鴨川を東に渡った広い五条通の一筋南の坂道は渋谷通(しぶたにどおり)と記され、清水寺の子安塔が建つ清閑寺山と豊臣秀吉の眠る阿弥陀ヶ峰の間を山科へ抜ければ渋谷街道となるのであるが、かつては渋谷越あるいは苦集滅道(路)(くずめじ)とも呼ばれていた。元禄二年(1689)に出た『京羽二重織留(きょうはぶたえおりどめ)』には、「苦集滅道、東山観勝寺(現安井金毘羅宮)の前に有り、祇園林の南より建仁寺の竹林の東を経て六波羅の東に出る道なり。いにしへ教待和尚三井寺より木履(ぼくり)をはきて山崎の別業(別荘)に通ひ給ふとき此の所にてぼくりの歯をと苦集滅道のひゞきあり此の故(ゆへ)に此の細道をくずめじと云ふ。今あやまりてくちなわの辻子と云ふ。」とある。が、寛文五年(1665)に出た『扶桑京華志(ふそうけいかし)』には、「苦集滅道、清水寺の南清閑寺山麓に在り、相伝(そうでん、云い伝えによれば)三井の教待、城南山崎別業に住むを欲し、此の地を歴(すぐ)るに及びて、其(そ)の木履の響き苦集滅道の音を作る、因(より)て、名を焉厥((えんけつ)この)の後関左貶謫(かんさへんたく、東国に左遷)の人此の道を経るに及びて必ず四諦(したい、四つの真理)の法を観ず、故呼((ここ)ゆえに名づけて)句句免智(くくめち)と謂(い)ひ、今の滑谷(しるたに)なり。」とある。『京羽二重織留』も『扶桑京華志』も「苦集滅道」の元(もとい)を山崎の別荘に行く三井寺の教待和尚の木履の音としているのであるが、『京羽二重織留』の示すところは、大津の三井寺から京の南に下る山崎に行くのであれば、教待がいたとされる貞観(859~)以前にはまだ建仁寺も観勝寺も六波羅蜜寺もなく、そこに道があったとしても迂回のような遠回りであるので、「苦集滅道」と名づけられたはじめの道は『扶桑京華志』のいう、東の方角から山を越えて京に入る二つの筋の内の一方である渋谷越の方である。『京羽二重織留』のいう安井金毘羅宮脇の道は、恐らくは渋谷越についたあだ名である「苦集滅道」の借用である。『扶桑京華志』にあるように都落ちの者がこれを噛みしめたというのであれば、祇園が傍らにある建仁寺の修行僧もこれを噛みしめさせられたのかもしれぬ。「苦集滅道」とは「四諦(したい)」のことである、と仏教辞典は記している。「諦(たい)とは真理の意で、苦諦・集諦(じつたい)・滅諦・道諦(どうたい)という4種の真理のこと」(『岩波仏教辞典』1989年刊)とされ、「初期仏教の中心的教義の一つとされる。<苦諦>とは、迷いの生存は苦であるという真理であり、その代表として、生老病死などのいわゆる四苦八苦が挙げられる。<集諦>とは、苦の生起する原因についての真理であり、その原因は、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求める渇愛にあるとされる。<滅諦>とは、苦の止滅についての真理であり、それは、渇愛が完全に捨て去られた状態をいう。<道諦>とは、苦の止滅に到る道筋についての真理であり、正見・正思惟などのいわゆる八正道として示される。」(『岩波仏教辞典』)木履を履いての山坂の歩きにくさを教待という僧は、恐らくは半ば「おどけ調子」でその木履の立てる音に合わせ、仏に仕える者であれば誰でもが知る「苦集滅道」と口に出して云った。『古今著聞集』にその教待が出て来る。「巻第二、四十、智証大師(円珍)の帰朝を新羅明神擁護の事並びに園城寺三井寺)創建の事。智証大師の御起文に云はく、予(よ、われ)、山王(日吉山王権現)の御語に依りて、大唐国に渡り、仏法を受持し、本朝に還る。海中の予が船に老翁現じて偁(い)はく、我は新羅の国の明神なり。和尚の仏法を受持し、慈尊の出世に至るまで護持せんが為に、来向する者なり(和尚が身につけた仏法を弥勒菩薩の出世の時まで守るためにやって来た者である)。予、着岸して公家に申す。即ち官使を遣(つか)わして、所持の仏像・法門(経本)を太政官に運び納む。時に海中の老翁また来たりて云はく、此の日本国に一の勝地(すぐれた場所)在り。我れ先に彼の地に到りて、早く以て(前もって)点定せん(調べておきましょう)。公家に申して一伽藍を建立し、(仏像等を)安置して仏法を興隆せよ。我れ護法神と為りて、鎭(とこしなへ、永久に)加持せん。所謂(いはゆる)仏法は是(こ)れ王法を護持するものなり。もし仏法滅せば王法まさに滅す。予、出でて本山(延暦寺)千光院に登り、千光院より山王院に到り、山王の語(御託宣)を受く。早く法門を此の所に運(うつ)す宣すれば、明神偁(い)はく、此の地末代に必ず喧事(かまびすきこと、面倒な事)有らん。其(そ)れいかんとなれば(どうしてかと云うと)、谷北を受けて下に長し。其の内此の山盛りなるべき事今二百歳なる(二百年かかる)。我れ勝地を見るに(調べるのに)、末世の衆生依る所為るべし。仏法を興隆し、王法を護持して、彼の地に到りて、相定すべし。明神・山王・別当・西塔(の院主)予、近江の国滋賀の郡園城寺に到り、住僧等に案内す(案内を乞う)。爰(ここ)に僧等の申すに、案内を知らざれば、一人の老比丘(びく、戒律の教えを受けた修行僧)名を教待と謂(い)ひ、出で来て云はく、教(教待)が年百六十二なり。此の寺建立の後、百八十余年を経たり。建立せる壇越(仏のために金品等を施す信者)の子孫有り。去りて即ち教待、彼の氏人を呼ぶ。姓名は大友の都堵牟麿(つとまろ)といふ。出で来たりて云ふ。都堵牟麿生年百四十七なり。此の寺は先祖大友與多(よた)の天武天皇のおんために建立するところなり。此の地の先祖大友太政大臣弘文天皇)の家地なり。其の四至(所領の四方の境界)を堺し、宛て給はる。(大略)教待大徳年来(数年来)云ふ様、此の寺を領すべき人渡唐せん。遅く還り来る由(理由を)常に語る。而(しか)るに今日已に(すでに、とうとう)相ひ待つ人来たり。出会すべし。されば今此の寺を以って付属(お任せする)し奉(たてまつ)る。此の寺の領地四至の内、専(もっぱ)ら他人の領地無し。而(しか)るに時代漸(ようや)く移り、人心諂曲(てんごく、こびへつらう)、国判(国の証明印)を請(こ)ひ、私有地と称す。然而(しか)るに氏人(大友氏)弁定するに力無し。早く国に触れ糺(ただ)し返さるべし、よって、付属(任せた)の後、山王還り給ふ。(略)野に垂挙の人百千の眷属(けんぞく、大友一族)を引率して来たり向ふ。飲食を以って明神を饗(饗応)し奉る処、老比丘教待、彼の明神の在所に到りて、たがひに以て喜悦す。即ち(たちまち)比丘挙人の形(姿)隠れて見えず。時に明神に問ふて偁(い)はく、此の比丘挙人忽(たちま)ち見えず、是(こ)れ何人なり。明神これに答ふ、老比丘は是れ弥勒如来弥勒菩薩)、仏法を護持せんがために、来るなり。よって予、寺に還り到りて、教待の有様を都堵弁麿に問ふて、専ら此の老比丘の案内(についての知識)を知らず。年来(何十年も)此の比丘魚にあらざれば、飲食せず。酒にあらざれば、湯飲せず。常に寺領の海辺の江に到りて、魚亀を取りて斎食の菜となす。而(しこう)して、和尚に謁(えつ)して忽ちに隠る。悲しき哉(かな)、々々。音を惜まずして哀泣す。今大衆共に住房を見るに、年来干し置ける魚類、皆是れ蓮華の茎根葉なり(干していた魚が忽ち蓮華に変わった)。是に例ならざる(たぐいまれな)人の由を知る。今教待已(つい)に隠る。