六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)を写した古い写真には、その朱塗りの門前に「あの世への入口」と記した提灯が掲げられていた。八月七日から十日は六道まいりの期間で、珍皇寺は市中からの参拝者でごったがいするのであるが、昨年と今年は新盆の者のほかの参拝は遠慮してくれるよう珍皇寺は世間に告げ、露店の出ない六道まいりの境内は薄ら静かである。「河原面を過ゆけば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の、地蔵堂よと伏拝む。観音も同坐あり、闡提救世(せんだいぐぜ)の方便あらたに、たらちねを守り給へや。実(げに)や守りの末直に頼む命は白玉の、愛宕(おたぎ)の寺も打過ぬ。六道の辻とかや、実(げに)恐ろしや此道は、冥途(めいど)に通ふなるものを、心細鳥部山、煙の末も薄霞む、声も旅雁の横たはる、北斗の星の曇りなき。」(謡曲「熊野(ゆや)」)鴨川を渡って逸(はや)る心を押さえる間もなく着いた大和大路の向こう、六波羅蜜寺地蔵堂を伏し拝み、観音様の「すべての衆生を救うまでは成仏しない」という教えを思い出し、どうか母を守って下さいと願いました。ですが、先の命のことをいま知ることはできないのです。愛宕寺を過ぎると六道の辻に出ました。ここは冥途の入り口だと聞いていたので俄かに恐ろしく心細くなってしまいました。顔を上げると、死んだ人を葬るという鳥辺山から上がる煙が薄っすらと見え、旅の途中の雁の鳴き声が空に響き渡り、北斗星が煌々と瞬いています。「六道の辻とかや、実怖ろしや此道は、冥途に通ふなるものを」六道まいりをするためには、そのお参りのし方を知っていなければならない。まず境内の露店でお精霊(しょらい)がこれに乗るという高野槇の葉のついた枝を買い求め、次に本堂前の受付で故人の戒名あるいは俗名を告げ経木の水塔婆に書いてもらい、十万億土まで響くという小堂の壁の穴から出ている綱を引いて内の迎鐘を撞き、水塔婆に線香の香を焚きしめて石地蔵が並ぶ賽の河原に納め、高野槇で水を振り掛けながら水回向をし、お精霊(しょらい)の乗った高野槇はそのまま家に持ち帰る。あるいは持ち帰った高野槇を井戸の中に吊るせば、珍皇寺が祀る小野篁(おののたかむら)が井戸から冥府に通って閻魔大王の書記をしたという話になぞらえ、吊るした井戸がお精霊(しょらい)のこの世への戻り口になるという。そして戻ったお精霊(しょらい)は、この世の者たちと暫く時を過ごすのである。珍皇寺はお精霊(しょらい)があの世から帰って来るところであるが、六道の辻は人があの世へ行くところであるから恐ろしい。この六道は、衆生が自らこの世でなした業によって生死を繰り返す六つの世界、あらゆる苦しみを受ける地獄、嫉妬欲望にまみれてもがく餓鬼、弱肉強食で殺し合う畜生、怒りに任せて争いを繰り返す修羅、生病老死の四苦八苦から逃れられない人(にん)、享楽に過ごす天をいう。『今昔物語集』に「天竺人兄弟、持金通山語(てんじくのひとのきょうだい、こがねをもちてやまをとほれること)」(巻第四・第卅四)という話がある。「今ハ昔、天竺ニ兄弟二人ノ人有リ。具シテ道ヲ行ク間、各(オノオノ)千両ノ金(コガネ)ヲ持タリ。山々ヲ通テ行ク間、兄ノ思ハク、「我レ、弟ヲ殺シテ千両ノ金ヲ奪ヒ取テ、我ガ千両ノ金ニ加ヘテ二千両ノ金ヲ持タムト」思フ。弟ノ亦((マタ)、思ハク、「我レ、兄ヲ殺シテ千両ノ金ヲ奪ヒ取テ我ガ千両ノ金ニ加ヘテ二千両ヲ持バヤト」思フ。互ニ如此(カクノゴト)ク思フト云ヘドモ、未ダ思ヒ定ムル事无(ナキ)ガ間ニ、山ヲ通リ出デ、河ノ側ニ至ヌ。兄、此ノ持タル千両ノ金ヲ河ニ投入レツ。弟、此レヲ見テ兄ニ問テ云ク、「何ゾ金ヲ河ニ投入レ給フ」ト。兄、答テ云ク、「我レ、山通ツル間ニ、汝ヲ殺シテ持タル所ノ金ヲヤ取ラマシト思ヒツ。只一人有ル弟也。此ノ金无(ナ)カラマシカバ、汝ヲ殺ト思シヤハ。然(サ)レバ投入ツル也」ト。弟ノ云ク、「我モ亦、如此(カクノゴト)キ兄ヲ殺サムト思ヒツ。此レ皆、此ノ金ニ依テ也」ト云テ、弟モ持タル金ヲ同ク河ニ投入レツ。然(シカ)レバ、人ハ味ヒニ依テ命ヲ被奪(ウバハ)レ、財(タカラ)ニ依テ身ヲ害スル也。財ヲ不持ズシテ、身貧(イヤ)シカラム人、専(モツパラ)ニ不嘆(ナゲクベカラ)ズ。六道四生ニ廻ル事モ亦、財ヲ貪(ムサボ)ルニ依テ有ル事也トナム語リ傳ヘタルトヤ。」昔、天竺にある二人の兄弟がいて、とある同じ道を一緒に歩いていました。この兄弟は二人とも背中に千両の金を背負っていて、どちらもそのことを知っていました。