七条通は、西は桂川の桂橋の手前で八条通と交わり、東は智積院の門前で果てる。鴨川を東に渡ってすぐの七条通から北に大和大路通を二百五十メートル上がると、正面通がある。百五十メートルの長さだけ道幅を拡げている通りである。この突き当りには、いまは豊臣秀吉を祀る豊国神社が建っているが、この道幅を拡げた時には、秀吉が建てた大仏殿があった。天正十三年(1585)に起きた大地震の翌年、秀吉は奈良東大寺の大仏を真似、京都に天地鎮めの大仏建設を始めるのであるが、その建設途中の天正十九年(1591)唯ひとりの世継ぎだった鶴松が三歳で亡くなり、その菩提寺として祥雲寺を七条通の突き当りに建てる。大地震のあった天正十三年(1585)秀吉は、高野山を下りた分派が築いた新義真言根来寺の僧の武装集団根来衆を、寺ごと焼き払っている。その戦火を逃れ居場所を転々し、秀吉の死後徳川家康から大仏殿跡に建った豊国神社の一部と後に祥雲寺を与えられたのが、根来寺智積院にいた学頭の玄宥(げんゆう)とその弟子らであり、玄宥がつけた寺の名が五百仏山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)である。事を単純に記せばこうであるが、坐禅や念仏でない戦国武将を悩ませた仏教の暴力と、その牙を抜かれてゆく様(さま)への想像は怠ってはならない。「この学侶墓地に群立する墓石は、江戸時代智積院で修行し、志し半ばで亡くなられた方々を祀ったものであります。智積院は、代々真言教学(密教)の指導者が住職となり、一般の参詣のお寺とは性格を異にした、学問を尊重するお寺でありまして教学の府(中心地)「学山智山」として名を博しておりました。ここでの修行は、約二十年の歳月を単に真言教学を学ぶだけでなく、ひろく一般仏教も学ぶことに努め、宗派の隔たりもなく、元禄・寛永年間(江戸中期)には、全国から多くの学侶がこの地に集い、その数千六百余人に及んだと伝えられており、朝粥のすする音が七条大橋にまでとどろいたとも言われております。」智積院の、鉄筋コンクリートの金堂の裏の叢に、この看板が立っている。背後の斜面が学侶墓地である。五百を超える大きさの疎(まば)らな墓石が段々に整然と並び、頂上は並べて植えられた百日紅さるすべり)のいまが花盛りである。千六百余人の学侶の朝粥のすする音は、その内からぽつりぽつりと死ぬ者が出ても、天下泰平の音だったには違いない。高野山金剛峯寺の堕落に嫌気が差した覚鑁(かくばん)が、鳥羽上皇の援助で高野山の別地に大伝法院を建て、それを維持するための荘園を得る。身に余る財力を得ると権力が生まれ、財産はそれがいつ誰に奪い取られるか知れず、それは寺も例外ではなく、それを守るために武装する。やがて大伝法院はその権力を金剛峯寺に及ぼすようになり、反発が起き、古義真言と新義真言は戦いにまで発展してしまう。金剛峯寺側に敗れた大伝法院側は山を下り、新たに根来寺を作る。負けを味わった根来衆と呼ばれた武装集団は、その武装を強化するため鉄砲を手に入れ、学侶たちはその内にあって仏教の根本を身につけんとしていたのであるが、根来衆はその屈強さ故(ゆえ)に秀吉に目をつけられて滅び、玄宥たちは彷徨(さまよ)うことになるのである。朝粥をすする音は、それから百年後の音である。昭和四十三年(1968)、学生運動が華やかなりし時、立命館大学も学生によってバリケードが築かれ、学校は封鎖される。教授たちは大学に寄りつかず、授業も行われない。が、毎晩日が暮れると、ひとつの研究室の窓にだけ明かりが灯る。密かにバリケードを潜り、校舎に入っている者がいたのである。大学退職の後、単独で幾冊もの辞典を編み漢字学の第一人者となる白川静である。明かりを見つけた学生がそれを誰とも知らず、摘み出そうかと云うと、それが誰であるか知っていた回級が上の学生は、あの人はいいんだ、と云って止めたという。白川静智積院の学侶というわけではなく、ヘルメット姿の学生らが根来寺武装集団というわけではないが。

 「負い目という感情や個人的な義務という感情はすでに指摘したように、存在するかぎりで最も古く、最も原初的な人格的な関係に根ざすものである。すなわち買い手と売り手の関係、債権者と債務者の関係から生まれてきたものなのだ。この関係のうちで人格と人格が直面し、人格が他の人格との関係でみずからを計ったのである。どれほど低い文明であっても、このよう関係が確認されないような文明はまだみいだされていないのである。」(『負債論』デヴィッド・グレーバー 酒井隆史・高祖岩三郎・佐々木夏子訳 以文社2016年)

 「「処理水処分」早期決定求める 双葉町議会、廃炉作業影響懸念」(令和2年9月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)