我が院早く(すぐ)興隆せらるべき、よってここに問ふに、此の寺の名を御井寺と謂(い)ふ、其の情(事情)云(いかんと)。氏人、答へて云はく、天智・天武・持統、此の三代の天皇各生て給ふ時、最初の時の御湯料の水は、この地の内井を汲みて、浴し奉るの由、俗の詞に語り来る。件(くだん)の井水三皇御用を経るに依りて、御井と号す。よって予、此の縁起を問ひ、漸くに地形を見るに、宛(あたか)も、大唐の青龍寺の如し。付属(任)を受け奉り畢(おは)りぬ。別当・西塔共に本山に還る。別当共に内裏に参り奏して由を申す。勅して急に(すみやかに)唐坊を造り、仏像・法門を此の寺に運び移す。予、御井寺を改めて、三井寺と成す。其の由いかんとなれば、件の井水三皇用ひ給ふ上、此の寺伝法灌頂(秘法伝授者に香水を注ぐ儀式)の庭となりて、井花水(夜明け前の勤行の後に使う井戸水)を汲むべき事、弥勒三会の暁を継がしむ(弥勒菩薩が成仏の暁に華林園の竜華樹の下で法会を三度開いて一切の衆生を救ったこと)。故に三井寺と成す云々。」智証大師円珍日吉山王権現の託宣を受け、唐国に渡って仏法を受持し、その帰国の途中海上新羅明神が現れ、円珍の仏法の擁護を約束し、その興隆の場所を選ぶに当たり再び現れ、比叡山ではなく大津にある天智・天武・持統天皇ゆかりの大友氏が護って来た御井寺を勧める。この寺で、その来し方を誰も知らない魚と酒だけを口にしていた百六十二歳の教待が待っていた。教待は円珍に「待ち人来たり。」と云って喜ぶが、すぐにその姿が見えなくなる。新羅明神が教待は弥勒菩薩の化身であると円珍に教える。円珍は消えてしまった教待を思い、泣いて哀しんだ。それから御井寺を三井寺に改めた。貞観三年(859)のことである。教待は円珍を見、「待ち人来たり。」と云って喜んだ。百六十二の歳まで円珍という人物が来るのを教待は待っていたのである。この「待ち人」を待つ長い日日に教待が渋谷越の坂で鳴らした木履の音が「苦集滅道」である。山間に続く渋谷越は京都女子大の裏を抜け、町中(まちなか)にある坂の様子ではなく、どこか温泉場にありそうな趣(おもむき)に近い。山を越え東の向こうからやって来た者の眼下に広がったのが京の町である。渋谷越を上り振り返って見える町が京都である。

 「神の物語に、耳を傾ける宣長の態度のうちには、眞淵のやうに、物語の「こゝろ」とか「しらべ」とかいふ言葉を喚起して、物語を解く切つ掛けを作るといふやうな考へは、入り込む餘地はなかつた、と言つていゝ。あちら側にある物語を、こちら側から解くといふ考へが、そもそも、彼を見舞つた事はなかつた。恐らく、彼にとつて、物語に耳を傾けるとは、この不思議な話に説得されて行く事を期待して、緊張するといふ事だつたに違ひない。無私と沈黙との領した註釋の仕事のうちで、傳説といふ見知らぬ生き物と出會ひ、何時の間にか、相手と親しく言葉を交はすやうな間柄になつてゐた、それだけの事だつたのである。」(『本居宣長小林秀雄 新潮社1977年)

 「東京電力「環境への影響極めて軽微」 処理水放出評価結果公表」(令和3年11月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「上がれますよ。」と、白髪頭で普段着に突っ掛けを履いている年の入った女が云った。女はリュックサックを背負ったマスク姿の中年の女と立ち話をしていた。いまどの辺りにいるのか見当はついているものの、通った覚えのない道に入って角を曲がると、向こうに朱塗りの鳥居が現れ、その奥に樹の枝の陰に伸びる石段が見えた。急に広くなる鳥居までの道は真っ直ぐで、両側に住宅が建て込んでいても参道の面影を残していることが分かる。二人の女は鳥居の傍らにいた。鳥居の下まで行って見上げても名を掲げた額はなく、左右に御寶前と刻んだ立派な石灯籠が立ってはいるが、案内をするものは何もなく、目につくのは不法投棄監視中と書いた看板だけである。いまその下には空き缶一つと潰れた弁当殻が散らかっている。石段の左右は石垣で固められその上に民家らしきものが建ち、上の方でやや傾く石段の先は樹で覆われていて見通すことは出来ない。「上がれますよ。」思わぬ言葉であったが、女は云い慣れたもの云いだった。山と名のつくこんもりと地面が盛り上がっているここがどこであるかは分かっているが、目の前の石段の道筋を知らないという顔に「上がれますよ。」と云ったのである。行き当たりばったりの途中で次の行く先を指さすうってつけの言葉である。乗って来た自転車を道の端に止めようとすると、「上に置いた方が安全ですよ。」とまた白髪の女が声を掛けて来る。道路ではなく鳥居の立つ石を敷いた一段上の敷地の内に上げるように云っているのである。緩く上っている石段は一つの段の幅が広く、足のつきように気を取られ、淡々と上がるという具合にはいかない。左手のさほど古めかしくはない一軒家の庭先で紫色の花が咲いている。この家の者の普段の出入りは恐らくこの石段だけである。右手にはびっしり住宅が建ち並んでいる。玄関前の道は人ひとりが通るほどの幅しかない。下から「上がれますよ。」と白髪の女の声が響いて来る。鳥居の下で帽子を被った若い女が石段を見上げている。立ち話をしていたリュックサックの女の姿はない。左の紫色の花が咲いていた一軒家から先は樹が生えているばかりで、右の廃品の山を回りに並べた廃屋のような一軒家の建つ辺りから両端にぽつぽつ生えはじめ、見上げる先の段はかなりの草で覆われている。花弁の斑が杜鵑(ほととぎす)の胸に似ているという開いた花からもう一つの花を載せたような薄紫色をしたホトトギスと、赤い粟粒のような花を細い茎につけているミズヒキが目に止まる。若い女が上がって来る気配はない。であれば白髪の女の云いには従わなかったということである。日の当たるブロック塀の前で芙蓉がまだ花をつけている。二メートル近い同じ茎の下の方では種になって萼(がく)が黄土色に干乾び始めていて、一度に子孫を失わないためのしたたかな身の振りなのであろうが、一本の芙蓉は己(おの)れの上で咲く花が下の老いて種になるのを見るのである。石段の左の枝陰に何かが動く気配があり顔を向けると、はじめは黒と白の二つの色がゆっくり動いていて、空いた隙に出たところで羽織と打掛と綿帽子の結婚式の裝いであると分かる。この二人のほかに人の動く姿はなく、話し声もしない。花嫁と花婿がこのように二人だけでいるのは式が始まるまで間があるのか、あるいは終わった後の時間をこうしているのか。石段を上がりながら同じように動いている二人の姿は枝の間から見えていたのであるが、枝の込んだ所を抜けると姿が見えなくなった。向きを変えて見えなくなったのであればこの神楽岡の地形の具合による出来事である。が、石段を上りきって見渡してみてもどこにも二人の姿は見当たらない。二人が歩いていたのは道のように平らなところで、奥に鳥居が立っている。道は三本ある。ここから上る山道と恐らく本殿に下る道と住宅地に出る道である。が、そのどれにも人影はない。目の前にあるのはその内には出入り出来ない吉田神社の斎場所大元宮である。二人は見渡しただけでは見ることの出来ない陰に入ったのか、そうでなければこの山に住む狐につままれたかだ。築地に囲まれた大元宮は八角の後ろに六角を継ぎ足した傾斜の深い茅を葺いた入母屋の奇妙な建物である。黒川道祐の『雍州府志』(貞享三年(1689)刊)にはこうある。「斎場所 吉田山に在り。始め神祇舘に在り。楼門の額に、日本最上日高日の宮の字有り。