幾つか山を越えて行く間に、この兄弟の兄はこんなことを頭に浮かべました。「いまここで弟を殺して弟から千両を奪えば、おれは二千両の金持ちになることが出来るぞ。」その時弟もまたこんなことを思っていたのです。「いま兄を殺せば、一遍に二千両の金持ちになることが出来るのになあ。」二人は互いに、心にそのような思いを抱きながらそうする決心もつかないまま、ひとつの山を越え、河が流れているところに出ました。すると兄は、背負っていた千両の金を下ろし、河に投げ捨てたのです。びっくりした弟は、兄に訊きました。「どうしてお金を捨てておしまいになったのです。」兄はこう応えました。「おれはさっきの山道で、お前を殺してお前の金を奪おうと思ったのだ。だが、お前はおれのたった一人の弟だ。なまじこんな金を持っていたから、お前を殺そうなどという考えを起こしたんだ。だからおれは捨ててやった。」これを聞いた弟は、こう云いました。「わたしもあなたと同じように考え、あなたを殺してやろうと思っていました。そうなんです。わたしも兄さんも金に惑わされてこんな思いに嵌まってしまったんです。」弟も背負っていた自分の金を河に投げ捨てました。人は喰ったもので命を奪われることもあり、財産で身を滅ぼすこともあるのです。財産といえるようなものが何もなく貧乏だからといって嘆く必要はまったくありません。財産に拘(こだわ)る限り、六道四生(ししょう、母親の胎内から生まれ、卵から孵り、湿ったところから虫のように湧き、何もないところから忽然と生まれることを繰り返す)を永遠にぐるぐる生き廻らされるのです、と後々に語り伝えられたということです。が、この兄弟の兄は、あるいは弟に殺されるかもしれないと思い、その前に金を捨てたのかもしれず、弟もまた同じように兄に殺される前に金を捨てようと思ったのかもしれない。が、かくしてこの兄弟はいま暫くはこの世の「人」に留まったのである。迎鐘撞ききて熱し土不踏 石田あき子。

 「細長い屋根のついた桟橋に立つ人は、もはやこちらとはいえずさりとてあちらともいいかねる国にいるようなものだ。薄黄色の天井はこだまする人の叫び声でいっぱいだ。あたりは荷物運搬車のごろごろいう音や、トランクを置く重い音、起重機のたえずきしる音、それに、はじめてかぐ湖のかおりが流れている。たっぷり時間があるのに、人々は急いで通りぬける。過去の世界、あの大陸はすでにうしろにとり残され、未来は船腹にきらきら光る口を開けて待っている。薄暗くてそうぞうしいこの小路だけが、はなはだ困ったことに、現在にほかならぬ。」(『夜はやさしフランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド 谷口陸男訳 角川文庫1960年)

 「「復興五輪」…発信わずか 新型コロナ拡大にのみこまれた理念」(令和3年8月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山南禅寺塔頭金地院(こんちいん)の書院に、長谷川等伯が描いた「猿猴捉月図」という襖絵がある。長く伸ばした片方の腕で樹の枝に摑まり、もう一方の腕を伸ばして一匹の猿が池に映った月を掬おうとしている。この「猿猴捉月図」は、仏典『大蔵経』の「魔訶僧祇律巻第七」から題を取ったものである。「於空閑處有五百獼猴。遊行林中。到一尼倶律樹。樹下有井。井中有月影現。時獼猴主見是月影。語諸伴言。月今日死落在井中。當共出之。莫令世間長夜闇冥。共作議言。云何能。時獼猴主言。我知出法。我捉樹枝。汝捉我尾。展轉相連。乃可出之。時諸獼猴即如主語。展轉相捉。小未至水。連獼猴重。樹弱枝折一切獼猴堕井水中。」人がいまだ踏み入らない原野に五百匹の大猿の群れが棲んでいた。ある日この猿の群れが林を巡っていて、尼俱律(にくり)という樹が一本生えているところにやって来た。その樹の下には井戸があって、水の面に月が浮かんでいた。この月を見て驚いた群れの先導者が皆にこう云った。「月が井戸に落ちて溺れて死にかかっている。われわれはこれを救い出さなければならない。真っ暗闇の夜がこのまま続いてしまうことになってはだめだ。」これを聞いて群れの者どもはああだこうだと話し合ったが、うまい方法が浮かばず、先導者にどうすればいいのか訊くと、「こうすればいいんだ。まずおれが樹の枝にぶら下がる。それからお前らのひとりがおれの尻尾を掴んでぶら下がる。これを続けてゆくんだ。そうすれば月を救い出すことが出来る。」猿たちは早速先導者の云う通り、次々に相手の尻尾を掴んでぶら下がってゆく。