梶の葉を朗詠集のしをり哉 蕪村。この句の季語は梶の葉で、織姫彦星と同じ七夕の季語の一つであるが、機織りの上達を願い歌を書いた七枚の梶の葉に針で五色の糸を通して星の下に供えたという平安の風習、乞巧奠(きっこうでん)の知識のない者にはこの梶の葉の意味するところは分からない。朗詠集、『和漢朗詠集』は正二位権大納言藤原公任(ひじわらのきんとう)が己(おの)れの娘婿藤原道長の五男教通(のりみち)への結婚の引出物にしたという詩歌集で、公任自らが漢詩漢詩に倣った本朝詩と和歌を撰り集めた平安王朝が匂い立つ教養の書であり、当時蕪村の仲間内でも古典となっていたものに違いない。蕪村が梶の葉のしをりをどの頁に挿したのかは分からぬが、『和漢朗詠集』の巻上秋の「七夕(しつせき)」の項には次のような詩歌が載っている。「憶(おも)ひ得たり少年にして長く乞巧(きつかう、乞巧奠)せしことを 竹竿の頭上に願糸多し 白(白居易)」竹竿の枝に結んだ幾本もの五色の糸を見上れば、子どもの頃にはいつも七夕に願い事をしていたことを思い出す。「二星(じせい)たまたま逢へり いまだ別緒依々(べつしよいい)の恨を叙(の)べざるに 五更(ごかう)まさに明けなむとす 頻(しきり)に涼風颯々(りやうふうさつさつ)の声に驚く 美材(小野美材おののよしき)」年に一度逢う牽牛と織姫は瞬く間にやって来る別れに恨み言を云いたくても、夜明けの肌を撫でる風の冷たさにはっと驚いてしまう。「露は別れの涙(なんだ)なるべし珠空しく落つ 雲はこれ残んの粧ひ髻(もとどり)いまだ成らず 菅(菅原道真)」地に置く露は牽牛と織姫の別れを惜しんで落とした涙で、空の雲は寝乱れたままの髪のなりのようだ。「風は昨夜より声いよいよ怨む 露は明朝に及んで涙禁ぜず」昨夜から吹き已(や)まない風音はますます七夕の別れの恨み節のようで、夜明けに見る露は抑えきれない別れの涙に違いない。「去衣(きよい)浪に曳いて霞湿(うる)ふべし 行燭(かうしよく)流れに浸して月消えなむとす 菅三品(くわんさんぼん、菅原文時)」天の川を渡る織姫の霞の衣の裾は波に濡れるに違いなく、捧げ照らす月の灯も流れに浸され消えかかっている。「詞(ことば)は微波(びは)に託してかつかつ遣(や)るといへども 心は片月を期して媒(なかだち)とせんとす 輔昭(ほせう、菅原輔昭)」向こう岸へは言葉は天の川のさざ波に託すほかないのだけれど、それよりも早く心はこの欠けた月のようだと伝えることが出来れば。「あまの川とほきわたりにあらねども君が舟出は年にこそ待て 人丸(柿本人麻呂)」天の川の向こう岸がそれほど遠いわけではないのに、牽牛が舟を出すのは一年に一度だから、その一年という時を待たなければならない。「ひとゝせに一夜と思へど七夕にあひみむ秋のかぎりなきかな 貫之(紀貫之)」一年に一度の逢瀬ではあるが、秋が巡って来る限り牽牛と織姫は永遠に逢うことが出来るのです。「としごとに逢ふとはすれど七夕の寝(ぬ)る夜のかずぞすくなかりける 躬恒(凡河内躬恒(おほしかふちのみつね))」必ず一年に一度牽牛と織姫は逢うことが出来るというけれど、その逢瀬が一夜限りというのはやはり男と女には耐え得ないのである。梶の葉をしをりとして持ち出した以上蕪村は、『和漢朗詠集』のこの「七夕」の項をこの時に読んだか、あるいは以前に読んだことがあるには違いない。梶の葉は大人の手の平の大きさがあり、その青々とした葉はおよそしをりに相応しいものではないが、蕪村は本に挟んでしをりとしたという。蕪村は実際に、手許にあった梶の葉をそのようにしたのかもしれない、あるいは誰か知り合いの者がそのようにしていたものを見たことがあるのかもしれない。あるいは目の前には梶の葉も朗詠集もなく、想像でそう詠んだのかもしれぬ。が、いずれであってもしをりに相応しいとは思えぬ梶の葉をしをりにすることの意味するところは、演出である。七夕は、頭上遙か天の川を挟んだ牽牛と織姫の年に一度の逢瀬である。蕪村は、あるいは蕪村の知り合いかもしれぬ者は七夕の句を考えあぐね、近くにあった朗詠集を手元に引き寄せ、これは女が、正確には女の父親が用意したものであるが、結婚相手の男に贈ったものであることに思い当たる。なるほど朗詠集は、そもそも男女の絡んだ本である。このささやかな発見の嬉しさを云うために、蕪村は梶の葉をそのしをりとして演出したのである。梶の葉が挟まれている朗詠集の頁は、云うまでもなく「七夕」である。七月一日から月の半ばまで、千本ゑんま堂で風祭りという催しがある。薄暗い本堂の内でも外でも幾つもぶら下がった風鈴が鳴り、その風は千本通商店街に赤い提灯を並べ掲げる入口から、月極駐車場になっている境内を通って来る。七夕は星祭りともいうが、千本ゑんま堂は風祭りと名づけ、日が沈むと提灯に明りを灯し、閻魔大王の前で梶の葉に願い事を書かせる。願いを書いた梶の葉は、本堂の前に張った麻紐に逆さに吊るされゆらゆら風に靡(なび)き、日に日に丸まって文字は見えなくなり、カサカサに乾き、終(つい)にはサインペンの字もろとも粉々に砕け散ってしまう。梶の葉に書いた願い事は、雨晒しの絵馬の板切れのようにいつまでもこの世に留まるのでなく、風に乗ってしかるべきところまで飛んで行くのであると諭されれば、そうかもしれぬと人の信心は、情こそは萎(しな)びた梶の葉の方に傾くのである。

 「杏の実が熟れる頃、お稲荷さんの祭が近づく。雄二の家の納屋の前の杏は、根元に犬の墓があって、墓のまはりには雑草の森林や、谷や丘があり、公園もあるのだが、杏の実はそこへ墜ちるのだ。猫が来て墓を無視することもある。杏の花は、むかし咲いた。花は桃色で、花は青空に粉を吹いたやうに咲く。それが実になって眼に見え出すと、むかし咲いた花を雄二は憶ひ出す。」(「貂(てん)」原民喜原民喜全集 第一巻』芳賀書店1969年)

 「海洋放出、13市町村議会「反対」 福島第1原発・処理水意見書」(令和2年7月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 明月院ブルーという色がある。北鎌倉明月院に咲く紫陽花の花の色を指して、そういうのだという。その青色は咲き始めの薄水色ではなく、枯れる前のひと時の濃い水色をいうのであろう。明月院の境内一面に植えられている紫陽花は七月に入ると、まだ水色の盛りでも枯れ始めていても、花の首をすべて刎(は)ねられてしまう。来年も間違いなく咲かせるためにそうするのだと、鋏で刎た首を大袋に集めていた庭師の一人が教えてくれた。この庭師はわざわざ庭の手入れに京都から四五人で、明月院にやって来ていた。その時だけでなくある年から毎年、庭師らはこの時期に紫陽花の首を刎ねに来ているのである。昭和六十二年(1987)一月三十日、明月院の住職が船橋のホテルで自殺をしている。血縁に寺を継ぐ者がなく、花園妙心寺の僧侶がこの住職の空けた穴を埋めに入り、己(おの)れの寺事(こと)の手始めに旧知の庭師を呼び寄せたのである。自死した住職が書いた卒塔婆を見たことがある。盂蘭盆に備え裏山の墓地の草毟(むし)りの手伝い作業をしていた時、稚拙でばらばらの大きさの字が並ぶ異様な卒塔婆が目に入り寺の用務の者に訊くと、それが自死した住職が書いたものであった。その下手な字の古びた卒塔婆は、まだ何本も辺りの墓石に寄りかかり立っていた。年のいった用務の話によれば、自死した住職は前住職だった父親の跡を継いで住職になった、前住職の父親には妾がいて、母親が死んだ後に父親はその妾を寺に入れ、息子はそれを嫌って寺を出、父親が死ぬと戻って来た、駒沢出の人の良い住職だったが女遊びが好きで金遣いが荒く、宝籤に金を注ぎ込んだり、パラジウム先物取引きで一千万すり、砂糖相場にも手を出して失敗し、果ては寺の地所を担保に借金をして詐欺まがいの事件に巻き込まれてしまった、と云うのである。週刊誌沙汰にもなったという、住職が自死に追い詰められた事件の裁判判決文はこうである。「主文。被告(田村初ニ他二名)らは原告(嶋村豊他二十五名)らに対して、各自、別紙請求目録「原告名」欄記載の各原告ら該当の同目録「請求金額」欄記載の各金員及びこれに対するいずれも昭和六一年一二月一一日から各支払い済みにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。事実及び理由。━━原告らは主文第一、第二項と同旨の判決及び主文第一項につき仮執行の宣言を求め、請求原因として次のとおり述べた。1、当事者。(一)原告らはいずれも訴外和興抵当証券株式会社(以下「和興」という。)から抵当証券を購入した者である。(二)被告田村初ニ(以下「被告田村」という。)、被告鈴木一郎(以下「被告鈴木」という。)及び分離前の被告足利誠三(以下「足利」という。)は、昭和六一年六月二日に和興の取締役に就任し、被告田村は同年八月一八日まで代表取締役として、足利は右同日から代表取締役として、また、被告北田一廣(以下「被告北田」という。)は和興の幹部職員として、いずれも和興の経営に参画し、業務を遂行していた者である。2、本件不法行為の経緯。(一)いずれも分離前の被告株式会社東証ファクタリング(以下「東証」という。)の取締役である分離前の被告波平春夫(以下「波平」という。)、同奈良敦(以下「奈良」という。)、東証の幹部である分離前の被告藤原襄(以下「藤原」という。)及び被告田村は、昭和六一年二月一〇日東証から出資金を借り受けて、抵当証券の販売を目的とする資本金三〇〇〇万円(発行済株式数六〇〇株)の和興を設立し、同社の代表取締役に被告田村(昭和六一年八月一八日退任)を、取締役に被告鈴木及び足利を、監査役に藤原をそれぞれ就任させた。波平、奈良、藤原は和興の株式を各一一〇株ずつ、被告田村は一二〇株、被告鈴木は一〇〇株、被告北田は二〇株をそれぞれ所有している。(二)和興は東証から三〇〇〇万円を借り受け、その資金をもって、昭和六一年三月ころ東京都中央区日本橋本町一丁目六番地所在のビルの一室を賃借し、内装工事を行ったうえ一流金融機関のような外装を整え、従業員一六名(男女各八名)で営業活動を開始し、また、同年六月ころ札幌市中央区北一条西二丁目一番地所在の建物を賃借して札幌営業所を開設し、従業員八名(男二名、女六名)で同営業所の活動を開始した。(三)波平は昭和六一年二月初め訴外宗教法人明月院(以下「明月院」という。)の代表役員である訴外近藤杏邨(以下「近藤」という。)