嵯峨の天皇の宸翰(しんかん)なり。太元宮元本八神殿の額は、後土御門(ごつちみかど)の院の宸翰なり。又、日本最上南太神宮の額、并(なら)びに、日本最上神祇斎場の額、及び、日本国中三千余座天神地祇八百万神の額は、共に清水谷家の筆なり。此の山に、清水谷有り。堂上、清水谷の称号は此の処に住する自(よ)り起これるものか。外宮、源の宮は宇気皇太神、幷びに、内宮、宗の宮は、天照皇大神也。外宮宗・内宮源の額は、妙善院従一位富子の筆なり。富子は、日野贈左府勝光公の兄、右小弁政光の女(むすめ)にして、贈太政大臣義政公の室、常徳院の内府義尚公の母なり。鎮魂八神殿、亦、神祇舘に在り。神祇舘は、古(いにし)え平安城宮内省に在り。則ち、今の二条所司の庁の西なり。茲(こ)れ自り、東山如意が嶽に移る。後土御門の院、文明十六年、吉田神楽岡に移る。八神は所謂、高皇産霊(たかみむすひ)の尊(みこと)、神皇産霊(かみむすひ)の尊、魂留産霊(たまるむすひ)の尊、生産霊(いくむすひ)の尊、足産霊(たるむすひ)の尊、大宮売(ひめ)・御膳津(みけつ)の神・事代主(ことしろぬし)、是れなり。此の八柱は、則ち、八州守護験神・八斎霊の命・八心府の神なり。故に、以って皇帝鎮魂の神とす。吉田卜部(うらべ)家、万事を主裁す。凡そ、二十二社の外、日本国に在る所の大社・小社の神職、皆、此の家自り令を下す。并びに官位等、之れを執奏す。中臣・卜部、元、同氏にして、天(あま)の児屋根(こやね)の命(みこと)の苗裔なり。天の児屋根の尊、天照太神の勅を奉じて皇孫を輔佐し豊葦原を治めたまう。是に於いて、三種の霊宝を以って皇孫に伝う。是れを王道の元とす。又、神籬(かみがき)正印を以って天の児屋根の命に伝う。故に、是れを神道の祖と為す。天の児屋根の命十二世の孫、雷大臣(いかずちおおおみ)の命、仲哀天皇の時、卜部の姓を賜う。十八世の孫、常盤の大連(おおむらじ)、卜部の姓を改めて中臣の姓と為す。二十一世、大織冠に至りて、中臣を改めて藤原氏とす。大織冠、朝家の為に、将に入鹿(蘇我入鹿)を誅せんとす。時に、事の難有らんことを思い、神道を以って其の従弟、右大臣清丸に伝う。清丸は意美丸の子、是れを大中臣と為す。清丸四世、平丸と曰う。又、姓を卜部に改む。之れに依って、吉田家、神道の長たり。」「吉田家、神道の長たり」というのが江戸の当時の吉田神道に対する認識である。これは室町の末に吉田兼倶(かねとも)が目指したことであった。藤原山蔭春日大社の四座を藤原氏氏神に勧請したことにはじまるのが吉田神社の元(もとい)で、神職に就いた卜部氏が後に吉田家となり、吉田兼倶は古来の教説に儒教真言密教道教老荘思想、陰陽五行説をごった煮の如くに取り混ぜ、虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)なるものを創案し、吉田神道こそが唯一であるとして、権謀術数の果てに宮中の神祇官に祀られていた八神殿までをも斎場所に移させ、日本中の神官を己(おの)れの息のかかったものとしたのである。が、明治政府は神道の長たる吉田神道を退け、伊勢神宮国家神道とするのである。『徒然草』を書き残した吉田兼好は、この吉田家に連なる者とされて来たが、まったくの出鱈目という言説もある。『徒然草』にこのような一文がある。「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。」世間というものは本当のことが面白くないから話をでっち上げたりするのだ。「第七十三段 世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止(とど)めぬれば、やがて定まりぬ。、道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず、音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。かつあらはるゝをも顧(かへり)みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞こゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐ろしき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。とにもかくにも、虚言多き世なり。だゞ、常にある、珍らしからぬ事のまゝに心得たらん、万違(よろづたが)ふべからず。下(しも)ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。」世間に云いふらされている話の本当のことは面白くないからなのか、大体はでっち上げられた話である。大抵の人は本当のことよりも大袈裟に云ってしまっているのに、何年も経ってその場所からも遠ざかってしまえば、云いたいように話を作って、ご丁寧に筆をとって書き止められたりでもしたら、それが正しいことになってしまう。たとえばその道に秀でている者の凄さを何も知らない馬鹿者は、何も考えずに褒めそやしたりするが、達人はそんなことをちっとも有り難く思ったりはしない。話を聞くことと実際に見ることは、全然違うのだ。話す端から嘘がバレているのもかまわず口から出まかせを云っても、人の耳には嘘にしか聞こえない。たとえば、自分でも云っていることに自信がないまま、人から聞いた通りのことを何となく鼻の辺りをひきつらせながらしゃべったりしてしまうのは、その者がつこうとして嘘をついているのではない。適当に誤魔化し、いかにももっともらしく、それでいて詳しくは知らないなどと云いながらさも辻褄が合うようにしゃべったりするのは、聞いていてゾッとする。自分のことを褒めそやすような嘘に、人は目くじらをたてて止めたりはしない。たとえば皆がウケているような嘘に「そうじゃない。」と水を差すのもどうかと思って黙って聞いていただけで、自分も云ったように思われ、果てはいつの間にかそれが本当のことになってしまったりするのだ。何だかんだ云っても、世間には嘘つきが多い。だから大抵は嘘っぱちだと思って聞いていれば間違いない。耳を疑うような話をするのは決まって下らないヤツらで、まともな人はいいかげんな話などしないのである。こんな風に云っても、仏や神が絡んだ奇蹟やたとえば空海の伝記まで全部が全部嘘っぱちであるとするのも考えものである。これらのものは、世の中に出回っている嘘と同じように本気で信じるのも馬鹿げているし、「そんなはずはない。」と云っても何となく虚しさが残るので、大抵はそういうこともひょっとしてあるかもしれないと思いながら、かと云って真に受けず、決してはじめから疑って小馬鹿にするような真似だけはしてはならない。はてさてあの派手な衣装を身につけた二人はどこへ行ってしまったのか。それとも本当にまんまと狐につままれてしまったのか。耳を疑うような話をするのは「下ざまな人」であると兼好法師は云うが、神域での奇蹟は「まことしくあひしらひて、ひとへに信ぜず」であるか。