が、もうすぐ水面に触れるすれすれまで来たところで、連なった猿の重みに耐えかねた枝がボキッと折れ、猿の群れは一匹残らず井戸の中に堕ちてしまった。この原文には続きがあり、愚か者には愚か者が従ってしまう、迷う者が迷う者を救うことは出来ない、と述べている。猿のこの場面だけを見れば、実体のないものを掴み損ねて溺れてしまった、ということである。身の程を知らぬ者が冷静な判断をせずに大失敗をしてしまう、という教えであるともされている。笊で水に映った月を掬うことは出来ない。が、水ごと両手で掬うことは出来る。が、その月は本当の月ではない。車谷長吉の『贋世捨人』にこのような一節がある。「それから谷内氏は、次ぎのような話をした。ある日の午後、谷内氏が勤務する精神医学研究所の廊下を歩いていると、研究所内の風呂場の戸が開いていた。中を覗くと、服を着た一人の男の患者が、汲出し桶の尻に坐り、水のはってある浴槽の上に釣竿を垂れている。かねて谷内氏とは顔見知りの男である。氏は「どうだ、釣れるか。」と声を掛けた。が、男は振り向きもしない。釣糸を垂れた風呂桶の中を一心に見詰めている。谷内氏はそのまま廊下を通り過ぎた。所用をすませて、ふたたびもとの廊下を通過する時、風呂場を覗くと、男は先程とまったく同じ姿勢で、浴槽に釣竿を差し伸べている。氏はまた、「どうだ、その後、何か釣れたか。」と声を掛けた。すると、男は矢庭にこちらを振り向き、「馬鹿ッ、風呂桶で魚が釣れると思っているのかッ。」と呶鳴った。血走った、凄まじい目だった。谷内氏は、はッとした。頭の先から足の先まで、電気が走り抜けたような衝撃を受けた。」溺れている月を救おうとした猿が愚かであれば、釣れるはずのないことを知って浴槽に釣糸を垂らす人間は何であろうか。金地院は、以心崇伝の寺である。以心崇伝は、長く徳川家康に仕え名を残している。「伴天連追放之文」、禁中並公家諸法度武家諸法度、寺院法度を書いたのが以心崇伝である。徳川幕府は、朝廷も武家も寺も取り締まりの対象にしたことで二百六十余年続いたのである。小堀遠州が作った、名庭といわれている大方丈南面の二千坪の鶴亀の庭の、白砂に浮かぶ石を組んだ鶴島と亀島の間に長さ十二尺幅六尺の平たい石が据えられている。これは拝石と呼ばれ、ここに立って境内の南西の木の茂る傾斜の先の東照宮を拝むための石である。東照宮に祀られているのは徳川家康である。以心崇伝は家康のため、公家からも寺からも様々な書物を搔き集め、それを書き写させたという。万が一にも、家康に井戸の中の月を救うような気を起こさせないために。界隈という言葉の意味を狭く使えば、曲れば蹴上に抜ける緩やかな上り道の向かいに、南禅寺山を背にした南陽院の白築地が続く金地院の門前の界隈は、どこかで見かけたような思いのする景色でありながら、恐らくはここにしかない典型的な昔の風が通う界隈である。この昔とは、江戸からはじまる昔のことである。

 「数学の世界で第二次大戦の五、六年前から出てきた傾向は「抽象化」で、内容の細かい点は抜く代わりに一般性を持ったのが喜ばれた。それは戦後さらに著しくなっている。風景でいえば冬の野の感じで、からっとしており、雪も降り風も吹く。こういうところもいいが、人の住めるところではない。そこで私は一つ季節を回してやろうと思って、早春の花園のような感じのものを二、三続けて書こうと思い立った。その一つとしてフランス留学時代の発見の一つを思い出し、もう一度とりあげたみたが、あのころわからなかったことがよくわかるようになり、結果は格段に違うようだ。これが境地が開けるということだろうと思う。」(『春宵十話』岡潔 毎日新聞社1963年)

 「国と東電に10億円賠償命令 (浪江町)津島住民訴訟、原状回復は退ける」(令和3年7月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵯峨小倉山の山裾に細長い姿の小倉池がある。東側の縁(ふち)を辿って南へ上がれば大河内山荘で、北に歩を進めれば常寂光寺の門前に出る。朝日が昇れば西の縁の小倉山を目指して光が射し込み、その日が中天を過ぎれば忽ちに陰って静まり返り、辺りの竹林が風に戦(そよ)いだりすれば不気味さを漂わせる池である。池の水の上一面をゆらゆら揺れる葉で覆った蓮が、いま白や桃色の花を咲かせている。蜻蛉をしづかにどけて蓮ひらく 金尾梅の門。朝日に照らされた蕾が開こうと微かに動いた瞬間、止まっていた蜻蛉がサッと飛んで行った。「どけて」という云いからは、蓮の花の大きさと高貴さのようなものが伝わって来る。