に対し、明月院が所有する神奈川県鎌倉市山ノ内字明月谷一九〇番ほかの山林、宅地約四万平方メートルの土地(以下「本件土地」という、)につき、和興を抵当権者とする債権額一二億円の抵当権設定登記をすれば、和興が右抵当権について登記所から抵当証券の交付をうけてこれを販売し、東証が和興からその販売により得た資金を吸い上げ、明月院に貸し付ける旨の申し出を行ったろころ、近藤はこれを承諾した。(四)東証代表取締役波平は、和興の代表取締役被告田村との間において、架空の金銭債権を作り出すため、和興が東証に対し一二億円の貸付を行った旨の昭和六一年二月一七日付金銭消費貸借契約書を作成し、同月二四日近藤をして、明月院所有の本件土地につき、横浜地方法務局鎌倉出張所受付第二八四〇号をもって、債権額を一二億円、債務者を東証、抵当権者を和興とする抵当権設定登記手続を行わせ、同年三月一五日この抵当権に基づき、右法務局出張所から一二億円が一二口に分割された一二億円の抵当証券(以下「本件抵当証券」という。)一二枚の交付を受けた。(五)被告ら及び足利、波平、奈良、藤原(以下「被告らほか四名」という。)は、和興の営業活動として、本件抵当証券を販売して資金を集めることを決定したが、抵当証券自体の裏書、交付は行わず、抵当証券の売渡証書と保護預かり証の双方の性質を有するモーゲージ証書なる書面を作成して、これを購入者に交付することにし、昭和六一年三月ころから本件抵当証券の販売のための宣伝活動を開始した。右宣伝活動は、新聞の折り込みや電車内広告によるもので、その内容は、一年ものの確定利率六・二パーセント、二年ものの確定利率六・四パーセント、三年ものの確定利率六・六パーセント、五年ものの確定利率七・〇パーセントという当時の低金利の金融状況下においては有利な投資と思わせるものであり、しかも、元利金の支払いは抵当証券により担保されたうえ、和興が保証するので二重に安全で、税金面においても節税商品であると「安全」、「確実」、「有利」を宣伝するものであった。(六)原告らは、他の多くの投資家と同様に和興の右宣伝を信じて、本件抵当証券を買い受けモーゲージ証書の引渡しを受けた。(七)和興は多額の宣伝費をかけて本件抵当証券を販売したが、その販売代金のうち宣伝経費及び事務管理費を除いた資金は、まず、東証が和興の設立のために出資した六〇〇〇万円の返済にあてられ、また、東証に貸付金の形で送金され、東証において、その事業のために使用されたほか明月院への貸付金にあてられたが、三億円以上にのぼる宣伝経費、事務管理費、購入者の途中解約による解約金等により大半が費消されてしまった。そして、新聞等の報道機関が、昭和六一年五月ころから抵当証券会社の中に悪質な詐欺まがいのものがあることを報道した結果、一般投資家の警戒心が高まり、和興は売上の減少した都内を避け、千葉県、埼玉県、神奈川県、茨城県等の関東一円に販売の手を広げ、さらに、同年六月ころ札幌営業所を開設して本件抵当証券の販売を行った。しかし、首都圏では同年六、七月ころから解約申請が相次ぎ、和興は手持資金或いは新たな購入客から得た販売代金をもってこれに対応していたが、新聞等の報道機関による報道の浸透から関東地区はもとより北海道においても売上が低迷し、解約金に支払いも思うにまかせなくなり、同年一〇月半ばころに至って解約にも応じられない状態となり、同年一二月二五日を解約金支払予定日とする解約金返金確認書を交付して、返金の猶予を求めるだけの状態となり、同年一二月一一日破産宣告を受けた。本件抵当証券の売上高、解約金、宣伝費は、次のとおりである。売上金額、解約金額、宣伝費。昭和六一年三月 三億〇三五〇万円、一七〇〇万円、四八〇〇万円。四月 二億三六五〇万円、三三〇〇万円、四八〇〇万円。五月 一億八五〇〇万円、七三〇〇万円、四八〇〇万円。六月 一億三二五〇万円、七三五〇万円、四八〇〇万円。七月 一億二七二〇万円、一億円、四八〇〇万円。八月 二九一〇万円、二七〇〇万円、四八〇〇万円。九月 二五五〇万円、二九〇〇万円、四八〇〇万円。一〇月 不明、二九八〇万円、四八〇〇万円。(八) 明月院は、原告らの代理人である山本安志が昭和六一年一〇月三〇日ころ抵当証券登記の抹消をすると和興から本件抵当証券を購入した多数の者が損害を被ることになるので右登記の抹消を中止して欲しい旨懇請したにもかかわらず、同年一一月一日、和興の占有下にある本件抵当証券の返還を受けて、本件土地に設定された右抵当権の設定登記の抹消手続きをした。3、本件不法行為。(一)被告らほか四名は、抵当証券会社が不動産に抵当権を設定して融資を行い、この抵当権を証券化し、証券を投資家に販売して融資金利と投資家への利息との利鞘を稼いでいるものの、実際の抵当証券取引は、購入者が抵当証券を買っても抵当証券自体の裏書、交付がなされず、抵当証券の売渡証書と保護預かり証の双方の性質を有するモーゲージ証書なる書面が交付されるにすぎないことに注目し、昭和六一年初めころ、当初から元金はもとより利息を支払う意思も能力もないまま、架空の貸金を被担保債権とする実体のない抵当証券を作り出してこれを販売し、一般大衆から金員を騙し取ることを計画(以下「本件計画」という。)した。(二)右計画に基づいて、波平、奈良、被告村田及び藤原は、東証代表取締役、取締役ないし幹部であることから、東証の事業活動として、抵当証券会社である和興を設立することを決め、東証の資金六〇〇〇万円をもって和興の設立準備資金及び開業資金に当て、また、東証幹部である被告田村、藤原を和興の取締役及び監査役に派遣し、さらに、和興の発行済株式数六〇〇株中、被告田村らが五七〇株を所有し、和興の事業活動全般にわたって東証の指示のもとに業務運営がなされるような形態で、昭和六一年二月一〇日和興を設立した。(三)ついで、波平は見せ掛けの抵当証券を作るため、昭和六一年二月初めころ、明月院の代表役員である近藤に対し、明月院所有の本件土地につき、一二億円の架空債権を担保するための抵当権設定登記手続きをして、本件計画に加担することを求め、近藤は、東証から明月院に対する融資を条件としてこれに応じ、後記のとおり、昭和六一年二月二四日本件土地に和興の東証に対する架空の貸金債権を被担保債権とする抵当権設定登記手続(債権額一二億円、債務者を東証、抵当権者を和興とする抵当権)を行なった。(四)さらに、被告らほか四名は本件抵当証券を作り出すため、和興が東証に一二億円を融資した事実はないにもかかわらず、昭和六一年二月一七日付で一二億円を貸渡した趣旨の金銭消費貸借契約証書を作成し、同月二四日近藤の協力を得て、本件土地につき和興の東証に対する右架空の貸金債権を被担保債権とする債権額一二億円の抵当権設定登記手続を行い、同年三月一五日登記所から一二億円の本件抵当証券一二枚の交付を受けた。(五)被告らほか四名は、本件抵当証券が以上のように架空の貸付金に基づき交付されたもので実体がないものであり、被告らほか四名には本件抵当証券の購入者に対し、元金はもとより利息を支払う意思も能力もないにもかかわらず、昭和六一年三月ころから、新聞折り込みや電車内広告等により「安全・確実・高利回りの確定利率なので確実である。法務局発行の抵当証券を和興が保証するので二重に安全である。」などと虚偽の宣伝をし、これを信用した原告らに次のとおり、本件抵当証券を売渡してその売買代金を受領し、売買代金と同額の損害を被らせた。原告名、購入年月日、購入金額。嶋村豊、昭和六一年五月七日、二五〇万円、同年八月二九日、二五〇万円。千田春夫、同年四月二五日、六〇〇万円、同年五月七日、一〇〇〇万円。番澤政吉、同年四月七日、一〇〇〇万円。伊東一郎、同月二六日、三〇〇万円、同年五月二九日、一〇〇〇万円。石川謙三、同年三月一九日、一五〇万円。中村誠、同年七月二六日、一五〇万円、同年九月一日、一〇〇万円。橋本清美、同年三月二八日、一〇〇万円。相田信子、同年四月二日、六〇〇万円。井上孝子、同年五月九日、二〇〇万円。荒川竜三、同月二一日、三〇〇万円。高橋政雄、同月二八日、一〇〇万円。丹羽菫、同年三月二〇日、一〇〇万円。須藤和子、同年四月一四日、三〇〇万円、同月一七日、一〇〇万円。長美津江、同年七月一〇日、三〇〇万円。金津光一、同月九日、三〇〇万円。藤野忠、同年三月二五日、二〇〇万円。荒木堯、同年六月二五日、三〇〇万円。佐々木弘、同年七月二三日、三〇〇万円。中村貞子、同年八月一五日、三〇〇万円。林柳子、同月八日、三〇〇万円。藤沢三郎、同年七月一一日、二〇〇万円。松田与吉、同月二五日、二〇〇万円。山下清、同年六月二一日、二〇〇万円。小林ひろ子、同月二三日、二〇〇万円。高野宮、同月一三日、三〇〇万円。内藤亨、同年七月一日、三〇〇万円。4、責任。被告らは、波平、奈良、藤原及び足利らと共謀して、本件計画を立案、遂行して原告らに損害を与えた当事者であるから、民法七〇九条、七一九条に基づき、原告らに対し、連帯してその被った損害を賠償すべき責任がある。5、損害。(一)原告らは、被告らの本件不法行為により別紙請求目録の「実損額」欄記載の各金員を騙取られ、同額損害をそれぞれ被った。(二)一、原告らは、被告らに右損害を賠償させるため本件訴訟を原告ら訴訟代理人らに委任し、その報酬として別紙請求目録の「弁護士費用」欄記載の各金額をそれぞれ支払う旨を約した。よって、原告らは被告らに対し、民法七〇九条、七一九条に基づき、各自、別紙請求目録の「請求金額」欄記載の各金員及びこれに対する不法行為後である昭和六一年一二月一一日から各支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。二、被告らは、適式の呼出を受けながら本件口頭弁論期日に出頭せず、答弁書その他の準備書面も提出しないので、請求原因事実を明らかに争わないものと認め、これを自白したものとみなす。右事実によれば、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官 川上正俊、裁判官 宮岡章、西田育代司)」(横浜地方裁判所 昭和62年(ワ)1216号判決)住職の自死は、この判決の出る前である。明月院の紫陽花は、檀家の前でうろ覚えの経をあげ、下手な卒塔婆を書き、果ては詐欺の片棒を担がされたこの者の父親が、太平洋戦争の後に植え育てたものである。南禅寺の境内の人に踏まれそうなところに数本、濃い桃色の捩花(ネジバナ)が咲いていた。が、そもそもその踏みそうな人びとの姿は、この境内にも市中にもまだない。

