)美麗(うるは)しく、更比(またたぐ)ふべきものなかりき。嶼子(しまこ)、問ひけらく、「人宅(ひとざと)遙遠(はろか)にして、海庭(うみには)に人乏(な)し。詎(いづれ)の人か忽(たちまち)に來つる」といへば、女娘(をとめ)、微咲(ほほゑ)みて對(こた)へけらく、「風流之士(みやびを)、獨(ひとり)蒼海(うみ)に汎(うか)べり。近(した)しく談(かた)らはむおもひに勝(た)へず、風雲(かぜくも)の就(むた)來つ」といひき。嶼子(しまこ)、復(また)問ひけらく、「風雲は何(いづれ)の處(ところ)よりか來つる」といへば、女娘(をとめ)答へけらく、「天上(あめ)の仙(ひじり)の家の人なり。請(こ)ふらくは、君、な疑ひそ。相談(あひかた)らひて愛(うつく)しみたまへ」といひき。ここに、嶼子(しまこ)、神女(かむをとめ)なることを知りて、愼(つつし)み懼(お)ぢて心に疑ひき。女娘(をとめ)、語りけらく、「賤妾(やつこ)が意(こころ)は、天地(あめつち)と畢(を)へ、日月(ひつき)と極(きは)まらむとおもふ。但(ただ)、君は奈何(いかに)か、早(すむや)けく許不(いなせ)の意(こころ)を先(し)らむ」といふき。嶼子(しまこ)、答へらく、「更(さら)に言ふところなし。何ぞ懈(おこた)らむや」といひき。女娘(をとめ)曰(い)ひけらく、「君、棹(さお)を廻(めぐ)らして蓬山(とこよのくに)に赴(ゆ)かさね」といひければ、嶼子(しまこ)、從(つ)きて往(ゆ)かむとするに、女娘(をとめ)、教へて目を眠らしめき。卽(すなは)ち不意(とき)の間に海中の博(ひろ)く大きなる嶋に至りき。其の地(つち)は玉を敷けるが如し。闕臺(うてな)は晻映(かげくら)く、樓堂(たかどの)は玲瓏(てりかがや)きて、目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。手を携へて徐(おもぶる)に行きて、一つの太(おほ)きなる宅(いへ)の門に到りき。女娘(をとめ)、「君、旦(しま)し此處(ここ)に立ちませ」曰(い)ひて、門を開きて内に入りき。卽(すなは)ち七たりの堅子(わらは)來て、相語りて「是(こ)は龜比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」と曰(い)ひき。亦(また)、八たりの堅子(わらは)來て、相語りて「是(こ)は龜比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」と曰(い)ひき。茲(ここ)に、女娘(をとめ)が名の龜比賣(かめひめ)なることを知りき。乃(すなは)ち女娘(をとめ)出で來ければ、嶼子(しまこ)、堅子(わらは)等が事を語るに、女娘(をとめ)の曰(い)ひけらく、「其の七たりの堅子(わらは)は昴星(すばる)なり。其の八たりの堅子(わらは)は畢星(あめふり)なり。君、な恠(あやし)みそ」といひて、卽(すなは)ち前立(さきだ)ちて引導(みちび)き、内に進み入りき。女娘(をとめ)の父母(かぞいろ)、共に相迎へ、揖(をろが)みて坐定(ゐしづま)りき。ここに、人間(ひとのよ)と仙都(とこよ)との別(わかち)を稱説(と)き、人と神と偶(たまさか)に會(あ)へる喜びを談義(かた)る。乃(すなは)ち、百品(ももしな)の芳(かぐは)しき味(あぢはい)を薦(すす)め、兄弟姉妹(はらから)等は坏(さかづき)を擧(あ)げて獻酬(とりかは)し、隣の里の幼女等(わらはども)も紅(にのほ)の顔(おも)して戯(たはぶ)れ接(まじ)る。仙(とこよ)の哥(うた)寥亮(まさやか)に、神の儛(まひ)逶迤(もこよか、うねうね進む)にして、其の歡宴(うたげ)を爲(な)すこと、人間(ひとのよ)に万倍(よろづまさ)れりき。茲(ここ)に、日の暮るることを知らず。但(ただ)、黄昏(くれがた)の時、群仙侶等(とこよひとたち)、漸々(やくやく)に退(まか)り散(あら)け、卽(やが)て女娘(をとめ)獨(ひとり)留(とど)まりき。肩を雙(なら)べ、袖を接(まじ)へ、夫婦之理(みとのまぐはい)を成(な)しき。時に、嶼子(しまこ)、舊俗(もとつくに)を遺(わす)れて仙都(とこよ)に遊ぶこと、卽(すで)に三歳(みとせ)に逕(な)りぬ。忽(たちま)ちに土(くに)を懐(おも)ふ心を起こし、獨(ひとり)、二親(かぞいろ)を戀ふ。。故(かれ)、吟哀(かなしび)繁く發(おこ)り、嗟歎(なげき)日に益(ま)しき。女娘(をとめ)、問ひけらく、「此來(このごろ)、君夫(きみ)が貌(かほばせ)を觀(み)るに、常時(つね)に異なり。