が、極楽浄土の阿弥陀仏が池の縁から腕を伸ばし、開き始めた花弁(はなびら)に止まっていた蜻蛉を払ったのかもしれない。黄金の蓮(はちす)へ帰る野球かな 攝津幸彦攝津幸彦の句はどれも縄一筋で捉えることは出来ない。「黄金の蓮」は仏像の前に供えられた造花の蓮であろうか。その造花の蓮が活けてあるところへ「野球」が帰るとはどういうことか。確かに野球は、打者が球を打って本塁に還って来ることを目標にしている。が、本塁への生還は黄金の蓮が咲く極楽浄土にでも着いたような気分であるなどと生真面目に解釈をする必要はない。攝津幸彦の詠む句は、言葉のおかし気で馬鹿々々しい気分そのものの面白さであるのであるからである。小倉池の山裾の畔に御髪神社(みかみじんじゃ)という小さな社が建っている。昭和三十六年(1961)に理髪学校の教員だった児玉林三郎という者が建てたものであるという。ソ連ガガーリンボストーク1号に乗り込んで初めて地球を一周した年である。御髪神社が祀っているのは藤原采女亮政之(ふじわらのうねめのすけまさゆき)という髪結いである。第九十代亀山天皇の警護をしていた政之の父藤原基晴が宝刀「九王丸」を盗まれ、恐らくはそのことで失職し、基晴政之父子はその盗まれた刀探しの旅に出る。蒙古襲来に備えるために人が集まっていたという下関に父子は目星をつけ、政之は生活を助けるため新羅人から髪の結い方を習って下関で商売を始める。これが髪結いという職業の始まりであるという。後に政之は髪結い職人として鎌倉幕府に仕え、没後に従五位が贈られる。それで、基晴政之父子は肝心の「九王丸」を見つけることが出来たのか。これは見つかったとも見つからなかったともされている。が、後々世間に知れ渡ったことは、刀を見つけた父子の美談ではなく政之の髪結いの腕前である。政之は刀が見つからなくとも、己(おの)れの腕で飯が喰えるようになった。目的地、生きる場所は同じでも目的、生き方が変わったのである。平凡な蓮へ帰る野球かな。

 「眠れぬままに、私はここへ来て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそれは、それから後に移動した様々な地点の押し重なつて来る眺望の底に沈み込んで、搔き分けても搔き分けても、ふと掴んだと思ふ間に早や逸脱してしまつて停止をしない。私はもうここへ来てから長年暮しつづけて来たのと同様である。しかし、この忘却を払ひのけようとする努力は、私にとつてはこの山上の最初の貴重な印象に対する感謝であつた。」(「榛名」横光利一『筑摩現代文学大系 31 横光利一集』筑摩書房1976年)

 「心の不調リスク高く 県民健康調査、旧避難区域は全国上回る」(令和3年7月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 また『宇治拾遺物語』に「渡天の僧、穴に入る事」という話がある。「今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺に渡りて、他事にあらず、ただもののゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。ある片山に、大きなる穴あり。牛のありけるが、この穴に入りけるを見て、ゆかしく覚えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。はるかに行きて、明き所へ出でぬ。見まはせば、あらぬ世界と覚えて、見も知らぬ花の色いみじきが、咲き乱れたり。牛、この花を喰ひけり。試みにこの花を一房取りて喰ひたりければ、うまきこと、天の甘露もかくやあらんと覚えて、めでたかりけるままに、多く喰ひたりければ、ただ肥えに肥え太りけり。心得ず、恐ろしく思ひて、ありつる穴の方へ帰り行くに、はじめはやすく通りつる穴、身の太くなりて、狭く覚えて、やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、堪へがたきこと限りなし。前を通る人に、「これ助けよ」と、呼ばはりけれど、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも、何と見えけるやらん。不思議なり。日ごろ重なりて死にぬ。のちは、石になりて、穴の口に頭をさし出したるやうにてなんありける。玄奘三蔵(げんじやうさんざう)、天竺に渡り給ひたりける日記に、このよし記されたり。」