 「僕の絵はまず画用紙の中央に、森に包みこまれた谷間を描きこんでいました。谷間の中央を流れる川と、そのこちら側の盆地の県道ぞいの集落と田畑に、川向うの、栗をはじめとする果樹の林。山襞にそって斜めに登る「在」への道。それらすべての高みをおおって輪をとじる森。僕は教室の山側の窓と、川側の廊下をへだてた窓を往復しては、果樹の林から雑木林、色濃い檜の森、杉林、そして高みに向けてひろがる原生林を、ていねいに写生したものでした。」(『М/Tと森のフシギの物語』大江健三郎 岩波書店1986年)

 「【風評の深層・処理水の行方】処理水…宙に浮く「国民議論」」(令和2年7月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵯峨亀山に瀧口寺がある。垣根を挟んだ隣りは祇王寺である。祇王寺は、平清盛が囲っていた白拍子祇王・祇女の姉妹が若い白拍子仏御前に座を取って代わられ、己(おの)れの母と共に出家し、後に仏御前も加わり四人で住んだ往生院の廃跡に後々になって建てた小庵を寺にしたもので、瀧口寺もその往生院にあった三宝寺の廃跡に、昭和の初め長唄三味線の四代目杵屋佐吉が建てた小堂がその元(もとい)になっている。明治二十四年(1893)読売新聞が募集した歴史小説東京帝国大学学生高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が匿名で応募した『瀧口入道』が一等の該当無しのニ等に入選する。話は天皇の住む内裏の瀧口を警護していた斎藤時頼が宴の席で、平清盛の娘であり高倉天皇の皇后建礼門院の雑仕役の横笛に一目惚れし、父親に結婚の許しを乞うが身分が違うと許されず、恋文を送り続けた肝心の横笛の心も靡(なび)かず、世を捨てて仏門に入る。「思へば我しらで戀路の闇に迷ひし瀧口こそ哀れなれ。鳥部野の煙絶ゆる時なく、仇(あだ)し野の露置くにひまなき、まゝならぬ世の習はしに漏るゝ我とは思はねども、相見ての刹那に百年の契をこむる頼もしき例(ためし)なきにもあらぬ世の中に、いかなれば我のみは、天の羽衣撫で盡(つく)すらんほど永き悲しみに、只ゝ一時の望みだに得恊(えかな)はざる。思へば無情(つれな)の横笛や、過ぎにし春のこのかた、書き連ねたる百千(ももち)の文に、今は我には言殘せる誠もなし、良しあればとて此の上短き言の葉に、胸にさへ餘(あま)る長き思を寄せん術やある。情(つれ)なの横笛や、よしや送りし文は拙くとも、變らぬ赤心(まこと)は此の春秋の永きにても知れ。一夜の松風夢さめて、思寂しき衾(ふすま)の中に、我ありし事、薄(すすき)が末の露程も思い出ださんには、など一言の哀れを返さぬ事やあるべき。思へば思へば心なの横笛や。」(『瀧口入道』高山樗牛 岩波文庫1938年刊)時頼と、もう一人の恋文を送りつけて来る男との間で立ち行かなくなっていた横笛は、出家したという時頼の噂を耳にする。「或る日のこと。瀧口時頼が發心せしと、誰れ言ふとなく大奥に傳(つた)はりて、さなきだに口善惡(くちさが)なき女房共、寄ると觸(さは)ると瀧口が噂に、横笛轟(とどろ)く胸を抑へて蔭ながら様子を聞けば、情(つれ)なき戀路に世を果敢(はか)なみて業(わざ)と言ひ囃(はや)すに、人の手前も打ち忘れ、覚えず『そは誠か』と力を入れて尋ぬれば、女房共、『罪造りの横笛殿、可情(あたら)勇士を木の端とせし』。人の哀れを面白げなる高笑に、是れはとばかり、早速のいらへもせず、ツと己(おの)が部屋に走り歸りて、終日(ひねもす)夜もすがら泣き明かしぬ。」が、時頼への思いが募って矢も楯もたまらず横笛は、時頼のいる嵯峨の寺を探し当てその門を敲くが、時頼は修行の身を理由に横笛に会わず追い返してしまう。「瀧口はしばらく應(いら)へず、やゝありて、『如何(いか)に女性(によしやう)、我れ世に在りし時は御所に然(さ)る人を知りし事ありしが、我が知れる其人は我れを知らざる筈(はず)なり、されば今宵我れを訪(おとのひ)給へる御身は、我が知れる横笛にてはよもあらじ、良しや其人なりとても、此世の中に心は死して、殘る體(からだ)は空蝉の我れ、我れに恨みあればとて、そを言ふの要もなく、よし又人に誠あらばとて、そを聞かん願ひもなし。一切の諸縁に離れたる身、今更ら返らぬ世の浮事を語り出でて何かせん。聞き給へや女性、何事も過ぎにし事は夢なれば、我れに恨みありとな思ひ給ひそ。己(おの)れに情(つれ)なきものの善知識となれる例(ためし)、世に少なからず、誠に道に入りし身の、そを恨みん謂(いは)れやある。されば遇うて益なき今宵の我れ、唯ゝ何事言はず、此の儘(まま)歸り給へ。二言とは申すまじきぞ、聞き分け給ひしか、横笛殿』。」横笛はそれから程なく髪を剃り尼となる。後に時頼は深草の道中で、死んだある尼の事を聞き、その尼が横笛であると知って涙を落とす。「瀧口入道、横笛が墓に來て見れば、墓とは名のみ、小高く盛りし土饅頭の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。━━世にありし時は花の如き艶(あで)やかなる女なりしが、一旦無常の嵐に誘はれては、いづれ遁(のが)れぬ古墳の一墓の主かや、━━今かゝる哀れを見んことは、神ならぬ身の知る由もなく、嵯峨の奥に夜半かけて迷ひ來りし時は我れ情なくも門をば開けざりき。恥をも名をも思ふ遑(いとま)なく、様を變へ身を殺す迄(まで)の哀れの深さを思へば、我れこそ中々に罪深かりけれ。あゝ横笛、花の如き姿今いづこにある。」この話は高山樗牛の創作ではなく、『平家物語』の巻第十の第九十五句の「横笛」を下敷きにしている。その全文はこうである。「さるほどに、小松の三位の中将維盛(これもり)は、わが身は屋島にありながら、心は都へかよはれけり。故郷にのこしおき給ふ北の方、幼き人々のことを、明けても、暮れても、思はれければ、「あるにかひなき(生きていても無駄な)わが身かな」と、いとどもの憂くおぼえて、寿永三年(1184)三月十五日のあかつき、しのびつつ屋島の館(たち)をまぎれ出で給ふ。乳人(めのと)の与三兵衛重景、石童丸といふ童(わらは)、下郎には「舟もよく心得たる者なれば」とて、武里といふ舎人(とねり)、これら三人ばかり召し具して、阿波の国、由岐の浦より海士小船に乗り給ひ、鳴戸の沖を漕ぎ渡り、「ここは越前の三位(通盛)の北の方、耐へざる思ひに身を投げし所なり」と思ひければ、念仏百返ばかり申しつつ、紀伊の路へおもむき給ひけり。和歌、吹上の浜、衣通姫(そとほりひめ)の神とあらはれおはします玉津島の明神、日前権現の御前の沖を過ぎ、紀伊の国黒井の湊にこそ着き給へ。「これより浦づたひ、山づたひに都に行きて、恋しき者どもをいま一度もし、見えばや」と思はれけれども、本三位の中将重衡の、生捕にせられて、京、鎌倉ひきしろはれて(引きずられて)、恥をさらし給ふだにも心憂きに、この身さへ捕はれて、憂き名をながし、父のかばねに血をあやさんもさすがにて(亡父重盛の名を辱めることもためらわれ)、千たび心はすすめども、心に心をからかひて(思い悩み)、ひきかへ(逆に)高野の御山へのぼり給ひけり。高野に年ごろ(以前から)知られける聖あり。三條斎藤左衛門大夫茂頼が子に「斎藤瀧口時頼」といふ者なり。もとは小松殿(重盛)の侍なりしが、十三のとき、本所へ参り、宮仕ひしたてまつる。建礼門院の雑仕「横笛」といふ女を思ひて、最愛してかよひけり。かの女の由来を詳しくたづぬるに、もとは江口の長者が娘(遊女宿の女主人の娘)なり。故太政入道殿(平清盛)、福原下向のとき、長者が宿所へ入り給ふに、横笛十一歳と申すに、瓶子(へいじ)取り(お酌)にぞ出でたりける。入道これを見給ふに、みめかたち優なりければ、中宮の雑仕に召さるる。かかるわりなき(とびきりの)美人なれば、横笛十四、瀧口十五と申す年より、浅からず思ひそめてぞかよひける。父茂頼これを聞き、「なんぢを世にあらん(しかるべき格式)者の聟にもなして、よきありさま(気楽な暮らしぶり)を見聞かんとこそ思ひしに、いつとなく出仕なども懈怠(けたい)がちなるものかな」と、あながち(無理やり)にこれ(交際)を制しけり。瀧口申しけるは、「西王母と聞きし人、昔はありて、今はなし。東方朔が九千歳も、名をのみ聞きて、目には見えず。老少不定(寿命は老若に関係ない)の世の中は、石火(一瞬)の光に異ならず。たとへば人の命、長しといへども、七八十をば過ぎず。そのうちに身のさかりなること、わづかに二十余年を限れり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者(妻)をば片時も見ては何かせん。「思はしきもの(恋しき妻)を見ん」とすれば、父の命を背くに似たり。『父の命を背かじ』とすれば、五百生まで深からん女の心をやぶるべし(傷つける)。とにかくに、父のため、女のため、これすなはち善知識(仏道発心の機縁)のもとゐなり。憂き世を厭(いと)ひ、まことの道に入らんにはしかじ」とて、瀧口十九にて菩提心をおこし、髷(もとどり)切りて、嵯峨の奥、「往生院」といふ所に、行ひすまして(修行に専念)ゐたりけるに、横笛、これをつたへ聞きて、「われをこそ捨てめ、様をさへ変へけんことの無慚さよ。たとひ世をこそ厭ふとも、なじかはかく(この理由)と知らせざらん。人こそ心づよくとも(あの人の心が変わらないとしても)、たづねて、いまは恨みん」と思ひつつ、人一人召し具して、ある夕かたに、内裏を出でて、嵯峨の奥へぞあこがれ行く(あてもなくさまよいゆく)。ころは如月十日あまりのことなれば、梅津の里の春風に、綴喜の里やにほふらん。大井川の月影も、霞にこもりておぼろなり。一方ならぬあはれさも、「誰ゆゑか」とこそ思ひけれ。「往生院」とは聞きたれども、さだかなる所を知らざりければ、ここにたたずみ、かしこにたたずみ、たづねかぬるぞ無慚なる。灯籠の光のほのかなるに目をかけて、はるばる分け入り、住み荒らしたる庵にたち寄り、聞きければ、瀧口とおぼしくて、内に念誦の声しけり。召し具したる女を入れて、「わらはこそ、これまで訪ねまゐりたれ」と柴の編戸をたたかせければ、瀧口入道、胸うちさわぎ、障子のひまよりのぞきて見れば、寝ぐたれ髪のひまよりも、流るる涙ぞところ狭(せ)く今宵も寝(い)ねやらぬとおぼえて、面痩せたるありさま、たづねかねたる気色、まことにいたはしく見えければ、いかなる道心者も心弱くなりつべし。