 「流れに渇きはいやしたものの、荒天二日上陸して三日、物を食べていない。欲も得もなく、枯草の中に倒れこみ、思えばなんたる身の不運、亡骸を楯にとって、恐ろしげな奴等をかわしはしたが、先き行き何の望みがあろう。あたら花の盛りを、六道絵は餓鬼草紙の如き浅間しき輩にまぎれ死ぬのか。しきりに只今の立場を自らに納得させよう、あっさり諦め舌でも噛んでひと思いにと願うが、主の心知らぬげにグウグウと鳴る腹の虫、せめて今生の思い出に、胃の腑ひゃくひろ張り裂けるほど食べてみたいと、年相応の欲が湧き、だが満目蕭条、季節にふさわしい木の実も、秋の稔りのかけらも見えぬ。」(「柩家代々」野坂昭如『乱離骨灰鬼胎草』福武書店1984年)

 「核のごみ反対の声にどう向き合う? 福島県高校生ら寿都(すっつ)町長に質問」(令和3年11月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 いちめんの黄色は背髙泡立草 今井杏太郎。御室仁和寺の門前はいま、このような様子である。あるいは、忘れゐし空地黄となす泡立草 山口波津女。三千九百平方メートルの空地に出来るはずだったガソリンスタンドとコンビニエンスストアは幻に終わり、三階建てのホテル計画は滞っているという。土地の所有者が蒔いたのではない。泡立草の種はもともと土の中にあったものか、勝手にやって来たものである。その勝手には手ごころを加えるような容赦がない。後々計画通りに事が進めばコンクリートの下敷きになるのであろうが、そんなことは知ったことではないというのが背髙泡立草の云い分である。仁和寺から西へ七、八キロの、愛宕山大鷲峰の山腹に月輪寺がある。源頼朝との関係がおかしくなって失脚し、法然のもとで出家した摂政関白に昇りつめた九条兼実(くじょうかねざね)が晩年を過ごした寺である。承元の法難(承元元(1207)年)と呼ばれる、後鳥羽上皇に弟子の安楽と住蓮が難癖をつけられ、その教えである念仏もろとも法然親鸞流罪が言い渡された時、二人は月輪寺を訪ね、兼実は離別を惜しんだ。後に東国から京に戻った親鸞は、流罪が解けてほどなく死んだ法然を偲び、月輪寺を訪れる。その道中で村人から塩で炊いた大根を振る舞われた。親鸞はその礼に辺りに生えていた薄を折ってその穂を束ね、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」と書いて渡した。これは「南無阿弥陀仏」と同じ名号、唱えの言葉である。「南無阿弥陀仏」が、阿弥陀仏様に帰依します、であれば、「帰命尽十方無碍光如来」は、慈悲の光で世界を影なく照らしてお救い下さる如来様に身心を捧げ帰依いたします、と唱えるのである。が、唱えるのには「南無阿弥陀仏」よりもいかにも厳(いか)めしい。が、この厳めしい字面(じずら)をたとえば目の前で揺れる一面の背髙泡立草に重ねてみる。「帰命尽十方無碍光」遮るものが何一つなく辺り一面輝くような黄色い花は、己(おの)れの命(めい)に帰すこと、従うことに尽くしている。但し、この景色に如来の二字の出る余地はない。親鸞が振る舞われた大根は、鳴滝の了徳寺に大根焚きとして残っている。三千本の大根を外に据えた竈で焚く師走の行事である。世の末の花か背髙泡立草 矢野 絢。

 「昨夜はかなり雨が降ったが、今日は空が明るくなってきた。感染ゼロの団地では、徐々に内部開放が進んでいる。今日は窓の外で、子供の笑い声が聞こえた。まったく久しぶりのことだ。団地の外に出ることも許された。ただ、時間制限は守らなければならない。」(「三月二二日 野火は焼けども尽きず、春風吹けばまた生ず」方方(ファンファン) 飯塚容・渡辺新一訳『武漢日記』河出書房新社2020年)

 「元生徒ら「懐かしい」…大熊中、10年ぶり開放 解体控え私物返却」(令和3年10月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北嵯峨広沢池(ひろさわのいけ)の北の縁の底の尖った茶碗を伏せたような朝原山は、その麓にかつて遍照寺があったため遍照寺山とも呼ばれているが、池の西の稲刈りが終わって曼殊沙華が萎(しお)れている田圃道で十月二日の晴れた真昼に耳にした、町中(まちなか)ではとうに聞こえなくなったミンミンゼミの鳴き声は、この朝原山の山の中からしている声で、時期の外れた蟬の声と云えばそれまでであるが、些(いささ)不思議な気分にもさせられたのである。ひと月以上耳にしなくなっていたその鳴き声は妙な懐かしさで耳に響き、それはたとえば目に見えている景色は何も変わらぬまま何かの力でひと月前に引き戻されてしまったようでもあり、十一カ月経ったいまと同じ場所に来てしまっていてもその間の記憶がまったくないといったような不思議な気分である。あるいは、と別の思いが頭に浮かぶ。いま聞こえている声はひと月前に鳴いた蟬の声で、その声がこの世のどこかを巡り巡って聞こえているのではないか。遍照寺山に辿りつくまでひと月の時間が経った声であると。もしそうであれば成虫になってからの蟬の寿命を考えれば、すでにその寿命は尽きていて、いま聞こえているのはひと月前に死んだ蟬の声であるかもしれぬと。池の畔(ほとり)にある児社(ちごのやしろ)の裏のコスモスが咲く田圃を潰した空地で、親に連れられ集った子どもらがサッカーの球を蹴っている。児社にはひとりの侍児が祀られている。遍照寺を開いた第五十九代宇多天皇の孫の寛朝僧正が長徳四年(998)に亡くなると、「小児寛朝ノ登天ヲ歎キ、釣殿橋ヨリ、此ノ池(広沢池)ニ投シテ死ストナン━━」(「嵯峨行程」黒川道祐)と、寛朝僧正の死を悲しんだ侍児が後追いの入水をしたという。名の伝わらぬこの侍児が水に没した時の音は、耳を澄まさねば聞こえぬほであったかもしれぬが、それから一千年の後のいまもその音は、この池を満たす水のさざ波に混じり聞こえるはずである。

 「下らない、下らない。こういうふうにしてぼくは自分の前に幽霊を迷い出させるのだ。ぼくは、たとえ表面的にではあれ、ただ<そのあと…なければならぬ>とか、とりわけ<振りかけ…>の個所にのみかかずらっていた。風景描写のなかに、ぼくは一瞬、何か本物を見たような気がした。」(「<日記>一九一二年・三月十日」フランツ・カフカ 谷口茂訳『カフカ全集7』新潮社1981年)

 「広島と長崎の知見、知る人ほど少なく、原発事故の遺伝的影響不安」(令和3年10月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 JR嵯峨野線丹波口駅は、平成三十一年(2019)に梅小路京都西駅が間に出来るまで京都駅から一つ目の駅で、改札を通って北の口から出れば目の前が広い五条通で、駅の高架線路を挟んだ西と東の両側は青果水産物を扱う京都市中央卸売市場である。丹波口駅には広場も駅前商店街もない。駅の名の丹波口は、ここから都の西の丹波に通じる丹波街道の関所があったからである。駅の東側にある青果1号棟の南側一帯に遊里島原があった。その名残りを留めているのが置屋として今も営業をしている輪違屋(わちがいや)と揚屋だった角屋(すみや)の細い格子が目に残る古色蒼然の二階建の木造の建物である。取り沙汰される歴史の記憶では、桂小五郎伊藤博文輪違屋の桜木太夫に入れ揚げ、新選組芹澤鴨は角屋で派手な宴会を開いた日の夜に、戻った壬生(みぶ)の屯所(とんじょ)で土方歳三などの身内に殺されている。この二つの建物のためにそうしたような石畳風の舗装を施した通りには、目立たぬ様子でホテル旅館や飲食の店がぽつぽつとあっても、昭和三十三年(1958)の売春防止法の施行まではそうであった色街から差し代わるように慌ただしく建て替わった住宅で埋まっていれば、この石畳風の舗装は昼の明かりの下(もと)では一帯を落ち着きなく白々とさせるばかりに見える。