その昔、唐という国のひとりの僧侶が、天竺に渡り、仏修行のようなことではなく、天竺というところがどんなところであるのか知りたいと思って、とにかくあちこち歩き回っていろいろなものを見物したのだという。この僧侶、山の一方に大きな穴があいているのを目にして足を止めた。なんとその穴に牛が一頭入って行くではないか。これを見た僧侶は居ても立っても居られず、牛の後に従って穴の中に入って行った。どれくらい歩いたのか見当もつかぬほど歩いて行くと、急に視界が開け、明るいところに出たのである。思わす見渡すと、そこはこの世と思えぬ別世界のようで、見たこともない美しい色をした花が咲き乱れていて、さっきの牛がその花を喰っているではないか。その様子を見て思わずそそられた僧侶は、試しに花を一房ちぎって口に入れると、それはとびきりの味で、あの不老長寿の甘露というものを思い出させるようないままで口にしたこともない味だったので、僧侶は喰うのが止まらなくなり、ふと我に返ると、身体がぶよぶよに肥ってしまっていた。僧侶はそんな風になってしまった自分の姿が訳が分からず恐ろしくなって、さっきの穴のところに戻ると、来た時は問題なく通り抜けることが出来た穴が、肥ったせいでぎゅうぎゅうになってうまく進まず、それでもどうにか穴の出口まで頭を出すことが出来たのであるが、それから身体はにっちもさっちもいかなくなり、息が苦しくて青ざめ、油汗が滴り、やって来た人に向かって「助けてくれ」と叫んでも、誰もこちらを振り返ってくれない。わたしの姿が見えないのであろうか、理解が出来ない。僧侶はそれから何日かして、遂に死んでしまう。後には穴から頭を出したままの姿で石になってしまったということである。玄奘三蔵が天竺にお渡りになられた時の日記に、この話が記されております。仏教を教える「十牛図」というものがある。その第一は「尋牛」、牛を尋ねるである。第二は牛の足跡に気づき、第三で牛を見つけ、第四で牛を手に入れ、第五で牛を牧に放ち、第六で牛に乗って家に帰り、第七で牛を掴まえたことを忘れ、第八で牛を掴まえようとしたことも、その牛そのものも忘れ、第九で「返本還源」、何もなくなったまっさらなところからはじめてありのままの世が見え、第十で第九の悟りから世に戻って悟りを導く存在となる。これが「十牛図」の教えである。牛は、「一切衆生悉有仏性」の「仏性」を表しているという。物見遊山で天竺に行った僧侶が見た牛が「仏性」であるとするならば、僧侶は僧侶として求めるべき「仏性」から美しい花に目先が移り、その花を喰ったことで石にされてしまったのである。井伏鱒二の小説「山椒魚」は、岩屋の穴に入って二年過ごすうちに、成長した己(おの)れの身体がその穴の口につかえ、外に出ることが出来なくなってしまう話である。ある日岩屋の上の小さな窓から入り込んだ蛙を、山椒魚は閉じ込める。絶望と孤独にあった山椒魚は、そのような心が働いたのである。小説の後半は閉じ込めた者と閉じ込められた者が交わす話になり、結末の近くにこのような一文が置かれている。「更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互い黙り込んで、そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意してゐたのである。」井伏鱒二は生前に出した自選全集の「山椒魚」では、この一文を以て小説を終了させ、この先にあった結末までの文章を削除している。それまで親しんだ、削除された結末の文章はこうである。「ところが山椒魚よりも先に岩の窪みの相手は、不注意にも深い嘆息をもらしてしまつた。それは「あゝあゝ」という最も小さな風の音であつた。去年と同じくしきりに杉苔の花粉の散る光景が、彼の嘆息を教唆(きょうさ)したのである。山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかつた。彼は上の方を見上げ、且つ友情を瞳にこめてたづねた。「お前は、さつき大きな息をしたらう?」相手は自分を鞭撻て答へた。「それがどうした?」「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい。」「空腹で動けない。」「それでは、もう駄目なやうか?」相手は答へた。「もう駄目なやうだ。」よほど暫くしてから山椒魚はたづねた。「お前は今どういふことを考へてゐるやうなのだらうか?」相手は極めて遠慮がちに答へた。「今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ。」」