東山の哲学の道は、琵琶湖疏水沿いの小径をそう名づけたものである。琵琶湖疏水はその名の通り、琵琶湖の水を京都市中に通したものであり、その水は市の水道の九十七パーセントを賄い、残りの三パーセントも琵琶湖を出た瀬田川が注ぐ宇治川の水で賄っている。そのため京都市は大正三年(1914)から滋賀県に毎年感謝金の名目で金を払い、いまのその額は二億三千万円である。が、そもそも琵琶湖から水を引くことは江戸以前からあった願いであり、この疏水は水道のためだけに引いたものではなかった。明治十六年(1883)十一月五日に開催した勧業諮問会に京都府知事北垣国道は、「琵琶湖疏水起工趣意書」を提出する。「夫レ京都ノ繁盛ヲ維持セント欲セハ其策亦少ナカラサルヘシ然レトモ風俗地理ニ因テ之ヲ考フレバ工芸ヲ精巧ニシテ以テ物産ヲ振興シ水利ヲ開通シテ以テ運輸ヲ便ニスルヲ第一トス幸ニ近接ノ地方ニシテ其高低ノ位置ヲ得タル近江国琵琶湖水ノ疎通スヘキモノアリ是レ我カ京都全区ヲ潤沢セシムル一大元素ト謂ハサル可カラス此水利ニ因リテ運輸ヲ便ニシ器械ヲ運転シテ以テ諸製造ヲ盛大ニセハ将ニ衰頽セントスルノ京都ヲシテ忽チ転シテ天府富裕ノ地トナスコトヲ得可シ……琵琶湖疏水ノ工事一挙シテ百益相聯貫シ創興スヘキコト如此是レ此工ヲ起サントスル所以ノ大旨ナリ。其ノ便益、其一、製造機械之事(水車による動力)、其二、運輸之事(大阪湾~淀川~鴨川~疏水~琵琶湖を繋ぐ)、其三、田畑灌漑之事、其四、精米水車之事、其五、火災防眞之事、其六、井泉之事(飲料水)、其七、衛生上ニ関スル事(下水整備)。」この二年前の明治十四年(1881)、「東京湾築港計画」の論文で挫折を味わった工部大学校の学生田邊朔郎が卒業研究の調査に京都を訪れ、北垣国道に「琵琶湖疏水工事の計画」の内容を明かす。田邊の計画はまず竪坑を掘り、そこを起点に長等山のトンネルを東西に、東西からも同時に掘り進めることであった。この田邊の計画に北垣国道の心が動いたのである。福島県の安積疏水を手掛けた南一郎平が調査、島田道生が測量、二十一歳の田邊朔郎を土木の責任者に明治十八年(1885)年琵琶湖疏水の工事は着工し、明治二十三年(1890)その第一疏水が完成する。この工事のさ中、田邊は渡米、コロラド州アスペン鉱山の水力発電を視察し、北垣の「趣意書」になかった日本初の水力発電所を疏水の完成に合わせ造っている。この瞬発力は只(ただ)ならない。疏水完成の年の秋、田邊は榎本武揚の媒酌で北垣国道の長女静子と結婚し、翌明治二十四年(1891)には二十九歳で東京帝国大学の教授になっている。この秀才にして若き成功者は、立身出世の手本のような人物に見える。掘り進んだトンネルに地下水が溢れ出してくると、真っ先に手桶を持って降りて行ったという挿話を聞けば、田邊朔郎は学者というより、地に足のついた土木技師だったのかもしれない。「一身殉事 萬戸霑恩(一身事に殉じ萬戸恩に霑(うる)ほふ(涙に濡れる))。工夫頭山野治平、火夫大川米藏、工夫福岡浪藏、仝(同)久保時藏、仝米山泰一郎、仝山田幾次郎、仝中川久次郎、仝大槻市藏、仝斎藤寅吉、仝吉木榮吉、仝砂子三五郎、仝宮崎徳松、仝藤井重介、仝下郡忠治、右自明治十八年至廿三年工事中重傷至死、京都府六等属土岐長寛、京都府七等属内藤義次、仝九等技手服部晉、右工事中罹病而死。」疏水を見下ろす山裾に建つ、琵琶湖疏水の工事中に命を落とした十七名の慰霊碑の文面である。これは明治三十五年(1902)田邊が四十歳の時に、己(おの)れの金で建てたものであるという。碑は二メートル余の高さがある。初めて任された大仕事に、これだけの死者が出た。その者らの家の者と、その者らを知る者は皆涙を流して悲しんだ。田邊は明治三十三年(1900)、北海道庁鉄道部長から京都帝国大学の教授になり、京都に戻って来ている。碑を建てたのはその二年後である。その時の田邉の胸の内は知る由もないが、この者らの死を田邊は、己(おの)れがいつの日か忘れてしまうことを懼(おそ)れたのではないか、それを申し訳なく思ったのではないか。これは犠牲を称(たた)えるためのものではない。田邊は己(おの)れのために建てたのである。南禅寺参道前に、水を噴き上げる疏水の深い溜まりがある。南禅寺には、苦肉の策で疏水を空中に通した水路閣がある。溜まりを出た一方の疏水は、真っ直ぐ西に向かい、一旦鉤型に折れ、そのまま鴨川に注いでいる。この溜まりから疏水に沿って京都市動物園がある。いま疏水の縁に立って向こう岸を見ると、その幅は二十メートル足らずなのであるが、赤や黄や青の建物が遠い様に目に映る。動物のいる檻は見えない。背高の観覧車はゆっくり回り、水際のテラスに並ぶ白いテーブルに家族連れの姿があり、ぞろぞろ動いている姿も見える。が、子どもの声が聞こえて来ない。キリンを見ても何も口に出さない子どももいるかもしれないが、歓声を上げる子どももいるはずである。が、動物園は静かである。人に近づかないように、人の傍で大声を出さないように、人前で口を開かないように、後ろからマスクをした親が云っているのかもしれない。動物園に限らず、町中でもどこでも子どもは守らされているのである。いまは見えないものが靄がかかったように辺りを、世の中を覆っている。黙って息を詰めている方が、子どもには獣の毛並みの一本一本までもがその目に見えて来るであろうか。

 「しょうがいがあります ◯2500えんはふうとうにいれます ✕おかねのけいさんはできません ◯1たい1ではおはなしできます ✕ひとがたくさんいるとこわくてにげたくなります ◯となりにかいらんをまわすことはできます ◯ひととあったらあたまをさげることはできます ✕いぬとかねこはにがてです ✕ごみのぶんべつができません ◯自てんしゃはのれます ◯せんたくはできます ほすこともできます ◯どこでもすーぱーこんびにはかいものできます ◯くやくしょびょういんにはいけます ✕かんじやかたかなはにがてです ◯けいたいでんわはつうわのみです」(「「おかねのけいさんはできません」男性自殺、障害の記載「(班長選を断ると)自治会が強要」」毎日新聞令和2年7月31日)

 「東日本大震災から「9年5カ月」…浜通り6署が管内を一斉捜索」(令和2年8月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)