寛永十八年(1641)、それまで六条新町上ル辺りにあって六条三筋と呼ばれた幕府公認の唯一の遊里が、洛西朱雀野の畑地に移転をさせられ島原と呼び名が変わるが、市中から遠くなり、新たな遊里があちこちに出来出すと客足は遠のき、昼に開け夜になると門を閉ざして大尽客だけを相手にしていた商売を、享保十年(1725)にひと月の半分の夜を職人や手代などの客に開放するようになり、以後島原の敷居は低くなる。新選組が京の治安維持部隊として姿を現すまでそう遠くない、徳川の終わりが近づいていたその日の深夜、ひとりの遊女が囲われていた置屋から秘かに抜け出し、出入り口の大門脇に祀ってある石の地蔵を風呂敷に包んで背負い、思わずも走り出した。この先一里半の道をのんびり歩く余裕はない。もしことがばれて見つかって連れ戻されたりしたら、どんな恐ろしいことが待っているか分からない。遊女は店を抜け出して連れ戻された者が受けた仕打ちを知っているのである。それにしてもなぜ逃げる自信があると云っていたのに、あの者は見つかってしまったのか。噂によると、大門脇の地蔵に女将さんが願掛けをしたのだという。あの地蔵は足止地蔵と云って、たとえ逃げ出す者がいても、願を掛ければ必ず三日の内に見つかって連れ戻されるというのである。まことに恐ろしい地蔵である。それを聞いて遊女は考えた、「私はしくじるわけにはゆかない。そうだ、地蔵と一緒に逃げてやる。」と。遊女の向かう先は西陣である。その町のどこかに、云い交わした年の若い機織職人がいるのである。が、店を抜け出すことを遊女はその男に明かしていない。驚かせてやろうと思ったのである。どれほど走ったのだろう、遊女は後ろを振り返る。誰かが追って来る様子はない。遊女は足を緩め、もう大丈夫だと思う。が、いま自分がどの辺りにいるのか、門の外に出たことのない遊女には分からない。足を緩めてから、背負っている地蔵が急に重くなったような気がして来た。あの人は、こんなことを仕出かした自分のことをどう思うだろうと遊女は思い、不安になる。が、最早後戻りは出来ないのである。地蔵がますます重くなる。足が縺(もつ)れる。辺りが白みはじめたというのに、目の前が霞んで来た。遊女は己(おの)れの意識が遠のくのを感じながらうつ伏せに倒れた。このようにして遊女に負ぶわれ島原からやって来た地蔵が、西陣妙蓮寺前の灰屋図子(はいやのずし)に祀られている。寺之内通からクランクのように折れ曲がり、猪熊通に抜ける灰屋図子は、どちらかが体の向きを変えなければすれ違うことの出来ない径で、時間を溜め込んだような古びた平屋の長屋が両側に並び、その丁度半ほどに足抜地蔵と書いた提灯を下げた小堂があり、格子戸の中に目鼻の削げた四体の地蔵に囲まれるように座った姿の足抜地蔵が納まっている。地蔵を負ぶったまま気を失った遊女は、目出度く機織職人と夫婦になった。島原の足止地蔵は、ひとりの遊女によって西陣の足抜地蔵に名が改まったのである。松原通烏丸東入上ルの因幡薬師に祀る薬師如来には、次のような経緯(いきさつ)がある。「(第六十二代)村上の天皇御宇、天暦五年(951)三月、橘行平夢想によりて、因幡国加留の津にして、金色の浪の中より、等身の薬師の像をとりあげたてまつる。行平在京の時、長保五年(1003)四月、虚空をとびて王城に来給へり。」(『一遍上人絵伝』巻四・因幡堂)従四位上中納言橘行平が因幡国一宮での神事の任務を終えて京へ帰るばかりの時に急な病の床に臥し、夢に現れた僧から海中に沈んでいる浮き木を引き揚げれば病が治ると告げられ、加留津の海を探ればその通りに薬師如来が見つかって堂に祀ると忽(たちま)ちに行平の病は治った。京に戻って暫くするとまた行平の夢の中に僧が現れ、宿縁により西より来たり、と云う。行平が目を覚ました丁度その時屋敷に来客があり、門の外に薬師如来が立っていた。行平は己(おの)れの屋敷に改めて堂を建て、台座に薬師如来を載せ祀ったのである。町堂因幡薬師はがん封じに効くという。話に軍配をあげれば遊女の方である。遊女は夢を見ることなしに、一途な思いだけで己(おの)れの現実を変えたのであるから。

 「窓が穿(うが)たれた建物と建物のあいだから、ひろがった山なみが見えた。それももう動かなかった。考えてみると、自分が山でないこともおかしかった。ゆっくり通りすぎる雲の下で、崖や茂みに覆われたざらついた大きな背をのばし、街を取り巻くこともできたろう。家だって、よく考えれば、一つの生きかたでありえたろう。」(『大洪水』J・M・G・ル・クレジオ 望月芳郎訳 河出書房新社1977年)

 「双葉、戻った稲刈りの風景 原発事故後初、25年営農再開目指す」(令和3年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 その奥に下鴨神社が控えている糺(ただす)の森の一角にある河合神社の塀の内に、復元した鴨長明の方丈の庵がある。広さが約四畳半一間の小屋である。鴨長明下鴨神社禰宜惣官(ねぎそうかん)だった鴨長継の次男で、七歳で従五位下の身分になったのであるが、父の死の後の禰宜職を継ぐことが出来ず、歌会歌人・琵琶弾きとなり、後鳥羽上皇の推挙があっても欠員の出た河合神社の禰宜にも就くことが出来ず、新たに設けて貰った格下の「うら社」の禰宜職を断り、世捨人になる。承元二年(1208)、それまで過ごした大原から都の東南約七キロの日野の外山に建てたのが方丈の庵である。「すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心をなやませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で、世を背(そむ)けり。もとより、妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何に付けてか執をとどめむ。むなしく大原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける。ここに、六十(むそぢ)の露消えがたに及びて、更に、末葉の宿りをむすべる事あり。いはば、旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これを中比(なかごろ)の栖(すみか)にならぶれば、又、百分が一に及ばず。とかく云ふほどに、齢は歳々に高く、栖は折り折りにせばし。その家のありさま、よのつねにも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひさだめざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺(ふ)きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく外(ほか)へ移さむが為なり。その、改め作る事、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二両、車の力を報(むく)ふほかには、さらに他の用途いらず。いま、日野山の奥に跡をかくして後、東に三尺余の庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢を掛き、前に法花経を置けり。