嵯峨亀山に瀧口寺がある。垣根を挟んだ隣りは祇王寺である。祇王寺は、平清盛が囲っていた白拍子祇王・祇女の姉妹が若い白拍子仏御前に座を取って代わられ、己(おの)れの母と共に出家し、後に仏御前も加わり四人で住んだ往生院の廃跡に後々になって建てた小庵を寺にしたもので、瀧口寺もその往生院にあった三宝寺の廃跡に、昭和の初め長唄三味線の四代目杵屋佐吉が建てた小堂がその元(もとい)になっている。明治二十四年(1893)読売新聞が募集した歴史小説東京帝国大学学生高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が匿名で応募した『瀧口入道』が一等の該当無しのニ等に入選する。話は天皇の住む内裏の瀧口を警護していた斎藤時頼が宴の席で、平清盛の娘であり高倉天皇の皇后建礼門院の雑仕役の横笛に一目惚れし、父親に結婚の許しを乞うが身分が違うと許されず、恋文を送り続けた肝心の横笛の心も靡(なび)かず、世を捨てて仏門に入る。「思へば我しらで戀路の闇に迷ひし瀧口こそ哀れなれ。鳥部野の煙絶ゆる時なく、仇(あだ)し野の露置くにひまなき、まゝならぬ世の習はしに漏るゝ我とは思はねども、相見ての刹那に百年の契をこむる頼もしき例(ためし)なきにもあらぬ世の中に、いかなれば我のみは、天の羽衣撫で盡(つく)すらんほど永き悲しみに、只ゝ一時の望みだに得恊(えかな)はざる。思へば無情(つれな)の横笛や、過ぎにし春のこのかた、書き連ねたる百千(ももち)の文に、今は我には言殘せる誠もなし、良しあればとて此の上短き言の葉に、胸にさへ餘(あま)る長き思を寄せん術やある。情(つれ)なの横笛や、よしや送りし文は拙くとも、變らぬ赤心(まこと)は此の春秋の永きにても知れ。一夜の松風夢さめて、思寂しき衾(ふすま)の中に、我ありし事、薄(すすき)が末の露程も思い出ださんには、など一言の哀れを返さぬ事やあるべき。思へば思へば心なの横笛や。」(『瀧口入道』高山樗牛 岩波文庫1938年刊)時頼と、もう一人の恋文を送りつけて来る男との間で立ち行かなくなっていた横笛は、出家したという時頼の噂を耳にする。「或る日のこと。瀧口時頼が發心せしと、誰れ言ふとなく大奥に傳(つた)はりて、さなきだに口善惡(くちさが)なき女房共、寄ると觸(さは)ると瀧口が噂に、横笛轟(とどろ)く胸を抑へて蔭ながら様子を聞けば、情(つれ)なき戀路に世を果敢(はか)なみて業(わざ)と言ひ囃(はや)すに、人の手前も打ち忘れ、覚えず『そは誠か』と力を入れて尋ぬれば、女房共、『罪造りの横笛殿、可情(あたら)勇士を木の端とせし』。人の哀れを面白げなる高笑に、是れはとばかり、早速のいらへもせず、ツと己(おの)が部屋に走り歸りて、終日(ひねもす)夜もすがら泣き明かしぬ。」が、時頼への思いが募って矢も楯もたまらず横笛は、時頼のいる嵯峨の寺を探し当てその門を敲くが、時頼は修行の身を理由に横笛に会わず追い返してしまう。「瀧口はしばらく應(いら)へず、やゝありて、『如何(いか)に女性(によしやう)、我れ世に在りし時は御所に然(さ)る人を知りし事ありしが、我が知れる其人は我れを知らざる筈(はず)なり、されば今宵我れを訪(おとのひ)給へる御身は、我が知れる横笛にてはよもあらじ、良しや其人なりとても、此世の中に心は死して、殘る體(からだ)は空蝉の我れ、我れに恨みあればとて、そを言ふの要もなく、よし又人に誠あらばとて、そを聞かん願ひもなし。一切の諸縁に離れたる身、今更ら返らぬ世の浮事を語り出でて何かせん。聞き給へや女性、何事も過ぎにし事は夢なれば、我れに恨みありとな思ひ給ひそ。己(おの)れに情(つれ)なきものの善知識となれる例(ためし)、世に少なからず、誠に道に入りし身の、そを恨みん謂(いは)れやある。