晩年の井伏鱒二は、若い時に書いた「山椒魚」のこのやり取りを「甘い」と思ったのである。この「山椒魚」に比べ、「渡天の僧、穴に入る事」の僧侶はただただ非情である。「仏性」である牛は、僧侶を救うというようなことをしない。仏は同じ口から慈悲浄土と破戒地獄を教えるからである。七月下旬に入った京都は、二年振りに建った祇園会前祭の山鉾が解体され、後祭の山鉾が建った。が、町を曳き歩く巡行はない。宵山で聞こえて来る占出山(うらでやま)の「安産のお守りはこれより出ます。常は出ません、今晩限り。ご信心のおん方は、受けてお帰りなされませ。お蝋燭一丁、献じられましょう。」と唄う子どもらの声は、今年もない。

 「こわし屋が来て、建物がなくなった地面に、白い、つるつるした陶製の便器がむきだしになったまま長いあいだ投げだされていた。高木タマは、この便器に跨ったまま、いのちを落としたらしい。脳溢血であった。そのあたりにペンペン草が生えて、風に揺れ動いていたころ、どこからともなく、主人は町工場の経営者で、若い女とできたためにタマと別れたのだという噂が流れて来たりした。」(「接木の台」和田芳恵『昭和文学全集 14』小学館1988年)

 「福島県産品「安全です」 東京五輪契機に風評崩す」(令和3年7月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 信心のある親が幼な子を仏壇の前に座らせ、「まんまんちゃん、して」と云う。神社の鳥居を潜って、「まんまんちゃん、あん」と我が子を促す。道端でも手を合わせ、「あん、して」と拝むものを教えられる。幼な子が自分からそうし始めれば、「まんまんちゃん、あん」の出番はなくなる。その時を境に、「まんまんちゃ、あん」は親の口からも幼な子の耳からも消えてなくなる言葉である。『宇治拾遺物語』に「日蔵上人、吉野山にて鬼に逢ふ事」という話がある。「昔、吉野山の日蔵の君、吉野の奥に、行ひありき給ひけるに、長(たけ)七尺ばかりの鬼、身の色は紺青の色にて、髪は火のごとくに赤く、首細く、胸骨はことにさし出でて、いらめき、腹ふくれて、脛はほそくありけるが、この行ひ人にあひて、手をつかねて、泣くこと限りなし。「これは何事する鬼ぞ」と問へば、この鬼、涙にむせびながら申すやう、「われは、この四五百年を過ぎての昔人にて候ひしが、人のために恨みを残して、今はかかる鬼の身となりて候ふ。さて、その敵(かたき)をば、思ひのごとくに、取り殺してき。それが子・孫・曾孫・玄孫にいたるまで、残りなく殺し果てて、今は殺すべき者なくなりぬ。されば、なほかれらが生れ変りまかるのちまでも知りて、取り殺さんと思ひ候ふに、つぎつぎの生れ所、つゆも知らねば、取り殺すべきやうなし。瞋恚(しんい)の炎は、同じやうに燃ゆれども、敵の子孫は絶え果てたり。ただわれ一人、尽きせぬ瞋恚の炎に燃えこがれて、せん方なき苦をのみ受け侍り。かかる心をおこさざらましかば、極楽天上にも生れなまし。ことに恨みをとどめて、かかる身となりて、無量億劫の苦を受けんとすることの、せん方なく悲しく候ふ。人のために恨みを残すは、しかしながら、わが身のためにてこそありけれ。敵の子孫は尽き果てぬ。わが命はきはまりもなし。かねて、このやうを知らましかば、かかる恨みをば、残さざらまし」と言ひ続けて、涙を流して、泣くこと限りなし。そのあひだに、頭(かうべ)より、炎やうやう燃え出でけり。さて、山の奥ざまへ歩み入りけり。さて、日蔵の君、あはれと思ひて、それがために、さまざまの罪滅ぶべきことどもをし給ひけるとぞ。」その昔、幼い時から奈良の吉野山で幾つもの修行を積んで回っていらっしゃった日蔵上人が、ある日山奥で、身の丈が二メートル以上もある紺青(あお)鬼に出喰わしました。鬼は火のような真っ赤な髪で、首はひょろ長く、胸骨が飛び出るように硬く浮き出し、両の脛も細っているのに腹だけは膨らんでいて、この上人に逢った途端に、両手を擦り合わせながらわあわあと泣き出したのです。「鬼のくせに何でそのように涙を流して泣くのだ。」と上人が問い質すと、鬼は泣き止まずしゃくり上げながらこのように申したのです。「わたしは生まれた時は人の姿をしておりましたが、あることで人を恨んで四百年五百年その者を恨み続け、御覧の通りの鬼の姿になってしまいました。ことのはじまりはこうです。わたしはその相手を、恨みにまかせ、自分の手で殺してしまったのです。それからその者の子も孫も曾孫も玄孫までも血の繋がった者は全員殺し、ついに殺すべき者はいなくなりました。一旦はそう思いました。