東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚をかまへて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵(いほり)のありやう、かくのごとし。その所のさまを云はば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をためたり。林の木近ければ、爪木を拾ふに乏(とぼ)しからず。名を外山と云ふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ににほふ。夏は郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契(ちぎ)る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業(くごふ)を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、、境界なければ、何につけてか破らん。」(『方丈記』)父が死んでから三十余年、わだかまりが解けないままずっと息苦しい、生きた心地のしない世の中を我慢しながら暮らして来ました。その間にあった度重なる躓(つまず)きで、生れついた自分の運のなさを悟ったものです。そういうことでしたので、五十歳になるのを待って、出家をして世捨人になりました。そもそも私は妻も子もありませんし、縁を切って困るような親類もないのです。官職に就ていないので当然俸給もなく、ここに至って拘(こだわ)るものは何もないのです。大原の山の中で、思えば何もしないまま五年経ってしまいました。いま、皆の寿命の尽きる六十の歳の近くになって、旅の途中の者が夜になれば宿の寝床で休むように、死にはぐれた蚕であっても繭を作るように、私もこの世の最後を過ごす家を作ることにしました。三十前後に住んでいた家に比べれば出来た家はその百分の一の広さもありませんが。どんな言い訳をしても歳は毎年増えるのに、住む所は代わる度に小さくなってゆきます。見た目も世間の家からは程遠く、たった四畳半の一間に屋根の高さは七尺もありません。いつも仮り住まいのつもりなので、土地を買ったりはせず、土台を組んで立てた柱の上をざっと覆って、継目は全部金具で留めてあるあるだけで、もし気に入らなくなったらいつでも手間をかけずに引越すことが出来ます。もしそうなった時には、荷車二台分の荷物で、費用は運び賃だけで面倒なことは何もありません。日野の山の奥に隠れ住むようになったいまは、東に差した三尺ぐらいの庇の下を焚きつけの雑木置き場にし、南の縁には竹の簀子を敷いて、西に仏棚を吊るし、障子を張った衝立を挟んだ北の壁に阿弥陀普賢菩薩の軸を掛け、据えた台の上には『法華経』が置いてあります。東の内側は伸びた蕨を干して作った寝床で、西南に吊った竹の棚には歌書や楽書や『往生要集』を抜き書きしたものを入れた皮行李(こおり)が三つ置いてあり、その横に私がかってにをり琴やつぎ琵琶と呼んでいる琴と琵琶を一張づつ立ててあります。私の仮り住まいの内はざっとこんな感じです。この小屋の回りをついでに記せば、南側に湧き水から樋を伸ばし、立てた岩の下に水を溜めています。ここは外山と云って歩いてすぐの林に小枝はいくらでも落ちているので薪に不自由はしません。定家葛がいつも道を覆っていて、谷は木が繁っていますが、西側は見晴らしがよくて、西方浄土を願うのに叶った場所といえるかもしれません。春になると山の西にはたなびく雲のように一面美しい藤の花が咲き、夏にはホトトギスが「死出の田長シデノタサキ」と啼く声を聞くたび、あの世へ連れていって貰えそうな気がします。秋はひぐらしの声がそこら中から聞こえて来て、この世の儚(はかな)さを切なく思ってしまいます。冬は降り積もった雪が融けてなくなる時、人が犯した罪もこのように消えればいいのにと思ったりもします。たとえば念仏を唱えるのが何となくその気にならず、経にも身が入らない時は、そのまま休むこともあるし止めてしまうこともあります。そのことをとやかく云う人もいませんし、気を遣う相手も周りにはいません。ですからわざわざ無言行をしなくとも、周りに誰もいなければ口が災いになることもないのです。鴨長明平清盛のひと時の世が現れて消え、都が燃え失せるのを目の当たりにし、あるいは己(おの)れも世に躓(つまず)き世捨人となった口から出た言葉が、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、ひさしくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」である。ある時の都の様は、「道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。」また地震が起きれば、「山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわほ)割れて谷にまろび入る。」のである。「朝(あした)に死、夕に生きるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる(どうして自分の家を見上げて喜ぶのであろうか)。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或(あるい)は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」家を持たなければ、燃えて無くなる心配もなく、妻子がいなければ死に別れて悲しむようなこともない。希望がなければ絶望もない、ということである。「必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。」とは、このことである。鴨長明は『方丈記』でそう書いた。が、「鴨社氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、雅経朝臣の挙に依りて此の間下向す。将軍家に謁(えつ)し奉ること度々に及ぶ云々。」(『吾妻鏡』建暦元年(1211)十月十三条)日野の方丈に移り住んで四年後の建暦元年、世捨人鴨長明は蹴鞠の大家飛鳥井雅経と共に鎌倉に行き、第三代将軍源実朝(さねとも)と面談している。後に『金槐和歌集』を著す実朝に、指南の職を求めて行ったのである。が、その希望は叶わなかった。これが、人は河に浮かぶ泡のようであると達観しても歌人の職に縋(すが)った鴨長明という者の体臭であり、人間臭さである。五十七歳の鴨長明が失意に暮れ、鎌倉から京へ戻る長い道のりの後ろ姿を思うのである。

 「社会主義に絶望し、民族のルーツを探すために修道士の道を選んだのだと、遠回しに前置きしてから、急にどこにでもいそうな若者の顔になり、さして自信もなさそうにつぶやいた。「ここで、もう四年になります。欲しいものがない、ということにずいぶん慣れてきました」サバ修道士は別れ際に、翻訳を読んで小林一茶が好きになったと、罪でも明かすように私に告げた。」(『もの食う人びと』辺見庸 角川文庫1994年)