されば遇うて益なき今宵の我れ、唯ゝ何事言はず、此の儘(まま)歸り給へ。二言とは申すまじきぞ、聞き分け給ひしか、横笛殿』。」横笛はそれから程なく髪を剃り尼となる。後に時頼は深草の道中で、死んだある尼の事を聞き、その尼が横笛であると知って涙を落とす。「瀧口入道、横笛が墓に來て見れば、墓とは名のみ、小高く盛りし土饅頭の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。━━世にありし時は花の如き艶(あで)やかなる女なりしが、一旦無常の嵐に誘はれては、いづれ遁(のが)れぬ古墳の一墓の主かや、━━今かゝる哀れを見んことは、神ならぬ身の知る由もなく、嵯峨の奥に夜半かけて迷ひ來りし時は我れ情なくも門をば開けざりき。恥をも名をも思ふ遑(いとま)なく、様を變へ身を殺す迄(まで)の哀れの深さを思へば、我れこそ中々に罪深かりけれ。あゝ横笛、花の如き姿今いづこにある。」この話は高山樗牛の創作ではなく、『平家物語』の巻第十の第九十五句の「横笛」を下敷きにしている。その全文はこうである。「さるほどに、小松の三位の中将維盛(これもり)は、わが身は屋島にありながら、心は都へかよはれけり。故郷にのこしおき給ふ北の方、幼き人々のことを、明けても、暮れても、思はれければ、「あるにかひなき(生きていても無駄な)わが身かな」と、いとどもの憂くおぼえて、寿永三年(1184)三月十五日のあかつき、しのびつつ屋島の館(たち)をまぎれ出で給ふ。乳人(めのと)の与三兵衛重景、石童丸といふ童(わらは)、下郎には「舟もよく心得たる者なれば」とて、武里といふ舎人(とねり)、これら三人ばかり召し具して、阿波の国、由岐の浦より海士小船に乗り給ひ、鳴戸の沖を漕ぎ渡り、「ここは越前の三位(通盛)の北の方、耐へざる思ひに身を投げし所なり」と思ひければ、念仏百返ばかり申しつつ、紀伊の路へおもむき給ひけり。和歌、吹上の浜、衣通姫(そとほりひめ)の神とあらはれおはします玉津島の明神、日前権現の御前の沖を過ぎ、紀伊の国黒井の湊にこそ着き給へ。「これより浦づたひ、山づたひに都に行きて、恋しき者どもをいま一度もし、見えばや」と思はれけれども、本三位の中将重衡の、生捕にせられて、京、鎌倉ひきしろはれて(引きずられて)、恥をさらし給ふだにも心憂きに、この身さへ捕はれて、憂き名をながし、父のかばねに血をあやさんもさすがにて(亡父重盛の名を辱めることもためらわれ)、千たび心はすすめども、心に心をからかひて(思い悩み)、ひきかへ(逆に)高野の御山へのぼり給ひけり。高野に年ごろ(以前から)知られける聖あり。三條斎藤左衛門大夫茂頼が子に「斎藤瀧口時頼」といふ者なり。もとは小松殿(重盛)の侍なりしが、十三のとき、本所へ参り、宮仕ひしたてまつる。建礼門院の雑仕「横笛」といふ女を思ひて、最愛してかよひけり。かの女の由来を詳しくたづぬるに、もとは江口の長者が娘(遊女宿の女主人の娘)なり。故太政入道殿(平清盛)、福原下向のとき、長者が宿所へ入り給ふに、横笛十一歳と申すに、瓶子(へいじ)取り(お酌)にぞ出でたりける。入道これを見給ふに、みめかたち優なりければ、中宮の雑仕に召さるる。かかるわりなき(とびきりの)美人なれば、横笛十四、瀧口十五と申す年より、浅からず思ひそめてぞかよひける。父茂頼これを聞き、「なんぢを世にあらん(しかるべき格式)者の聟にもなして、よきありさま(気楽な暮らしぶり)を見聞かんとこそ思ひしに、いつとなく出仕なども懈怠(けたい)がちなるものかな」と、あながち(無理やり)にこれ(交際)を制しけり。瀧口申しけるは、「西王母と聞きし人、昔はありて、今はなし。