が、わたしの恨みはやつらの生まれ変わりの先のその果てまでも見つけ出し、一人残らず殺さなければ収まらなかったのです。そう思っていたのですが、その先の先の転生を突き止めることが出来なければそもそも殺すことなど出来るわけがありません。いまも消えないあの者に対する憎悪の炎で、わたしはこの世で生きていたあの者の子孫までをも絶え果てさせてしまったのです。そうしてわたし一人が生き残り、尽きない憎悪の炎を消すすべもなく燃え上がらせては、どうすることも出来ない苦しみだけを味わっております。あのような気持ちを起こさなかったなら、天の浄土に生まれ変わることも出来たでしょうに。人一倍恨みを溜めてこのような鬼の姿になり果て、気の遠くなるような苦しみを受け続けなければならないことが、どうしよもなく悲しくてなりません。人交わりがもとである者を恨み続ければ続けるほど、自分の身に跳ね返って来るということだったんです。恨んだ敵の子孫はわたしのせいで尽き果ててしまいましたが、わたしの苦しむだけの命は果てしないのです。はじめからこうなることを知っていたならば、あんなに恨み続けることはしなかったのに。」鬼はこう云って涙を流しながらいつまでも泣き続け、やがて頭から火が燃え出し、炎に包まれながら山の奥に帰って行った。日蔵上人は非常に心打たれ、鬼が負った罪を滅ぼす様々な祈禱を施されたということである。「かねて、このやうを知らましかば、かかる恨みをば、残さざらまし。」無知のせいでこのような苦しみを味わうことになってしまった、と鬼は思っている。これは誠実な改心の情ではない。が、永遠に続くであろうその鬼の苦しみを、日蔵上人は憐れんだ。それ故(ゆえ)に、日蔵上人は呪法を使って鬼の身体を燃やしたのである。ひとりの幼な子の前に、日蔵上人の絵と青鬼の絵がある。どこからか、「まんまんちゃん、あん、するんやで」という声が聞こえて来る。幼な子は夢中で手を合わせる。上人様に「まんまんちゃん、あん」、青鬼にも「まんまんちゃん、あん」。

 「ある日、おれは森へ行った。迷ってやろうと固く決意して行ったんだ。木々のあいだで道に迷ってしまったと感じる楽しみがある。おれは歩いていった。木の枝の音、鳥たちの歌だけを耳にする幸福に浸りながら。日が落ちると道に迷ったが、本当に、決定的に迷ってしまった。」(『不在者の祈り』タハール・ベン・ジェルーン 石川清子訳 国書刊行会1988年)

 「「突然奪われた日常」展示 富岡に震災アーカイブ施設開館」(令和3年7月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西ノ京御輿ヶ岡町の北野神社御旅所にテントが張られ、網で覆った内のテーブルの上に梅が整然と干されていた。これは一度塩漬けされた梅で、今月、七月の下旬に再び北野天満宮の本殿前で天日干しされ、年末に近づく頃御守りと一緒に授与品として巫女の前に並べられる。小遣銭の可愛さ梅干すにほひあり 中村草田男。この小遣銭を握っているのは、銭の意味を知ったばかりのような幼い子どもで、その姿を可愛いと思っているのは父親の草田男である。いま二人がいるのは家の庭先で、日向に干した梅が辺りに匂っている。これは草田男が目にした実景、日常の一コマであろう。この実景であるという以上に、小遣銭と干した梅の匂いとの間に意味は恐らくない。が、「梅干すにほひあり」に意味があるものとして、いまはまだその匂いは漂っているだけで、いずれ幼な子は世間の「酸(す)い」を知ることになる、とするのは下手な解釈である。が、子どもを甘やかす父親に梅を干す母親が目を光らせている、とでもすれば下手な解釈にも別の色がつく。梅干しを己(おの)れで漬ける者もいれば、そうしない者もいる。そうしない者の内でもかつてはそうしていた者もいれば、一度もそうしたことのない者もいる。そうしたことを一度もしたことがなくても、それを見たことがある者もいる。草田男の句の幼な子は、梅を干すのを傍らで見ていた者である。ある日、家にひとりで留守番役でいる。庭先に新聞を敷いた笊に梅が干してあった。留守番役は、外の空模様を絶えず気に掛けていなければならなかった。そこに緩い坂を上って子どもを連れた乞食と思しき男がやって来る。乞食は開いていた玄関先で迎え出た留守番役に、誰かいないですかと通る声で云った。留守番役は誰もいないと応えるしかなかった。乞食はじろりと家の奥に目を遣ってから、黙って後ろを向くと子どもの手を取って来た道を戻って行った。それから間もなく空が陰って嫌な風が吹き始め、大粒の雨がぽつぽつ降って来た。留守番役は急いで干してあった笊の梅を家の中に取り込んだ。その時乞食の父子のことを思ったのは自然な心の動きである。取り込んだ梅は廊下で匂い、仏間にも匂いが漂っていた。それから留守番役は考えた、乞食が来たことを親に云うべきかどうか。云われれば親は留守番役に、何かを応えなければならない。居たら米を遣ったのに、あるいは、何も施すことはない、と親の考えは食い違うかもしれない。黙っていればそもそもそのような食い違いが目の前で起こることはない。留守番役は親が帰って来ると、俄雨が降ったことだけを伝えたのである。