 「過酷な被災、伝え方模索 震災・原子力災害伝承館開館1年」(令和3年9月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 落柿舎の建つところは、嵯峨小倉山緋明神町であるが、三度泊まったことのある松尾芭蕉が「落柿舎の記」という一文で「洛の何某去来が別墅(べっしょ)は下嵯峨の藪の中にして、嵐山のふもと大堰川の流に近し。此地閑寂の便りありて、心すむべき處なり。彼去来物ぐさきをのこにて、窓前の草高く、数株の柿の木枝さしおほい、五月雨漏盡して、畳・障子かびくさく、打臥處(うちふすところ)もいと不自由なり。日かげこそかへりて(かえって)あるじのもてなしとぞなれりけれ。」と記すように、向井去来が医者だった父親の遺産として引き継いだ元は商人の別荘だったという落柿舎は、下嵯峨川端村にあった。下嵯峨川端村は、頭に嵯峨のつく現在の朝日町、石ヶ坪町、伊勢ノ上町、梅ノ木町、折戸町、甲塚町、苅分町、北堀町、五島町、蜻蛉尻町、中通町、中丈町、中山町、罧原(ふしはら)町、明星町、柳田町に当たる。ほぼJR嵯峨野線桂川に挟まれた西を天龍寺、有栖川を東の境とする地域である。天明七年(1787)に出た『拾遺都名所図会』にはこのような記載がある。「近年、去来の支族俳人井上重厚、旧蹟に落柿舎を修補し、その傍にこの句(去来の「柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山」の句碑)を鐫(え)り、ここに建てて住まひし侍る。」落柿舎は元禄四年(1691)の芭蕉の二度目の滞在から二年後、老朽のため取り壊され、去来は新たに小さな庵を建てた。が、芭蕉を信奉する去来の分家者であった井上重厚は、その庵のあった下嵯峨にその正確な場所を見つけること出来ず、明和七年(1770)北嵯峨小倉山の麓山本村の弘源寺跡に数株の柿の古木があるのを見て喜び、ここに落柿舎を再興する。後に幾度か所有者の入れ替わりがあったが、これがいま目にしている落柿舎の元(もとい)である。芭蕉は「奥の細道」行から二年後の、元禄四年の落柿舎滞在の時の日記を残している。「元禄四辛未(しんび)卯月(四月)十八日 嵯峨に遊びて、去来が落柿舎に至る。凡兆(医師、芭蕉門人)、共に来たりて、暮に及びて京に帰る。予はなほ暫く留むべき由にて(滞在するように云われて)、障子つづくり(破れを塞ぎ)、葎(むぐら)引きかなぐり(草むしりをし)、舎中の片隅一間なるところ、臥所(ふしど)と定む。机一つ、硯・文庫、『白氏文集』『本朝一人一首』『世継物語』『源氏物語』『土佐日記』『松葉集』を置く(去来が揃えてくれていた)。ならびに、唐の蒔絵書きたる五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一壺、盃を添へたり。夜の衾(ふすま)・調菜の物ども、京より持ち来たりて乏しからず。わが貧賤を忘れて、清閑に楽しむ。 十九日 午(うま)の半ば(正午)、臨川寺に詣ず。大堰川前に流れて、嵐山右に高く、松の尾の里に続けり。虚空蔵(法輪寺)に詣づる人、行きかひ多し。松の尾の竹の中に、小督(こごう、平清盛高倉天皇との間を裂かれた寵姫)屋敷といふ有り。すべて上下の嵯峨に三ところ(小督の屋敷といわれている場所が三箇所)有り。いづれか確かならむ。かの仲国(源仲国、高倉天皇の命で小督の隠れ家を尋ねる)が駒をとめたる所とて、駒留の橋といふ、このあたりにはべれば(いらっしゃったのであれば)、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪の内に有り。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも(惧(おそ)れ多くも)錦繍綾羅(きんしうりょうら、豪華な褥(しとね))の上に起き臥しして、つひに藪中の塵芥となれり。昭君村(漢の悲劇の後宮王昭君の生まれた村)の柳、巫女廟(楚の懐王が夢に見た巫山(ふざん)を祀った廟)の花も昔を思ひやらる。憂き節や竹の子となる人の果て 嵐山藪の茂りや風の筋。 斜日に及びて、落柿舎に帰る。凡兆、京より来たり、去来、京に帰る。宵より臥す。 二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(凡兆の妻)来たる。去来、京より来たる。途中の吟とて語る。つかみあふ子供の長(たけ)や麦畠。 落柿舎は、昔のあるじの作れるままにして、ところどころ頽破(たいは)す。なかなかに、作りみがかれたる(洗練された)昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫り物せし梁(うつばり)、画ける壁も、風に破れ、雨にぬれて、奇石・怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるに、竹縁の前に柚の木一本(ひともと)、花かんばしければ、柚の花や昔しのばん料理の間 ほととぎす大竹藪を漏る月夜。 (羽紅尼が詠める)またや来ん覆盆子(いちご、赤い苺のように)あからめ(紅葉した)嵯峨の山。 去来兄の室(妻)より、菓子・調菜の物など送らる。今宵は、羽紅尼夫婦をとどめて、蚊帳一張(ひとはり)に上下五人こぞり臥したれば、夜も寝(い)ねがたうて(寝苦しくて)、夜半過ぎよりおのおの起き出でて、昼の菓子・盃など取り出でて、暁近きまで話し明かす。去年の夏、凡兆が宅に臥したるに、二畳の蚊帳に四国の人臥したり。「思ふこと四つにして、夢もまた四種」と書き捨てたる(ふざけて書きなぐった)ことどもなど、言ひ出して笑ひぬ。明くれば、羽紅・凡兆、京に帰る。去来、なほとどまる。 二十一日 昨夜、寝(い)ねざりければ、心むつかしく(気分がすぐれず)、空のけしきも昨日に似ず、朝より打ち曇り、雨をりをりおとづるれば、ひねもす(一日中)眠り臥したり。暮に及びて、去来、京に帰る。今宵は、人もなく、昼臥したれば夜も寝ねられぬままに、幻住庵(大津国分にあった庵)にて書き捨てたる反古を尋ね(探し)出だして清書す。 二十二日 朝の間、雨降る。今日は、人もなく、さびしきままに、むだ書きして遊ぶ。その言葉、喪に居る者は、悲しみをあるじとし、酒を飲む者は、楽しみをあるじとす。「さびしさなくば憂からまし」と西上人(西行)の詠みはべるは、さびしさをあるじなるべし。また、詠める(西行がこう詠んでいる)。山里にこはまた誰を呼子鳥ひとり住まむと思ひしものを ひとり住むほど、おもしろきはなし。長嘯隠士(ちやうせういんし、木下長嘯子、歌人)の曰く、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑を失ふ」と。素堂(山口素堂、俳人)、この言葉を常にあはれぶ(口ずさむ)。予もまた、憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。暮れがた、去来より消息す(手紙が届く)。乙州(おとくに、芭蕉門人)が武江(ぶかう、江戸)より帰りはべるとて、旧友・門人の消息ども数多(あまた)届く。その内、曲水(芭蕉門人)状(手紙)に、予が住み捨てし芭蕉庵の旧きを跡(深川)をたづねて、宗波(芭蕉がかつて旅で出会った旅僧)に逢ふ由。昔誰小鍋洗ひし菫草。 また、言ふ。「わが住む所、弓杖二長(ゆんづゑふたたけ、一丈五尺)ばかりにして、楓一本より外は青き色を見ず」と書きて、若楓茶色になるも一盛り。 