瀧口、「いまは出で会ひ、見参せばや」と思ひしが、「かく、心かひなくしては、仏道なるや、ならざるや」と心に心を恥ぢしめて、いそぎ人を出だして、「まつたくこれにはさる人なし。門たがひにてぞ(間違えて)候ふらん」とて、心強くも瀧口は、つひに会はでぞ返しける。横笛、「うらめしや。発心をさまたげたてまつらんとにはあらず。ともに閼伽(あか)の水をむすびあげて、ひとつ蓮の縁とならんとこそのぞみしに、夫の心は川の瀬の、刹那に変わるならひかや。女の心は池の水の(淀んで)積りてものを思ふなるも、いまこそ思ひ知られけれ」。瀧口入道、同宿の聖に向かひて申しけるは、「ここもあまりにしづかにて、念仏の障碍はなけれども、飽かで別れし女、このすまひを見えて候へば、一度は心強くとも、またもしたふことあらば、心うごくこともや候ふべし。いとま申して」とて、嵯峨をば出で、高野へのぼり、清浄院に行ひすましてゐたりけり。横笛も様を変へたるよし聞こえければ、瀧口入道、高野より、ある便りに一首の歌をぞ送りける。剃るまではうらみしかどもあづさ弓まことの道に入るぞうれしき。横笛、返事に、剃るとてもなにかうらみんあづさ弓ひきとどむべき心ならねば。その思ひの積もりにや、横笛、奈良の法華寺にありけるが、ほどなく死してけり。瀧口入道、このことをつたへ聞きて、いよいよ行ひすましてゐたりければ、父の不孝もゆるされたり。したしき者どもは、「高野の聖の御坊」とぞもてなしける。高野の人は、「梨の本の阿浄坊」とぞ申す。由来を知りたる者は「瀧口入道」とも申しける。」この「横笛」に続く「高野の巻」「維盛出家」「維盛入水」で高野山に登った斎藤時頼、瀧口入道は、源氏に追い詰められた平清盛の嫡男重盛の子維盛の出家の導師となり、和歌の浦での維盛の入水を見届ける。が、高山樗牛の『瀧口入道』では、戦火の都を逃れた維盛に瀧口入道は落人の身に甘んじるのではなく、一族のいる屋島に戻り「御一門と生活を共にし給へ。」と諭すが、維盛はその翌朝和歌の浦で連れの者と共に入水し、行方を追ってそのことを知った瀧口入道は浜のその場で切腹して果てる。が、平重盛に仕えた実際の斎藤時頼は、大圓院の八世阿浄として後半生を高野山で過ごした。『平家物語』で時頼が維盛の入水を見届けたのは、浄土へ導くためであり、仏徒は、あるであろうと信じて疑わない死後浄土への約束を果たさなければならないのである。高山樗牛の書く世捨人斎藤時頼は僧となり、同じく尼となった横笛の死を知って嘆き、説得を聞き入れなかった維盛の入水に接し自害してしまう。仏修行の妨げを理由に横笛を拒否した時頼のその後の自死は、仏修行の未熟にあるのであろうか。横笛との悲恋と、時頼が仏教の本分を捨て絶望の穴に自ら落ちたことはなるほど悲劇であろう。が、当時流行の美文調に甘やかされた語りからは、時頼の着る墨染の衣の仏の香も、修行の汗臭さも漂わない、それどころかその衣はただ血生臭く染まってしまったのである。話はいかようにも作られる。鎌倉期より後に書かれたという『御伽草子』の中の「横笛草紙」では、横笛は寺の門前で時頼に追い返されると、すぐに大堰川に身投げし、それを知った時頼は自ら遺体を引き上げて荼毘に付し、骨を拾って弔い、高野山に登り横笛の成仏のための修行を己(おの)れに課した、と語る。たとえば、横笛に鋼(はがね)の意地があればどうか。横笛に何通もの恋文を書いた時頼がより良い返事を貰えず、父親からもその結婚を許されなかったから出家したというその決心は果たして本物なのか。已(や)むに已まれぬ発心ではなく、思い通りに行かなかったが故に出家した時頼は、横笛に試される。横笛が時頼のいる寺を探し訪ね来たということがどういうことか、時頼に分からぬはずはなく、修行の妨げになるから会わないという理由は、時頼の修行、発心はまだ浅くいまでも横笛に対して思いがあるということである。であれば横笛も時頼への思いの意地があるのであれば、門が開くまで時頼の元に通い続けなければならない。時頼も高野山へは逃げず、門の内でひたすら仏に仕える。時経て、ついに時頼が門戸を開ける時が来る。それは時頼が修行を深め、横笛に対面しても心が動じない自信を持ったということかもしれぬ。時頼の元に何年も通い続けた横笛の心は、仏修行を経た時頼にどう映るのか、己(おの)れの仏修行が横笛の思いによって鍛え上げられたと考えるとすれば。

 「養家は赤貧というに近い家であった。四十五歳の養父は、彼が行くと同時に隠居して大工をやめてしまった。そして小さな丁髷を頭にのせ、彼から貰う僅かばかりの小遣い銭を刻みといっしょに煙草入れにいれて、一日じゅう近くの家の新聞を読んでまわっていた。約一粁はなれた菩提寺まで他人の土地を踏まずに行けたというのが彼の口癖であったが、それは彼の知らぬ先祖のことに過ぎなかった。勤め先きの薬局は、彼の薬剤師という資格だけを営業規則上の必要として雇いいれたのであったから、彼は実際はただの若い手代としてこき使われた。しかし彼は平気でそれに耐えた。」(「硝酸銀」藤枝静男『空気頭』講談社1967年)

 「『ふるさと喪失』…慰謝料どう判断 認定額傾向、東京電力側は反論」(令和2年5月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 誰もいない、という言葉には嘘が含まれている。誰もいないと辺りを見て思う者がそこにいて、ここ渡月橋が架かる桂川の川縁の駐車場に係の者が二人、警備の者が一人いる。あるいは金閣寺の参道口に警備の者が二人いて、奥の駐車場に係の者が一人棒を持って立っている。それ以外の人影はない。早朝であればこの者らもいない、誰もいないひと時があるのかもしれない。いまより以前、二月(ふたつき)前であれば、やがてどこからともなく人は現れ、観光バスが駐車場を埋める。が、いまは土産物屋もものを食わせる店も全部シャッターを下ろし、幟旗を仕舞い、一時間経っても、半日経っても誰もやって来ない。夜が来ても、恐らくは明日になっても、人はここには現れない。太宰治は、筆扱いが不自由になった戦争さ中の昭和二十年、『お伽草紙』の題で四篇の小説を書いている。「私はこの「お伽草紙」という本を、日本の國難打開のために敢闘してゐる人々の寸暇に於ける慰勞のささやかな玩具として恰好のものたらしむべく、このごろ常に微熱を發してゐる不完全のからだながら、命ぜられては奉公の用事に出勤したり、また自分の家の罹災の後始末やら何やらしながら、とにかく、そのひまに少しづつ書きすすめて來たのである。」(「舌切雀」太宰治太宰治全集 第七巻』筑摩書房1976年刊)その『お伽草紙』の前書きにはこうある。「母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう(防空)壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は繪本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に讀んで聞かせる。」この「五歳の女の子」は、四月二十日に七十八歳で亡くなった太宰治の長女津島園子である。「浦島太郎といふ人は、丹後の水江とかいふところに實在してゐたやうである。丹後といへば、いまの京都府の北部である。あの北海岸の某寒村に、いまもなほ、太郎をまつつた神社があるとかいふ話を聞いたことがある。私はその邊に行つてみた事が無いけれども、人の話に依ると、何だかひどく荒涼たる海濱らしい。そこにわが浦島太郎が住んでいた。」(「浦島さん」)太宰が、実在していたようであるという浦島太郎は、『日本書紀』にこう記されている。「(雄略天皇)二十二年の春正月(むつき)の己酉(つちのとのとり)の朔(ついたちのひ)に、白髪皇子(しらかのみこ)を以て皇太子(ひつぎのみこ)とす。秋七月に、丹波國(たにはのくに)の餘社郡(よさのこほり)の管川(つつかは)の人瑞江浦嶋子(みづえのうらしまのこ)、舟に乗りて釣す。遂(つい)に大龜を得たり。便(たちまち)に女に化爲(な)る。是(ここ)に、浦嶋子、感(たけ)りて婦(め)にす。相逐(あひしたが)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴(めぐ)り覠(み)る。語(こと)は、別巻(ことまき)に在り。」(『日本書紀』巻第十四 雄略天皇)ここにある「別巻」は、いまは失われているとされているが、逸文として残る「丹後國風土記」に「浦嶼子(うらしまこ)」の項がある。「丹後(たにはのみちのしり)の國の風土記に曰(い)はく、與謝(よさ)の郡(こほり)、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫(たみ)、日下部首(くさかべのおびと)等が先祖(とほつおや)の名を筒川の嶼子(しまこ)と云ひき。爲人(ひととなり)、姿容(すがた)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。斯(こ)は謂(い)はゆる水の江の浦嶼(うらしま)の子といふ者なり。是(こ)は、舊(もと)の宰伊預部(みこともちいよべ)の馬養(うまかひ)の連(むらじ)が記せるに相乖(あひそむ)くことなし。故(かれ)、略(おほよそ)所由之旨(ことのよし)を陳(の)べつ。長谷(はつせ)の朝倉の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)の御世(みよ)、嶼子(しまこ)、獨(ひとり)小船に乗りて海中(うみなか)に汎(うか)び出でて釣するに、三日三夜を經るも、一つの魚だに得ず、乃(すなは)ち五色の龜を得たり。心に奇異(あやし)と思ひて船の中に置きて、卽(やが)て寐(ぬ)るに、忽(たちま)ち婦人(をみな)と爲(な)りぬ。其の容(かたち)美麗(うるは)しく、更比(またたぐ)ふべきものなかりき。嶼子(しまこ)、問ひけらく、「人宅(ひとざと)遙遠(はろか)にして、海庭(うみには)に人乏(な)し。詎(いづれ)の人か忽(たちまち)に來つる」といへば、女娘(をとめ)、微咲(ほほゑ)みて對(こた)へけらく、「風流之士(みやびを)、獨(ひとり)蒼海(うみ)に汎(うか)べり。近(した)しく談(かた)らはむおもひに勝(た)へず、風雲(かぜくも)の就(むた)來つ」といひき。