 「さらにくだると、オオカミたちがヒツジを追いかけたあたりに、地を這うようにはえるビャクシンの茂みがあり、私はゴツゴツとした木々のあいだをぬって枯枝を集める。手に入る薪はビャクシンだけだ。発育の止まったカンバもあるが、渓谷の深いところにはえていて、人は寄りつけない。リュックサックに入れてきた紐で薪を大きな束にして背中にかつぐと、私は山をくだり、川を渡り、シェイにつづく断崖をのぼる。僧院は活気づいており、さっきの道であった男も十一頭のヤクを探すためサルダンからやってきた連中の一人だったようだ。夏のあいだここで放牧されたヤクはこの場所になじんでしまい、ごく自然にここに戻ってくる。丘の静面の数頭、もっと草の多い川のなかの島におりたものもいる。」(『雪豹』ピーター・マシーセン 芹沢髙志訳 めるくまーる社1988年)

 「2地区(小出谷、小伝屋)一体の除染要望へ 葛尾と浪江の復興拠点外、家屋解体も」(令和3年6月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山建仁寺塔頭両足院の主な建物は、方丈とその北奥に並ぶ書院と二つの茶室である。白木屋の寄進によるという方丈の苔の生えた長方の前庭には二本の松と大振りの石が立ち、回った東には土盛りに幾つかの石が寄せられ、方丈の北東角にある簡素な門を抜ければ、書院に沿って地面に飛び石が並び、飛び石は池の縁にも沿っていて、池は翼を広げて飛ぶ鶴の姿をしているといい、その水の翼の端に架かる石橋を渡ればそのままやや高みに建つ茶室に続く石段で、門の潜りより内の歩みは露地を行く歩みである。庭には鶴のほかにもう一匹縁起のいい動物の見立てがある。石を寄せた土盛りが亀の胴体で、石橋から向こうの池の縁に突き出ている石が亀の頭である。いま、飛ぶ鶴を模(かたど)った池の縁の石組を覆うように半夏生(はんげしょう)草が花をつけている。半夏生とは、夏至から十一日を過ぎた日から七夕の頃までをいうといい、半夏生草はその頃に花をつける故の名であり、古い名の別名片白草は、亜麻色の小花の穂を上に伸ばし出すと穂の下の葉の一二枚が白色に変じるからである。半夏生草の、目立たない亜麻色の穂と葉の白以外に何色もなく単純であることは、物足りなくも目に清々しい。この白と緑の清々しさにケチをつけるような紫陽花などは両足院の庭には咲いていない。池の奥の築山一面と所々に植わっている丸い刈り込みは、花の終わった躑躅である。禅寺の庭にある計算高い技の凝らしはここにはなく、書院から眺める穏やかな風情は野原の水辺の景色に近い。半夏生草は茶事に用いる花であるという。両足院の庭の半身を露地にしたのは、茶道藪内流五代竹心紹智である。平凡な雨の一日半夏生 宇多喜代子。「平凡」は、半夏生草に対する云いでもある。半夏生叔母の離れはその奥に 星野椿。この「叔母」は、未婚のままかあるいは出戻りのひとり身で年をとった者かもしれぬ。半夏生灯(ひとも)す頃に足袋を穿き 鈴木真砂女。夕べに台所に立った時の思いであろう。蒸し暑い梅雨時の床の思いの外の冷たさは、半夏生の冷たさである。

 「地球は夜を魔法使いの帽子のように被っている。この魔法使いの帽子は長く細く、太陽を起点として遠くの空間を指す。その帽子の縁の直径は八〇〇〇マイルである。帽子の縁は地球の眉の上にぴったりフィットしている。それは地球から八六万マイル先の向点まで延びている。影のつくる魔法使いの帽子は、縁の直径より一〇〇倍もの高さを持っている。それは地球から月の軌道までの三倍の距離にまで達する。そして月が、その軌道運動において、たまたまこの闇の帽の中を通過するようなことがあれば、月蝕が起こる。」(『夜の魂』チェット・レイモ 山下知夫訳 工作舎1988年)

 「第2原発廃炉作業6月23日着手 東京電力、7月上旬から除染」(令和3年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)