嵐雪(芭蕉門人)が文に 狗背(ぜんまい)の塵に選られる蕨かな 出替わりや稚(おさな)ごころに物哀れ。 その外の文ども、あはれなる(しみじみとした気分になる)事、なつかしき事のみ多し。 二十三日 手を打てば木魂(こだま)に明くる夏の月 竹の子や稚き時の絵のすさみ 一日一日(ひとひひとひ)麦あからみて啼く雲雀(ひばり) 能なしの眠(ねぶ)たし我を行行子(ぎやうぎやうし、ヨシキリ)。 落柿舎に題す 凡兆(詠む) 豆植うる畑も木部屋(薪小屋)も名所かな。 暮に及びて、去来、京より来たる。膳所昌房(膳所(ぜぜ)の芭蕉門人)より消息。大津尚白(芭蕉門人)より消息あり。凡兆、来たる。堅田本福寺(第十一世千那、芭蕉門人)、訪ねて、その夜泊る。凡兆、京に帰る。 二十五日 千那、大津に帰る。史邦・丈草(芭蕉門人)訪ねらる。落柿舎に題す 丈草(詠む) 深く峨峰に対して鳥魚を伴ふ 荒に就き野人の居に似たるを喜ぶ 枝頭今欠く赤虻の卵(柿の実) 青葉(せいえふ)題を分かちて書を学ぶに堪へたり。 小督の墳(つか)を尋ぬ 丈草(詠む) 強(た)つて怨情を撹(みだ)して深宮を出づ 一輪の秋月野村の風 昔年僅かに琴韻を求め得たり 何処ぞ孤墳竹樹の中(うち)。 史邦(詠む) 芽出しより二葉に茂る柿の実(さね)。 途中吟 丈草(詠む) ほととぎす啼くや榎も梅桜。 黄山谷(宋の詩人)の感句 門を杜(と)ぢて句を覔(もと)む(詩作に励む)陳無己(ちんむき、宋の詩人) 客に対して毫(ふで)を揮(ふる)ふ秦少游(しんせういう、宋の詩人)。 乙州来たりて、武江の話ならびに燭五分の俳諧(蝋燭が五分燃える間に詠んだ連句)一巻。その内に、半俗(半僧半俗)の膏薬入は懐に 碓氷の峠馬ぞかしこき 其角(芭蕉門人)。 腰の蕢(あじか、竹かご)に狂はせる月 野分より流人に渡す小屋一つ 其角。 宇津の山女に夜着を借りて寝る 偽りせめて許す精進 其角。 申(さる)の時ばかりより風雨雷霆(らいてい、激しい雷)、雹の大なる、唐桃のごとく、小さきは、柴栗のごとし。大いさ三分匁(もんめ)あり。龍空を過ぐる時、雹降る。 二十六日 芽出しより二葉に茂る 史邦。 畠の塵にかかる卯の花 蕉。 蝸牛たのもしげなき角振りて 去。 人の汲む間を釣瓶待つなり 丈。 有明に三度飛脚の行くやらん 乙。 二十七日 人来たらず、終日閑を得。 二十八日 夢に杜国(芭蕉の愛弟子)がことを言ひ出だして、涕泣(ていきふ)して覚む。心神相交る時(気持ちや考えが入り混じって整理がつかない時)は、夢をなす(夢を見る)。陰尽きて火を夢見、陽衰へて水を夢見る。飛鳥髪をふくむ時は、飛べるを夢見、帯を敷き寝にする時は、蛇を夢見るといへり。『枕中記』(栄枯盛衰の夢物語)、槐安国(夢で見た蟻の国から思う栄達の儚さ)、荘周が夢蝶(荘子が夢で蝶になり、あるいは蝶が荘子という自分になったのかと思う胡蝶の夢)、皆そのことわり有りて、妙を尽さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散乱の気、夜陰の夢またしかり。まことに、この者(杜国)を夢見ること、いはゆる念夢なり。我に志深く、伊陽の旧里まで慕ひ来たりて、夜は床を同じう起き臥し、行脚(あんぎゃ)の労を共に助け、百日がほど影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏にしみて、忘るることなければなるべし。覚めてまた袂をしぼる(涙を流す)。 二十九日 晦日(つごもり) 『一人一首』奥州高館(たかだち)の詩を見る。高館は天に聳えて星冑に似たり 衣川は海に通じて月弓の如し その地の風景、いささか以てかなはず(詩ではこう詠まれているが、実際の景色とまったく違っていた)。古人といへども、その地に至らざる時は、その景にかなはず(昔の人が詠んだものであっても、その土地に行っていない人の詠んだものは、理想を詠んでいて現実と違う)。 (五月)朔(ついたち) 江州(近江)平田明照寺李由(第十四世住職)、問はる(来て下さる)。尚白・千那、消息あり。 竹の子や喰ひ残されし後の露 李由。 頃日(このごろ)の肌着身に付く卯月かな 尚白。 〔一字不明〕岐 待たれつる五月も近し聟粽(むこちまき端午の節句に粽を持って嫁が聟と一緒に里帰りする風習) 尚白。 二日 曾良芭蕉門人)来たりて、吉野の花を訪ねて、熊野に詣ではべる由。武江旧友・門人の話、かれこれ取りまぜて談ず。 熊野路や分けつつ入れば夏の海 曾良。 大峰や吉野の奥を花の果 曾良。 夕陽にかかりて、大堰川に舟を浮べて、嵐山にそうて戸難瀬(となせ、山間の急流)をのぼる。雨降り出でて、暮に及びて帰る。 三日 昨夜の雨降り続きて、終日終夜やまず。なほ、その武江の事ども問ひ語り、既に夜明く。 四日 宵に寝(い)ねざりける草臥(くたびれ)に、終日臥す。昼より雨降り止む。明日は落柿舎を出でんと、名残惜しかりければ、奥・口の一間一間を見めぐりて、 五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡。」(『嵯峨日記』)この時芭蕉は四十八歳である。この三年の後体調の急変で亡くなるのであるが、「奥の細道」行の前に深川の庵を手離して以来、芭蕉は住む所を無くしたが、寝る所も食い物の差し入れもあった。たとえば乞食坊主となった種田山頭火は物乞いをした。「鉄鉢の中へも霰」。辻に立って手に持った鉄鉢の中に恵んで貰ったのは米ではなく、空から降って来た霰である。「うしろすがたのしぐれてゆくか」は、芭蕉にはない孤独である。西に向けば常寂光寺の門に突き当たる小道から、畑地を挟んで向こうの、人の背丈よりも高く刈り込んだ生垣の上に見えるこんもりと林に囲まれた茅葺屋根が落柿舎である。門の内に見える軒下の壁に下がった蓑と笠は、去来が京から来ているという印であるという。落柿舎は近所の農夫らが集う去来の俳諧道場であった。前の畑地は外れの黄色い小花をつけた小豆の幾畝を除いて、いまは広々とした草の原である。そちこちで蟋蟀の鳴き声がしている。色の凋(しぼ)みはじめた叢から目を戻して見える、あの向こうの茅葺屋根が落柿舎である。が、あれは芭蕉の泊まった落柿舎ではない。が、門にその名を掲げる通り落柿舎であることは間違いないのであり、評論家保田與重郎が第十三世の庵主として名を連ねている紛れもない落柿舎なのである。こほろぎの遠きは風に消えにけむ 篠原 梵。

 「そしてあの細長い長崎の浦々の、数多い岬にかこまれた海水の銀色の明るさが、何かとてつもない大鳥が将(まさ)に飛立とうとして両翼を裕々と広げた感じで、この活気のない長崎の町に襲いかかるようだ。そうだ。それは鶴のような鳥であるかも知れない。然(しか)し大鳥の覆いかぶさりの感じには恐ろしさはなく、港を眺めれば、その港にはいって来る船の上の人々のかすかにときめく悦びを逆に感じ返すことが出来た。港から、長崎は外に向って開けている。そこから外の空気が長崎にはいって来た。いくつも岬のかげに落ちて行く西日によって、きらめいてはいたのだけれど。」(『贋学生』島尾敏雄 講談社文芸文庫1990年)

 「大熊の復興拠点、準備宿泊延期へ 除染後も一部基準超線量」(令和3年9月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)