嶼子(しまこ)、復(また)問ひけらく、「風雲は何(いづれ)の處(ところ)よりか來つる」といへば、女娘(をとめ)答へけらく、「天上(あめ)の仙(ひじり)の家の人なり。請(こ)ふらくは、君、な疑ひそ。相談(あひかた)らひて愛(うつく)しみたまへ」といひき。ここに、嶼子(しまこ)、神女(かむをとめ)なることを知りて、愼(つつし)み懼(お)ぢて心に疑ひき。女娘(をとめ)、語りけらく、「賤妾(やつこ)が意(こころ)は、天地(あめつち)と畢(を)へ、日月(ひつき)と極(きは)まらむとおもふ。但(ただ)、君は奈何(いかに)か、早(すむや)けく許不(いなせ)の意(こころ)を先(し)らむ」といふき。嶼子(しまこ)、答へらく、「更(さら)に言ふところなし。何ぞ懈(おこた)らむや」といひき。女娘(をとめ)曰(い)ひけらく、「君、棹(さお)を廻(めぐ)らして蓬山(とこよのくに)に赴(ゆ)かさね」といひければ、嶼子(しまこ)、從(つ)きて往(ゆ)かむとするに、女娘(をとめ)、教へて目を眠らしめき。卽(すなは)ち不意(とき)の間に海中の博(ひろ)く大きなる嶋に至りき。其の地(つち)は玉を敷けるが如し。闕臺(うてな)は晻映(かげくら)く、樓堂(たかどの)は玲瓏(てりかがや)きて、目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。手を携へて徐(おもぶる)に行きて、一つの太(おほ)きなる宅(いへ)の門に到りき。女娘(をとめ)、「君、旦(しま)し此處(ここ)に立ちませ」曰(い)ひて、門を開きて内に入りき。卽(すなは)ち七たりの堅子(わらは)來て、相語りて「是(こ)は龜比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」と曰(い)ひき。亦(また)、八たりの堅子(わらは)來て、相語りて「是(こ)は龜比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」と曰(い)ひき。茲(ここ)に、女娘(をとめ)が名の龜比賣(かめひめ)なることを知りき。乃(すなは)ち女娘(をとめ)出で來ければ、嶼子(しまこ)、堅子(わらは)等が事を語るに、女娘(をとめ)の曰(い)ひけらく、「其の七たりの堅子(わらは)は昴星(すばる)なり。其の八たりの堅子(わらは)は畢星(あめふり)なり。君、な恠(あやし)みそ」といひて、卽(すなは)ち前立(さきだ)ちて引導(みちび)き、内に進み入りき。女娘(をとめ)の父母(かぞいろ)、共に相迎へ、揖(をろが)みて坐定(ゐしづま)りき。ここに、人間(ひとのよ)と仙都(とこよ)との別(わかち)を稱説(と)き、人と神と偶(たまさか)に會(あ)へる喜びを談義(かた)る。乃(すなは)ち、百品(ももしな)の芳(かぐは)しき味(あぢはい)を薦(すす)め、兄弟姉妹(はらから)等は坏(さかづき)を擧(あ)げて獻酬(とりかは)し、隣の里の幼女等(わらはども)も紅(にのほ)の顔(おも)して戯(たはぶ)れ接(まじ)る。仙(とこよ)の哥(うた)寥亮(まさやか)に、神の儛(まひ)逶迤(もこよか、うねうね進む)にして、其の歡宴(うたげ)を爲(な)すこと、人間(ひとのよ)に万倍(よろづまさ)れりき。茲(ここ)に、日の暮るることを知らず。但(ただ)、黄昏(くれがた)の時、群仙侶等(とこよひとたち)、漸々(やくやく)に退(まか)り散(あら)け、卽(やが)て女娘(をとめ)獨(ひとり)留(とど)まりき。肩を雙(なら)べ、袖を接(まじ)へ、夫婦之理(みとのまぐはい)を成(な)しき。時に、嶼子(しまこ)、舊俗(もとつくに)を遺(わす)れて仙都(とこよ)に遊ぶこと、卽(すで)に三歳(みとせ)に逕(な)りぬ。忽(たちま)ちに土(くに)を懐(おも)ふ心を起こし、獨(ひとり)、二親(かぞいろ)を戀ふ。。故(かれ)、吟哀(かなしび)繁く發(おこ)り、嗟歎(なげき)日に益(ま)しき。女娘(をとめ)、問ひけらく、「此來(このごろ)、君夫(きみ)が貌(かほばせ)を觀(み)るに、常時(つね)に異なり。願はくは其の志(こころばへ)を聞かむ」といへば、嶼子(しまこ)、對(こた)へけらく、「古人(いにしへびと)の言(い)へらくは、少人(おとれるもの)は土(くに)を懐か(おも)ひ、死ぬる狐は岳(をか)を首(かしら)とす、といへることあり。僕(やつかれ)、虚談(そらごと)と以(おも)へりしに、今は斯(これ)、信(まこと)に然(しか)なり」といひき。女娘(をとめ)、問ひけらく、「君、歸らむと欲(おもほ)すや」といへば、嶼子(しまこ)、答へけらく、「僕(やつがれ)、近き親故(むつま)じき俗(くにひと)を離れて、遠き神仙(とこよ)の堺(くに)に入りぬ。戀ひ眷(した)ひ忍(あ)へず、輙(すなは)ち輕(かろがろ)しき慮(おもひ)を申(の)べつ。望(ねが)はくは、蹔(しま)し本俗(もとつくに)に還(かへ)りて、二親(かぞいろ)を拝(をろが)み奉(まつ)らむ」といひき。女娘(をとめ)、涙を拭(のご)ひて、歎(なげ)きて曰(い)ひけらく、「意(こころ)は金石(かねいし)に等しく、共に万歳(よろづとし)を期(ちぎ)りしに、何ぞ鄕里(ふるさと)を眷(した)ひて、棄(す)てること一時(たちまち)なる」といひて、卽(すなは)ち相携へて徘徊(たもとほ)り、相談(あひかたら)ひて慟(なげ)き哀しみき。遂に袂を拚(ひるが)へして退(まか)り去りて岐路(わかれぢ)に就(つ)きき。ここに、女娘(をとめ)の父母(かぞいろ)と親族(うから)と、但(ただ)、別(わかれ)を悲しみて送りき。女娘(をとめ)、玉匣(たまくしげ)を取りて嶼子(しまこ)に授けて謂(い)ひけらく、「君、終(つひ)に賤妾(やつこ)を遺(わす)れずして、眷尋(かへりみたづ)ねむとならば、堅く匣(くしげ)を握りて、慎(ゆめ)、な開き見たまひそ」といひき。卽(やが)て相分かれ船に乗る。乃(すなは)ち教へて目を眠らしめき。忽(たちまち)に本土(もとつくに)の筒川の鄕(さと)に到りき。卽(すなは)ち村邑(むらざと)を瞻眺(ながむ)るに、人と物と遷(うつ)り易(かは)りて、更(さら)に由(よ)るところなし。爰(ここ)に、鄕人(さとびと)に問ひけらく、「水の江の浦嶼(うらしま)の子の家人(いえひと)は、今何處(いづく)にかある」ととふに、鄕人(さとびと)答へらく。「君は何處(いづこ)の人なればか、舊遠(むかし)の人を問ふぞ。吾(あ)が聞きつらくは、古老等(ふるおきなたち)の相傳(あひつた)へて曰(い)へらく、先世(さきつよ)に水の江の浦嶼(うらしま)の子といふものありき。獨(ひとり)蒼海(うみ)に遊びて、復(また)還(かへ)り來ず。今、三百餘歳(みももとせあまり)を經(へ)つといへり。何(なに)ぞ忽(たちまち)に此(こ)を問ふや」といひき。卽(すなは)ち棄(す)てし心をいだきて鄕里(さと)を廻(めぐ)れども一(ひとり)の親しきものにも會(あ)はずして、既(すで)に旬日(とをか)を逕(す)ぎき。乃(すなは)ち、玉匣(たまくしげ)を撫(な)でて神女(かむをとめ)を感思(した)ひき。ここに、嶼子(しまこ)、前(さき)の日の期(ちぎり)を忘れ、忽(たちまち)に、玉匣(たまくしげ)を開きければ、卽(すなはち)瞻(めにみ)ざる間に、芳蘭(かぐは)しき體(すがた)、風雲(かぜくも)に率ひて蒼天(あめ)に翩飛(とびか)けりき。嶼子(しまこ)、卽(すなは)ち期要(ちぎり)に乖違(たが)ひて、還(また)、復(ふたた)び會(あ)ひ難(がた)きことを知り、首(かしら)を廻(めぐ)らして踟躕(たたず)み、涙に咽(むせ)びて徘徊(たもとほ)りき。ここに、涙を拭ひて哥(うた)ひしく、常世(とこよ)べに 雲たちわたる 水の江の 浦嶼(うらしま)の子が 言持ちわたる。神女(かむをとめ)、遙(はるか)に芳(かぐは)しき音(こゑ)を飛ばして 哥(うた)ひしく、大和べに 風吹きあげて 雲放れ 退(そ)き居りともよ 吾を忘らすな。嶼子(しまこ)、更(また)、戀望(こひのおもひ)に勝(た)へずして哥(うた)ひしく、子らに戀(こ)ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世(とこよ)の濱(はま)の浪の音聞こゆ。後の時(よ)の人、追(お)ひ加へて哥(うた)ひしく、水の江の 浦嶼(うらしま)の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば またも會(あ)はましを。常世(とこよ)べに 雲立ちわたる たゆまくも はつかまどひし 我ぞ悲しき。」太宰の「浦島さん」の浦島太郎も、助けた亀の背に乗り龍宮に行く。が、太宰の書く亀はこういうことを云う。「それぢや私だつて言ひますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が龜で、さうして、いぢめてゐる相手は子供だつたからでせう。龜と子供ぢやあ、その間にはひつて仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子供たちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値切つたものだ。私は、も少し出すかと思つた。あたなのケチには、呆れましたよ。私のからだの値段が、たつた五文かと思つたら、私は情け無かつたね。それにしてもあの時、相手が龜と子供だつたから、あなたは五文でも出して仲裁したんだ、まあ、氣まぐれだね。しかし、あの時の相手が龜と子供でなく、まあ、たとへば荒くれた漁師が病氣の乞食をいぢめてゐたのだつたら、あなたは五文はおろか、一文だつて出さず、いや、ただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違ひないんだ。あなたたちは、人生の切實の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。それこそ御自身の高級な宿命に、糞尿を浴びせられたやうな氣がするらしい。あなたたちの深切は、遊びだ。享樂だ。龜だから助たんだ。」が、海に入ってしまうと太宰の筆の面白さは鈍り、龍宮は気の抜けたものの如くに、乙姫は一言もしゃべらず平凡な書き振りで、浦島太郎は当たり前のように龍宮にいることに退屈し、微笑むだけの乙姫に別れを告げ、土産に二枚貝を貰い、亀の背に乗って陸に戻る。