願はくは其の志(こころばへ)を聞かむ」といへば、嶼子(しまこ)、對(こた)へけらく、「古人(いにしへびと)の言(い)へらくは、少人(おとれるもの)は土(くに)を懐か(おも)ひ、死ぬる狐は岳(をか)を首(かしら)とす、といへることあり。僕(やつかれ)、虚談(そらごと)と以(おも)へりしに、今は斯(これ)、信(まこと)に然(しか)なり」といひき。女娘(をとめ)、問ひけらく、「君、歸らむと欲(おもほ)すや」といへば、嶼子(しまこ)、答へけらく、「僕(やつがれ)、近き親故(むつま)じき俗(くにひと)を離れて、遠き神仙(とこよ)の堺(くに)に入りぬ。戀ひ眷(した)ひ忍(あ)へず、輙(すなは)ち輕(かろがろ)しき慮(おもひ)を申(の)べつ。望(ねが)はくは、蹔(しま)し本俗(もとつくに)に還(かへ)りて、二親(かぞいろ)を拝(をろが)み奉(まつ)らむ」といひき。女娘(をとめ)、涙を拭(のご)ひて、歎(なげ)きて曰(い)ひけらく、「意(こころ)は金石(かねいし)に等しく、共に万歳(よろづとし)を期(ちぎ)りしに、何ぞ鄕里(ふるさと)を眷(した)ひて、棄(す)てること一時(たちまち)なる」といひて、卽(すなは)ち相携へて徘徊(たもとほ)り、相談(あひかたら)ひて慟(なげ)き哀しみき。遂に袂を拚(ひるが)へして退(まか)り去りて岐路(わかれぢ)に就(つ)きき。ここに、女娘(をとめ)の父母(かぞいろ)と親族(うから)と、但(ただ)、別(わかれ)を悲しみて送りき。女娘(をとめ)、玉匣(たまくしげ)を取りて嶼子(しまこ)に授けて謂(い)ひけらく、「君、終(つひ)に賤妾(やつこ)を遺(わす)れずして、眷尋(かへりみたづ)ねむとならば、堅く匣(くしげ)を握りて、慎(ゆめ)、な開き見たまひそ」といひき。卽(やが)て相分かれ船に乗る。乃(すなは)ち教へて目を眠らしめき。忽(たちまち)に本土(もとつくに)の筒川の鄕(さと)に到りき。卽(すなは)ち村邑(むらざと)を瞻眺(ながむ)るに、人と物と遷(うつ)り易(かは)りて、更(さら)に由(よ)るところなし。爰(ここ)に、鄕人(さとびと)に問ひけらく、「水の江の浦嶼(うらしま)の子の家人(いえひと)は、今何處(いづく)にかある」ととふに、鄕人(さとびと)答へらく。「君は何處(いづこ)の人なればか、舊遠(むかし)の人を問ふぞ。吾(あ)が聞きつらくは、古老等(ふるおきなたち)の相傳(あひつた)へて曰(い)へらく、先世(さきつよ)に水の江の浦嶼(うらしま)の子といふものありき。獨(ひとり)蒼海(うみ)に遊びて、復(また)還(かへ)り來ず。今、三百餘歳(みももとせあまり)を經(へ)つといへり。何(なに)ぞ忽(たちまち)に此(こ)を問ふや」といひき。卽(すなは)ち棄(す)てし心をいだきて鄕里(さと)を廻(めぐ)れども一(ひとり)の親しきものにも會(あ)はずして、既(すで)に旬日(とをか)を逕(す)ぎき。乃(すなは)ち、玉匣(たまくしげ)を撫(な)でて神女(かむをとめ)を感思(した)ひき。ここに、嶼子(しまこ)、前(さき)の日の期(ちぎり)を忘れ、忽(たちまち)に、玉匣(たまくしげ)を開きければ、卽(すなはち)瞻(めにみ)ざる間に、芳蘭(かぐは)しき體(すがた)、風雲(かぜくも)に率ひて蒼天(あめ)に翩飛(とびか)けりき。嶼子(しまこ)、卽(すなは)ち期要(ちぎり)に乖違(たが)ひて、還(また)、復(ふたた)び會(あ)ひ難(がた)きことを知り、首(かしら)を廻(めぐ)らして踟躕(たたず)み、涙に咽(むせ)びて徘徊(たもとほ)りき。ここに、涙を拭ひて哥(うた)ひしく、常世(とこよ)べに 雲たちわたる 水の江の 浦嶼(うらしま)の子が 言持ちわたる。神女(かむをとめ)、遙(はるか)に芳(かぐは)しき音(こゑ)を飛ばして 哥(うた)ひしく、大和べに 風吹きあげて 雲放れ 退(そ)き居りともよ 吾を忘らすな。嶼子(しまこ)、更(また)、戀望(こひのおもひ)に勝(た)へずして哥(うた)ひしく、子らに戀(こ)ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世(とこよ)の濱(はま)の浪の音聞こゆ。後の時(よ)の人、追(お)ひ加へて哥(うた)ひしく、水の江の 浦嶼(うらしま)の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば またも會(あ)はましを。常世(とこよ)べに 雲立ちわたる たゆまくも はつかまどひし 我ぞ悲しき。」太宰の「浦島さん」の浦島太郎も、助けた亀の背に乗り龍宮に行く。が、太宰の書く亀はこういうことを云う。