東方朔が九千歳も、名をのみ聞きて、目には見えず。老少不定(寿命は老若に関係ない)の世の中は、石火(一瞬)の光に異ならず。たとへば人の命、長しといへども、七八十をば過ぎず。そのうちに身のさかりなること、わづかに二十余年を限れり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者(妻)をば片時も見ては何かせん。「思はしきもの(恋しき妻)を見ん」とすれば、父の命を背くに似たり。『父の命を背かじ』とすれば、五百生まで深からん女の心をやぶるべし(傷つける)。とにかくに、父のため、女のため、これすなはち善知識(仏道発心の機縁)のもとゐなり。憂き世を厭(いと)ひ、まことの道に入らんにはしかじ」とて、瀧口十九にて菩提心をおこし、髷(もとどり)切りて、嵯峨の奥、「往生院」といふ所に、行ひすまして(修行に専念)ゐたりけるに、横笛、これをつたへ聞きて、「われをこそ捨てめ、様をさへ変へけんことの無慚さよ。たとひ世をこそ厭ふとも、なじかはかく(この理由)と知らせざらん。人こそ心づよくとも(あの人の心が変わらないとしても)、たづねて、いまは恨みん」と思ひつつ、人一人召し具して、ある夕かたに、内裏を出でて、嵯峨の奥へぞあこがれ行く(あてもなくさまよいゆく)。ころは如月十日あまりのことなれば、梅津の里の春風に、綴喜の里やにほふらん。大井川の月影も、霞にこもりておぼろなり。一方ならぬあはれさも、「誰ゆゑか」とこそ思ひけれ。「往生院」とは聞きたれども、さだかなる所を知らざりければ、ここにたたずみ、かしこにたたずみ、たづねかぬるぞ無慚なる。灯籠の光のほのかなるに目をかけて、はるばる分け入り、住み荒らしたる庵にたち寄り、聞きければ、瀧口とおぼしくて、内に念誦の声しけり。召し具したる女を入れて、「わらはこそ、これまで訪ねまゐりたれ」と柴の編戸をたたかせければ、瀧口入道、胸うちさわぎ、障子のひまよりのぞきて見れば、寝ぐたれ髪のひまよりも、流るる涙ぞところ狭(せ)く今宵も寝(い)ねやらぬとおぼえて、面痩せたるありさま、たづねかねたる気色、まことにいたはしく見えければ、いかなる道心者も心弱くなりつべし。瀧口、「いまは出で会ひ、見参せばや」と思ひしが、「かく、心かひなくしては、仏道なるや、ならざるや」と心に心を恥ぢしめて、いそぎ人を出だして、「まつたくこれにはさる人なし。門たがひにてぞ(間違えて)候ふらん」とて、心強くも瀧口は、つひに会はでぞ返しける。横笛、「うらめしや。発心をさまたげたてまつらんとにはあらず。ともに閼伽(あか)の水をむすびあげて、ひとつ蓮の縁とならんとこそのぞみしに、夫の心は川の瀬の、刹那に変わるならひかや。女の心は池の水の(淀んで)積りてものを思ふなるも、いまこそ思ひ知られけれ」。瀧口入道、同宿の聖に向かひて申しけるは、「ここもあまりにしづかにて、念仏の障碍はなけれども、飽かで別れし女、このすまひを見えて候へば、一度は心強くとも、またもしたふことあらば、心うごくこともや候ふべし。いとま申して」とて、嵯峨をば出で、高野へのぼり、清浄院に行ひすましてゐたりけり。横笛も様を変へたるよし聞こえければ、瀧口入道、高野より、ある便りに一首の歌をぞ送りける。剃るまではうらみしかどもあづさ弓まことの道に入るぞうれしき。横笛、返事に、剃るとてもなにかうらみんあづさ弓ひきとどむべき心ならねば。その思ひの積もりにや、横笛、奈良の法華寺にありけるが、ほどなく死してけり。瀧口入道、このことをつたへ聞きて、いよいよ行ひすましてゐたりければ、父の不孝もゆるされたり。したしき者どもは、「高野の聖の御坊」とぞもてなしける。高野の人は、「梨の本の阿浄坊」とぞ申す。由来を知りたる者は「瀧口入道」とも申しける。」