三百年経っている。「ドウシタンデセウ モトノサト ドウシタンデセウ モトノイヘ ミワタスカギリ アレノハラ ヒトノカゲナク ミチモナク マツフクカゼノオトバカリ」ここに至って太宰は云う、「何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を發見したいものである。」開けた玉手箱、二枚貝から出た煙に包まれ、浦島太郎は瞬く間に三百歳の年寄になる。が、太宰は白髪を垂らす浦島太郎は不幸ではなかったと書く。「思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招來をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。」浦島太郎は玉手箱を開けることで龍宮での出来事も、海に入る前の家族と過ごした思い出も忘れ、記憶から消え失せ「不幸ではない」者になったというのである。「丹後國風土記」の乙姫は、龍宮、蓬莱にあっても前世、人の世の頃の事ごとを忘れることが出来ず憂える浦嶼子(うらしまこ)をあわれに思う、せっかく不老不死の身になったというのに。乙姫は一度だけ浦嶼子(うらしまこ)に人の世に戻る機会を与える。機会とは試すということである。浦嶼子(うらしまこ)は、開けなければ不老不死のまま龍宮に戻ることが出来る玉手箱によって試された。浦嶼子(うらしまこ)は、打ち上げられた砂浜で生き返った。三百年が経っていた。浦嶼子(うらしまこ)は誰も経験したことのない喪失感に襲われる、が、いま一度龍宮に戻る気は起きなかった。行ってみた蓬莱の不老不死というものに飽きてしまっていたのである。浦嶼子(うらしまこ)は一歩踏み出すため、龍宮には二度と戻らない覚悟で玉手箱を開ける。己(おの)れの容貌が一変し、浦嶼子(うらしまこ)の胸に三百年前にこの世を離れ死んだ時の淋しさがやって来る。三百年前に味わうはずであった淋しさが、玉手箱を開けたことによって浦嶼子(うらしまこ)に追いついたのである。清水寺にも人はいない。出歩くなと命じられているからである。玉手箱を持っていない浦島太郎は、家に閉じ籠る。浦嶼子(うらしまこ)が見るのは、三百年後の世界である。

「佐五が帰ってから、源次郎は朝炊いた残り飯で、昼を済ませた。そして外に出た。四月半ばの空は、雲ひとつなく晴れて、真青な空からさんさんと日がふりそそいでいた。花が匂い、どこかで遠音に閑古鳥が啼いている。佐五が言い残していったようなことが、この町のどこかで起きているとは、信じ難いほど、町は明るい光に包まれ、何ごともなげに、混みあって人が歩いている。」(『闇の傀儡師(かいらいし)』藤沢周平藤沢周平全集 第十五巻』文藝春秋1993年)

 「福島県産「473品目」基準下回る 放射性物質検査19年度結果」(令和2年5月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「対岸の桜」という小説がある。向こう岸をいう「対岸」は火事という続き言葉を持っている。鴨川の向こう岸で火事があった。燃えたのは一軒の古本屋である。「隔岸観火」は、火種を抱えた敵の自滅を待つ戦略だという。十一月の半ばを過ぎたその日は小春の陽気で、「私」は仕事に就いていて、その古本屋から以前に注文をしていた本が手に入ったという電話を貰う。「私」はその日は受け取りに行かなかったが、その翌日早朝に古本屋は火事に遭い、眠っていた「私」はそのことを知らなかった。五坪余りの店の二階がその主(あるじ)の住まいで、身元不明の遺体は連絡の取れない主であろうというのがその朝のニュースで、遺体は後に一人住まいをしていた本人であると確認される。「私」は便所に立ち、顔を洗ってそのことを知るのであるが、朝食を摂り、その日も仕事に行かなければならなかった。「私」は地面家屋の売買を仕事にしていて、燃えたその店舗は「私」が四年前にその主に売ったものだった。火事場の手前の角でも焦げ臭さが漂っていた。ガラスが割れた一階の戸は残っていたが、瓦屋根は焼け落ち、二階の壁もほぼ燃えてなくなり、両隣りも半焼けの有り様である。店の中の書棚に詰まった本は黒焦げになって残り、床に散乱した半ば燃えた本と燃えなかった本は、水を吸って分厚く波打っている。遺体が古本屋の主と確認されたのであれば、誰かが検死を終えた主に立ち会ったのには違いない。主には妻も子もなかったということを「私」は知っているが、その両親兄弟のことは、「私」は何も知らない。主は東北、福島の生まれだった。年は五十半ばで、左足が不自由だった。そのことが逃げ遅れた原因だったかもしれないと「私」は思う、四年前「私」の後ろについて上がった狭くて急な階段を、大丈夫ですよと云っていたのであるが。その主は東京からやって来て、店を探していると云った。「私」は後のちのトラブルを避けるため、相手を見定めなければならない。その男は現金はあると云った。高校の教師をある時期までやっていたとも云った、退職してからこれまで古本屋をやる準備をしていたと。「私」は鴨川の向こうにある、二年近く買い手のつかないガタのきた空き店舗をその男に見てもらった。気に入らなければもう少し値の張る物件を見てもらうつもりだったが、男はがらんとした一階を見廻し、不自由な足で二階に上がり、窓を開けて外を眺め、あの煙突は銭湯ですかと訊いた。この物件に風呂はなかった。「私」がそうだと云うと、男はここでいいと云った。話がついた後「私」が、原発の影響はどうだったのかと訊くと、福島ですか、影響があったところとなかったところがある、生まれた実家にはなかったと応えた。あの時は東京で、いまはこうして遠く離れて何を知っているわけではないが。店はそれから三月(みつき)で開き、「私」は年に二三度中を覗く程度でつき合いはなかったが、主から聞いたこんな話を覚えている。本は生きている者からではなく、死んだ者から仕入れるというのである。本物の本持ちは、生きている間は手放さない。その者の死を知った時直ちにその者の家に行き、悔やみを述べ、名刺を置いて来るのだという。決して人の死を願うのではないが、死によって世に残った本の入手を願い、商売根性で云えば総じて遺族は相場値を知らないから、と。「私」は、主の商売根性がどれほどのものであったかは分からない、果たして儲かっていたのかどうかということである。読んでいた本に「家にゑても見ゆる冬田を見に出づる」という句が載っていた。相生垣瓜人(あいおいがきかじん)という俳人の句である。俳句を趣味にする者ではないが、「私」はこの句を忘れがたく頭の隅に留め、その日に寄った古本屋の主に相生垣瓜人について訊いてみると、主は知っていると応え、恐らくその句は『微茫集』という句集に載っているとも云ったのである、いま手許にないが。「私」は、見えているものをあえて見に行くところの面白さを云うと、主はそれは中学生に教える答えで、と云ってから、教師面をすれば高校生になら実際に見に行った先で何を見るかが大事だと教えるんだろうな、と云った。いや面白いのは云う通り、どうしても見に行ってしまう百姓の姿なんだ。「私」はその句集が欲しいと思い、主に頼んだのが半年以上前のことであり、火事の前日、手に入ったという電話を受けたのである。それは偶々(たまたま)売りに来た者がいたのか、市場で仕入れたのか、あるいは死んだ者の蔵書の中にあったのかもしれない。が、それは火事のさ中で恐らくは燃え尽きてしまったのであろう。「私」が佇(たたず)んでいた火事場に、花を手に持った女が現れる。女は薄い花束を開いている戸に立て掛け、しゃがんで手を合わせた。その首筋の影は四十を過ぎた者のように、「私」の目に映る。「私」はその女に、身内の者か、知り合いの者かと訊かずにおれなかった。女は、十八までここに住んでいた、元の私の実家だと云う。そうであれば「私」は、元の店を手離したこの女の父親を知っているのである。そのことを云うと、女はえっと驚いた様子を見せ、暫(しばら)く口を噤(つぐ)んだままでいた。ここを相続しなかった女が親と過ごしたのは、十八までのことなのである。「壁とかにお茶の匂いが残ってはりまへんでしたか。」この女は元の店が、実家がお茶を売っていたことを云っているのだ。「確かに匂いは残ってはりました。」と、「私」が応える。「亡くなったお方は何を気に入って、こんな戸もうまく閉まらへん店を買うたのですか。」「不自由な足つこうて二階に上がって、窓からあの銭湯の煙突を見て決めはったんです。」

 「ホームレスが病気を患っている可能性は、新型コロナウイルスに感染する可能性よりも低いだろうか。派遣労働者として働いているシングルマザーにとって、体を崩して子どもに負担をかける怖さは、新型コロナウイルスの怖さよりも小さいだろうか。学校に馴染めない子どもたちが学校によって傷つくリスクは、この子たちに新型肺炎が発症するリスクよりも低いだろうか。権力を握る者たちは、毎日危機に人びとを晒してきたことを忘れているのだろうか。なにより、新型コロナウイルスが、こういった弱い立場に追いやられている人たちにこそ、甚大かつ長期的な影響を及ぼすという予測は、現代史を振り返っても十分にありうる。」(「パンデミックを生きる指針━歴史研究のアプローチ」藤原辰史 B面の岩波新書4月6日)