「それぢや私だつて言ひますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が龜で、さうして、いぢめてゐる相手は子供だつたからでせう。龜と子供ぢやあ、その間にはひつて仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子供たちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値切つたものだ。私は、も少し出すかと思つた。あたなのケチには、呆れましたよ。私のからだの値段が、たつた五文かと思つたら、私は情け無かつたね。それにしてもあの時、相手が龜と子供だつたから、あなたは五文でも出して仲裁したんだ、まあ、氣まぐれだね。しかし、あの時の相手が龜と子供でなく、まあ、たとへば荒くれた漁師が病氣の乞食をいぢめてゐたのだつたら、あなたは五文はおろか、一文だつて出さず、いや、ただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違ひないんだ。あなたたちは、人生の切實の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。それこそ御自身の高級な宿命に、糞尿を浴びせられたやうな氣がするらしい。あなたたちの深切は、遊びだ。享樂だ。龜だから助たんだ。」が、海に入ってしまうと太宰の筆の面白さは鈍り、龍宮は気の抜けたものの如くに、乙姫は一言もしゃべらず平凡な書き振りで、浦島太郎は当たり前のように龍宮にいることに退屈し、微笑むだけの乙姫に別れを告げ、土産に二枚貝を貰い、亀の背に乗って陸に戻る。三百年経っている。「ドウシタンデセウ モトノサト ドウシタンデセウ モトノイヘ ミワタスカギリ アレノハラ ヒトノカゲナク ミチモナク マツフクカゼノオトバカリ」ここに至って太宰は云う、「何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を發見したいものである。」開けた玉手箱、二枚貝から出た煙に包まれ、浦島太郎は瞬く間に三百歳の年寄になる。が、太宰は白髪を垂らす浦島太郎は不幸ではなかったと書く。「思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招來をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。」浦島太郎は玉手箱を開けることで龍宮での出来事も、海に入る前の家族と過ごした思い出も忘れ、記憶から消え失せ「不幸ではない」者になったというのである。「丹後國風土記」の乙姫は、龍宮、蓬莱にあっても前世、人の世の頃の事ごとを忘れることが出来ず憂える浦嶼子(うらしまこ)をあわれに思う、せっかく不老不死の身になったというのに。乙姫は一度だけ浦嶼子(うらしまこ)に人の世に戻る機会を与える。機会とは試すということである。浦嶼子(うらしまこ)は、開けなければ不老不死のまま龍宮に戻ることが出来る玉手箱によって試された。浦嶼子(うらしまこ)は、打ち上げられた砂浜で生き返った。三百年が経っていた。浦嶼子(うらしまこ)は誰も経験したことのない喪失感に襲われる、が、いま一度龍宮に戻る気は起きなかった。行ってみた蓬莱の不老不死というものに飽きてしまっていたのである。浦嶼子(うらしまこ)は一歩踏み出すため、龍宮には二度と戻らない覚悟で玉手箱を開ける。己(おの)れの容貌が一変し、浦嶼子(うらしまこ)の胸に三百年前にこの世を離れ死んだ時の淋しさがやって来る。三百年前に味わうはずであった淋しさが、玉手箱を開けたことによって浦嶼子(うらしまこ)に追いついたのである。清水寺にも人はいない。出歩くなと命じられているからである。玉手箱を持っていない浦島太郎は、家に閉じ籠る。浦嶼子(うらしまこ)が見るのは、三百年後の世界である。

「佐五が帰ってから、源次郎は朝炊いた残り飯で、昼を済ませた。そして外に出た。四月半ばの空は、雲ひとつなく晴れて、真青な空からさんさんと日がふりそそいでいた。花が匂い、どこかで遠音に閑古鳥が啼いている。佐五が言い残していったようなことが、この町のどこかで起きているとは、信じ難いほど、町は明るい光に包まれ、何ごともなげに、混みあって人が歩いている。」(『闇の傀儡師(かいらいし)』藤沢周平藤沢周平全集 第十五巻』文藝春秋1993年)

 「福島県産「473品目」基準下回る 放射性物質検査19年度結果」(令和2年5月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)