この「横笛」に続く「高野の巻」「維盛出家」「維盛入水」で高野山に登った斎藤時頼、瀧口入道は、源氏に追い詰められた平清盛の嫡男重盛の子維盛の出家の導師となり、和歌の浦での維盛の入水を見届ける。が、高山樗牛の『瀧口入道』では、戦火の都を逃れた維盛に瀧口入道は落人の身に甘んじるのではなく、一族のいる屋島に戻り「御一門と生活を共にし給へ。」と諭すが、維盛はその翌朝和歌の浦で連れの者と共に入水し、行方を追ってそのことを知った瀧口入道は浜のその場で切腹して果てる。が、平重盛に仕えた実際の斎藤時頼は、大圓院の八世阿浄として後半生を高野山で過ごした。『平家物語』で時頼が維盛の入水を見届けたのは、浄土へ導くためであり、仏徒は、あるであろうと信じて疑わない死後浄土への約束を果たさなければならないのである。高山樗牛の書く世捨人斎藤時頼は僧となり、同じく尼となった横笛の死を知って嘆き、説得を聞き入れなかった維盛の入水に接し自害してしまう。仏修行の妨げを理由に横笛を拒否した時頼のその後の自死は、仏修行の未熟にあるのであろうか。横笛との悲恋と、時頼が仏教の本分を捨て絶望の穴に自ら落ちたことはなるほど悲劇であろう。が、当時流行の美文調に甘やかされた語りからは、時頼の着る墨染の衣の仏の香も、修行の汗臭さも漂わない、それどころかその衣はただ血生臭く染まってしまったのである。話はいかようにも作られる。鎌倉期より後に書かれたという『御伽草子』の中の「横笛草紙」では、横笛は寺の門前で時頼に追い返されると、すぐに大堰川に身投げし、それを知った時頼は自ら遺体を引き上げて荼毘に付し、骨を拾って弔い、高野山に登り横笛の成仏のための修行を己(おの)れに課した、と語る。たとえば、横笛に鋼(はがね)の意地があればどうか。横笛に何通もの恋文を書いた時頼がより良い返事を貰えず、父親からもその結婚を許されなかったから出家したというその決心は果たして本物なのか。已(や)むに已まれぬ発心ではなく、思い通りに行かなかったが故に出家した時頼は、横笛に試される。横笛が時頼のいる寺を探し訪ね来たということがどういうことか、時頼に分からぬはずはなく、修行の妨げになるから会わないという理由は、時頼の修行、発心はまだ浅くいまでも横笛に対して思いがあるということである。であれば横笛も時頼への思いの意地があるのであれば、門が開くまで時頼の元に通い続けなければならない。時頼も高野山へは逃げず、門の内でひたすら仏に仕える。時経て、ついに時頼が門戸を開ける時が来る。それは時頼が修行を深め、横笛に対面しても心が動じない自信を持ったということかもしれぬ。時頼の元に何年も通い続けた横笛の心は、仏修行を経た時頼にどう映るのか、己(おの)れの仏修行が横笛の思いによって鍛え上げられたと考えるとすれば。

 「養家は赤貧というに近い家であった。四十五歳の養父は、彼が行くと同時に隠居して大工をやめてしまった。そして小さな丁髷を頭にのせ、彼から貰う僅かばかりの小遣い銭を刻みといっしょに煙草入れにいれて、一日じゅう近くの家の新聞を読んでまわっていた。約一粁はなれた菩提寺まで他人の土地を踏まずに行けたというのが彼の口癖であったが、それは彼の知らぬ先祖のことに過ぎなかった。勤め先きの薬局は、彼の薬剤師という資格だけを営業規則上の必要として雇いいれたのであったから、彼は実際はただの若い手代としてこき使われた。しかし彼は平気でそれに耐えた。」(「硝酸銀」藤枝静男『空気頭』講談社1967年)

 「『ふるさと喪失』…慰謝料どう判断 認定額傾向、東京電力側は反論」(令和2年5月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)