 「福島県で9人感染 新型コロナ、10代から60代」(令和2年4月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西賀茂の京都市営小谷墓地に、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の墓がある。墓地は毘沙門山の裾にあり、山は京都ゴルフ倶楽部のゴルフコースになっている。魯山人の墓は山裾を上った日当たりのいい外れにあり、墓石には「北大路家代々之靈墓」と彫られ、裏は「昭和十四年十二月建之 十二歳北大路和子書」と刻まれている。傍らの墓誌は二行で、「禮祥院高徳魯山居士 昭和三十四年十二月廿一日歿 俗名魯山人行年七十六歳、凉月院珠映浄和禪定尼 平成二十年七月廿九日歿 俗名和子行年八十一歳」と記されている。墓に差した二枚の水塔婆の主は、北大路泰嗣である。北大路和子は魯山人の三番目の妻中島きよとの間の長女で、北大路泰嗣はその和子の長男で魯山人の孫である。魯山人は最初の妻安見タミとの間に二男があり、長男櫻一は昭和二十四年(1949)四十歳で亡くなっている。次男武夫の死はそれより早く大正十四年(1925)、十六歳である。タミとの結婚は明治四十一年(1908)で、大正三年(1914)に離婚し、大正五年(1916)に結婚した藤井せきとの間に子は無く、せきとの離婚は昭和二年(1927)で、同じ年にきよと入籍し、きよとの離婚は昭和十三年(1938)で、同じ年熊田ムメと結婚し、翌昭和十四年(1939)に離婚、翌昭和十五年(1940)中道那嘉能(梅香)と結婚し、昭和十七年(1942)年に離婚、この年魯山人は五十九歳である。七十六歳で亡くなった時、魯山人の子で残っていたのは長女の和子ひとりだった。が、和子は最後まで面会を許されなかったという。その和子の字が北大路家の墓に刻まれ残っているのである。不安定な筆運びではあるが、勢いのある和子の字を使って、魯山人は昭和十四年(1939)に自分の墓を建てた。その前年に和子の母きよと離婚し、料理研究家熊田ムメと四度目の結婚をしている。昭和十一年(1936)に大事件が起きる。己(おの)れが開いた赤坂山王の料亭「星岡茶寮」から、魯山人は追放されるのである。大正五年(1916)三十三歳の魯山人は、二番目の妻藤井せきの父親の家作だった神田駿河台の自宅に「古美術鑑定所」の看板を掲げる、二十歳で京都から東京へ出て来て十三年後のことである。「古美術鑑定所」は後に骨董販売「大雅堂芸術店」となり、子ども時代に知り合いだった美術印刷便利堂の田中傳三郎の弟、中村竹四郎が加わり「大雅堂美術店」となった後、魯山人は売り物の器に料理を盛って客に出すようになる。魯山人は料理に自信があった。六歳で養子に入った木版師福田武造・フサの家で、魯山人は賄いを手伝って褒められ、後には任されるまでになっている。魯山人は、上賀茂神社の神事雑務を生業とする社家(しゃけ)の北大路清操(きよあや)と同じ社家の出の登女(とめ)の子とされているが、清操は登女の腹の子が己(おの)れの子ではないことを知って割腹自殺し、房次郎と名づけられた子は生まれると一旦は比叡山を越えた農家に預けられ、すぐにまた預けたとされる清操の近所に住む巡査夫婦の手に戻り、その巡査が行方をくらましその妻が病死すると、巡査夫婦の養子だった者同士が夫婦となって養父の駐在を継ぎ、巡査となったその夫が精神を病んだ末に死に、残された養女が己(おの)れの子と幼い義理の弟の房次郎を連れて実家に戻ったといい、その養女の母親が房次郎を嫌い折檻するのを見かねた者が、福田夫婦に房次郎の養子話を持ち掛けたのだという。魯山人、子ども時代の福田房次郎は、賄いをすることで養父母に対して道がついたことを学んだのであるが、養父武造の傍らで字を習い、紙を買わせて応募させる「一字書き」コンクールに入選を繰り返し賞金を得るという成功体験をする。武造と取引のあった印刷屋の子が田中傳三郎である。明治三十六年(1903)看板職人になっていた二十歳の房次郎は、名乗り出た市中にいた伯母、北大路清操の姉の口から初めて己(おの)れの出生を聞かされ、実母登女が東京にいることを知る。かつて御所勤めをしていたことのある登女は、男爵四條隆平(たかとし)の家で住み込みの女中をしていた。上京し突如目の前に現れた房次郎に登女は、その姿を見かね着替えの古着を買い与えただけで、親として房次郎とは接しなかったという。が、そのまま東京で書道教室を開き、日本美術協会美術展で応募の「千字文」が一等二席に入ると、二人の関係に道がつく。房次郎は入選の後、洋画家岡本太郎の祖父岡本可亭の内弟子となり版下書きの仕事の傍ら、岡本家の賄いもするようになる。岡本太郎の母岡本かの子は、子どもの目で見た房次郎の食材に拘(こだわ)る様を小説「食魔」に書き残している。明治四十三年(1910)、房次郎はこの年の八月に併合した韓国に、母登女と一緒に渡っている。京城には、登女の前夫との間の鉄道員になった息子がいた。この時房次郎には、京都から東京に呼び寄せ入籍した安見タミとの間に長男櫻一がいて、タミは二人目を身ごもっていたが、房次郎は朝鮮行きをタミに伝えていない。京城の京龍印刷局の書記に就いた房次郎は、二年半の間上海にも移動し、中国の陶器や書や篆刻を見、料理を味わったという。日本に戻り東京日本橋に再び書道教室を開き、版下書きを始めた房次郎は、和本出版商の藤井利八を通して滋賀長浜の文具商河路豊吉と関係が出来る。二番目の妻となる藤井せきは、この利八の娘である。河路豊吉は数寄者(すきしゃ)だった。書画骨董の目利きで、文人画家を支援する茶人が数寄者である。房次郎は道が通じた河路豊吉の前で初めて濡額を刻り、その独特の筆と彫りは趣味人を引き寄せ、後々北陸鯖江の古美術商窪田卜了軒(ぼくりょうけん)、金沢のセメント商細野燕臺(えんだい)の食客となるのであるが、その前に房次郎には会いたい人物があった、京都の数寄者、内貴清兵衛(ないきせいべえ)である。内貴清兵衛に房次郎を引き合わせたのは、便利堂の田中傳三郎である。内貴清兵衛は、初代京都市長内貴甚三郎の長男で、継いだ家業の呉服屋を弟に追われた後も日本新薬、島津電池製作所などの役員をし、広大な田畑宅地の上がりで食っていた。この時三十一歳の房次郎は、四つ上の内貴清兵衛の住まいとなっていた別荘に上がり込み、食通で料理もこなしていた清兵衛の身の回りの雑用やら賄いも受け持つようになり、清兵衛の目を通して、維新で寺や大名が手放し出回った古美術骨董の値打ちを身につけるのである。大正三年(1914)京都市中に借家住まいをさせていたタミと離婚し身軽になった房次郎は、清兵衛の元も離れ、金沢の数寄者細野燕臺の食客となる。食客でありながら房次郎はここでも台所を預かり、燕臺の家の者を喜ばせている。燕臺は、自分で染付をした焼き物を食器に使っていた。これを見た房次郎の驚きの様は、後に魯山人となって数十万の器を焼いたことを思えば想像がつく。房次郎は胸ときめかせ、燕臺の器を焼いた山代温泉の須田靑華窯で初めての染付をした。大観とも名乗りはじめた房次郎は燕臺を通して金沢でもう一人の数寄者、太田多吉と出会う。太田多吉は料亭「山の尾」の主(あるじ)で、己(おの)れの指示で焼かせた器だけを店で使っていた。房次郎、福田大観はこの太田多吉から改めて玄人の料理知識を聞き知るのである。大正五年(1916)実兄が死んで北大路姓を継ぎ魯卿とも名乗るようになる三十三歳の房次郎は、藤井せきと結婚し、「古美術鑑定所」を開く。田中傳三郎の弟中村竹四郎は、東京で出版社「有楽社」を起こした兄彌二郎が発行する『グラフィック』で著名人の写真と談話の聞き書きを担当し、『食道楽』で東京市中の評判の店の記事を編集していた。大正六年(1917)二十八歳の竹四郎は、兄傳三郎に引き合わされた房次郎の肉体、手と目と舌から生まれ出た言葉に魅せられ、二人は大正九年(1920)「大雅堂美術店」を開くのである。が株の大暴落で商売は躓(つまず)き、房次郎は客に出す茶に加え、売り物に料理を盛ってもてなすという前代未聞のことをする。客はそのようにもてなされたことに驚き、自ずと出された器を見る目が改まる。魯山人と名乗る骨董屋の料理に評判が立つ。客筋は、竹四郎がかつての仕事で面識のあった政治家実業家らである。「大雅堂美術店」は「美食倶楽部」を名乗り、会費を払った者に料理を出すようになる。人を雇い、食材は魯山人が自ら仕入れ、売り物で間に合わなくなった器を山代須田靑華窯と京都東山窯で揃え、ここに古物を真似た魯山人の焼き物がはじまるのである。が、大正十二年(1923)関東大震災が起こる。店舗を失った魯山人と竹四郎は、すぐに芝公園に葦簀張りの店「花の茶屋」を出し、二百人いたという会員の常連を呼び戻し、その僅(わず)か二年後葦簀茶屋は、名高き料亭「星岡茶寮」に大化けするのである。打ち捨てられていた華族の茶道場「星岡茶寮」を斡旋した東京市電気局長長尾半平も、「星岡茶寮」の再興として売った寮債を初めに買った貴族院議長徳川家達(いえさと)も「美食倶楽部」の会員であり、再興資金はこれら名士の財布から順調に集まった。が、相談を受けた内貴清兵衛は、魯山人に金を出さなかったという。このことで魯山人が何も思わなかったはずはない。魯山人にとって学ぶべき対象は、越えるべき対象なのである。「星岡茶寮」の料理人は当時の常識だった口入れ屋からではなく新聞で募集し、女中は水商売の経験者は採らず、茶や生け花を習わせ、客に酌をさせず、室に芸者は上げない。料理は一品づつ出し、その器やら灰皿やら花瓶やら火鉢やら数千の品々はすべて魯山人が手を入れ焼いたものである。このような料亭は世間のどこにも無かった。食材の吟味に手間と金を掛け、目新しさの際立った「星岡茶寮」は繁昌し、後には「星岡の会員に非ざれば日本の名士に非ず」と人の口に上るまでになるのである。魯山人は小学校を出ると薬屋へ丁稚奉公に行くが勤まらず、養父の木版を手伝い、西洋看板職人、書道教授、版下書き、朝鮮公務書記、濡額篆刻製作、骨董商、「美食倶楽部」を経て、料亭「星岡茶寮」の顧問となり、遂に北鎌倉山崎に己(おの)れの窯「星岡窯(せいこうよう)」を持つまでになる。この間藤井せきと離婚し、妊娠していた「星岡茶寮」の女中頭の中島きよを入籍させ、魯山人は「星岡窯」に建てた母屋で生活を始めるのであるが、きよと長女和子は入籍から六年の後まで、魯山人のいない不可解な転居を重ねる借家住まいをさせられている。窯を持った魯山人は益々焼き物にのめり込み、百貨店で開く個展の図録にしたたかに有力者の推薦文を載せる一方で、星岡窯の職人だった荒川豊蔵が幻の志野焼の窯跡を発見したのを機に発行しはじめた『星岡』の誌上で、料理をはじめ陶芸、絵画、書、あるいは茶道の既成流行の権威を叩きのめす如くに否定してゆく。「星岡茶寮」の登記上の経営者は、中村竹四郎だった。年下の竹四郎が魯山人に見せるハンカチを持たせるような姿は、従業員から二人が夫婦のように見えたという。が、情況が変わる。経営者でない魯山人が独断で大阪「星岡茶寮」の出店を決め、従業員を次々に馘にしたことで従業員の間に不満が募り、食器製作の参考と称して高額な骨董に許可なく売り上げをつぎ込み、経営が立ち行かなくなるまでになっていたのである。が、魯山人は、すべて「星岡茶寮」運営のため、理想の「星岡茶寮」実現のために疑いなく良かれと思っていたのである。昭和十一年(1936)七月、魯山人の元に竹四郎の弁護士から封書が届く。「被通知人 北大路房次郎 通知人(中村竹四郎)ハ 自己ノ経営ニ係ル東京星岡茶寮 大阪星岡茶寮ニ於ケル割烹営業 並ニ鎌倉星岡窯ニ於ケル陶磁器製造ニ付 被通告人ヲ料理並ニ窯業ノ技術主任トシテ雇傭中ノ処 今般都合ニ因リ解雇 一切ノ関係ヲ謝絶致候ニ付 此段御通知ニ及候也。」魯山人は日頃の態度、その不遜をカケラも見せず、一読怯える様子を見せたという。魯山人の内心は竹四郎との和解であり、それを察した内貴清兵衛と荒川豊蔵が二人の和解の席を設ける。が、魯山人はその席に姿を現さなかった。後に魯山人は裁判を起こし、九年後の昭和二十年(1945)申し立ては星岡茶寮の三店は竹四郎、星岡窯は魯山人との案で和解するが、二人の関係は解雇通知で終わっていた。裁判の間魯山人は、栄養剤「わかもと」の販売促進用の器や東京火災保険五十周年の記念品数千点を焼き、太平洋戦争が始まると窯の火が制限され、職人が兵に取られ、焼き物の数が減るが、海軍提供の薪で航空隊の食器などを焼いている。中島きよとの離婚はこの間のことで、きよは和子を魯山人の元に残し、星岡窯の職人と駆け落ちしたのだという。和子の字で魯山人が墓を建てるのはその翌年昭和十四年(1939)である。昭和二十年(1945)裁判で竹四郎の所有となった星岡茶寮の三店は空襲で全焼する、が、魯山人の星岡窯は戦災に遇わなかった。戦後、銀座に魯山人の作品だけを売る専門の店が出来、軍人らが土産物に買って行ったアメリカで評判になり、来日した彫刻家イサム・ノグチ魯山人の個展を見て感激し、そのまま山口淑子と共に一年余星岡窯に住むことになるのであるが、家の表に干した洗い物を魯山人が叱り、山口淑子に裏に干させたというエピソードは、魯山人魯山人たる一面を物語っているかもしれない。昭和二十八年(1953)日米会長だったロックフェラー三世からアメリカでの展覧会と講演の依頼を受けた七十歳の魯山人は、ついでに欧州を巡る計画に拡げ、翌昭和二十九年(1954)方々から搔き集めた金で旅に出、西洋料理を食い、ピカソシャガールと面談する。が、帰国から亡くなる七十六歳の年まで魯山人は借金の返済に追われ、焼き物を焼き続けなければならなくなる。昭和二十三年(1948)に結婚した和子とは、この頃はすでに絶縁状態にあった。たびたび和子が魯山人の蒐集品を無断で持ち出し売り捌いていたからである。昭和三十年(1955)とその翌年に打診された人間国宝の指定を、魯山人は断る。かつては個展の図録にお墨付きの推薦文を書いてもらうため有力者に活鯛や高級墨の付け届けまでしたのであるが、職人に給料も払えぬほどの窮乏にあっても、魯山人は意地を通したのだ、と云えるのかもしれぬ。昭和三十四年(1959)十二月、横浜の病院で魯山人は息を引取る。死因はタニシなどに寄生するジストマ虫による肝硬変である。魯山人は、傲岸不遜(ごうがんふそん)だったと云われている。三番目の妻だった中島きよは、魯山人を「怖い人」だったと云う。朝晩の風呂の後、替えの下着とビールを用意させ、その下着の洗濯はきよの母親がやっていた。売り物の器を取り巻きの者にタダで遣り、妻には生活費を渡さなかった。墓の字を書いた長女和子に向かって、叱り言葉でなく自分の子ではないと云った。「星岡茶寮」の従業員に人扱いしないような言動、料理についた髪の毛一本で全員を坊主にし、一度ならず女中に「手をつけた」ことがあった。機関紙『星岡』に写真つきで私信の相手の字を貶(けな)し、己(おの)れの作る料理以外の料理を悉(ことごと)く貶(けな)した。魯山人は晩年、ラジオドラマを聞いて涙を流すことがあったという。追放事件の後の和解の席で、中村竹四郎は内貴清兵衛に諭され、泣いた。が、戸の裏にいた魯山人は出て行かなかった。妻きよは絶えず叱責され、母親の前で泣いた。ひと時星岡窯にいた長男の櫻一は、焼いた器を魯山人に叩き割られて泣いた。身重で幼い櫻一を抱えていた最初の妻安見タミは、房次郎に一言も告げらずに朝鮮に行かれてしまって泣いた。長女和子は実の子ではないと云われて泣き、面会を許されず魯山人の死の床で泣いた。理不尽に馘になった「星岡茶寮」の従業員も泣いた。人間国宝を辞退した時、魯山人は回りの者に選考委員の格を疑い、芸術家の無位無冠を語ったという。が、この云いだけでは魯山人の息遣いには近づかない。魯山人はたとえ爪の垢ほどでも、責任を負わされることを恐れた。人間国宝となった者は国から助成金を貰う以上、今までのような無責任な言動は慎まなければなれないかもしれないし、あらぬ批判の的となるかもしれない。勲章を得て職人に給料が払うことが出来るようになることよりも、そのことで想像のつかない社会的責任を負うことの方が、魯山人には何より耐えがたいことだった。竹四郎との和解の席に現れなかったのも、その後に不自由な身となって負わされるであろう己(おの)れの責任を只々恐れたからである。こう想像すると北大路魯山人の青臭い息が、顔近く生臭く臭って来る。魯山人は執拗に「美」を語った。その「美」は自然の中にあり、あるいは自然そのものであるとも語っている。その「美」への執着の原点を訊かれた魯山人は、三つの時負ぶわれて見た躑躅ツツジ)の赤い色だったと云っている。が、それは一つの思い出には違いないが、相手の期待に沿う善意の応えにすぎない。魯山人の云う「美」への本当の衝動は、恐らくは魯山人にも説明がつかなかったはずである。説明が出来るもの、説明がつくことは面白くないのであり、面白くないものに、人は突き動かされることはないのである。魯山人は「そのこと」を説明がつかないこととして、他人と分かり合うことが出来なかった。そうではない、分かり合うことなど出来ないのである。故(ゆえ)に魯山人は傲岸不遜(ごうがんふそん)の男に見えた。晩年の魯山人が流した涙は、最後まで分かり合うという誘惑に屈しなかった者の崇高な涙である。そうであれば魯山人の回りで流した涙も、同じ崇高な涙でなければならない。

 「夏の暑さがつづくと、たべものも時に変わったものが欲しくなる。私はそうした場合、よくこんなものをこしらえて、自分自身の食欲に一種の満足を与える。雪虎━これはなんのことはない、揚げ豆腐を焼き、大根おろしで食べるのである。その焼かれた揚げ豆腐に白い大根おろしのかけられた風情を「雪虎」といったまでのことである。もし大根おろしの代わりに、季節が冬ででもあって、それがねぎである場合には、これを称して「竹虎」という━京都の話である。これはまったく夏向きのもので、朝、昼、晩の、いずれに用いてもよい。まず揚げ豆腐の五分ぐらいの厚さのもの(東京では生揚げと称しているもの)を、餅網にかけて、べっこう様の焦げのつく程度に焼き、適宜に切り、新鮮な大根おろしをたくさん添え、いきなり醤油をかけて食う。」(「夏日小味」北大路魯山人『星岡』9号・昭和6年6月『魯山人著作集第三巻』1980年)

 「第1原発・処理水500~600倍に希釈 海洋放出時の東電検討案」(令和2年3月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 日常を過ごす中で、がらんとして何もない部屋に立つ時、その者はこののちその部屋を借りるのかもしれず、あるいは中にあった家具などすべて外に運び出し、最早鍵を掛けて出てゆくばかりのところかもしれぬ。もし忘れもののないよういま一度見廻したところであれば、その部屋は過日、不動産屋の後ろにつき従って目にした時の部屋に戻ったわけであるが、がらんとした目の前の部屋は、その者の中ではじめと仕舞いの意味を帯びて目に映ることになる。転居を繰り返した者であれば、そのような二つの意味を帯びてがらんとした部屋を幾つも頭の中に持っている。京都御苑の南西(みなみにし)に、拾翠亭(しゅうすいてい)という入母屋の二階建の建物がある。明治の世となるまで九條家の別荘だった建物である。その最後の当主、公爵九條道孝の四女節子は大正天皇皇后貞明であり、昭和天皇の母である。維新で明治天皇と共に九條家もまた東京に移り、その母屋は一旦解体されて東京の住まいとなり、今は東京国立博物館の庭の隅に建っている。茶会や歌会に使われたという拾翠亭は、一階の広間と小間に炉が切られ、一階にはもう一間、二階には二間半の座敷が一間あり、小舟を浮かべることが出来る庭の池を除けば、建物に浮世離れしたところはない。壁も戸の作りも、京都の町なかに残る古い商家のそれよりも簡素である。これははじめから簡素な茶室を旨として作られたのではなく、恐らくは徳川の世の公家の余裕のない懐具合によるものである。とある二月の日の射さないその日、拾翠亭は一階も二階も戸はすべて開けてあり、室には床の間の小さな花瓶に丈を短く切った花が二三活けてあるだけでがらんとしている。室にも外の庭にも人の気配はなく、畳は足の裏に冷たい。その者はこの室をこれから借りるわけでもなく、借りていて出てゆくところでもない。何やらひと様の家に黙って上がり込んだようでもあるが、この室にはひと様の生活らしきものは花を除けばまるでなく、家に主(あるじ)があるわけではないから、室で待っていても誰かやって来るわけではない。何をするわけでもなく、かといって横になるようなことは認められない、薄ら寒い室に座っていることには我慢がいる。一階から二階へ室を移してもその我慢は変わらない。畳の上では屈するべき膝を一旦は折り、落ち着かぬ理由を見定めぬまままた立ち上がり、窓に寄る。ひと様の家に上がり込んで、二階から冬の庭を見下ろす。真後ろで、同じように見下ろす者の気配がある。振り返っても誰もいないことは分かっている。気配は、九條家の誰かが残していったものに違いない。記憶は人が思うところに残り、あるいは思うところに現れる。拾翠亭の無人の室は、主(あるじ)であった九條家の人らを記憶し、感傷に云えば、がらんとした室に残っているのは、最後に窓辺に立った者の視線である。

 「さっきから、着飾った婦人と何度もすれちがっているみたいだ。気持ちが妙に浮きたつ。でも、だれもいない。香りのせいなのだ。菩提樹の黄色い花がきつすぎるほどにおっているだけ。遠くの丘が暑さにゆるゆる溶けて、稜線の緑が空の青にじんわりにじんでいる。その上に綿雲が白く点々。気が遠くなるほどのどかだ。」(「菩提樹の香る村」辺見庸『もの食う人びと』共同通信社1994年)

 「「双葉」初解除!帰還困難一部先行 復興拠点立ち入り規制緩和」(令和2年3月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)