だるま寺、法輪寺のそばを流れる紙屋川の橋の上で、聞きなれない鳥の声を聞いた。聞きなれないというのはこちらが聞きなれないということにすぎないのであるが、声は下の底浅く流れる水の上に青葉を繫らせる桜の木からして、声の主は二度ばかり鳴いてだるま寺の方へ飛んで行った。その鳥のうろ覚えの声の記憶を頼りに調べれば、鵤、イカルという鳥である。嘴は黄色に太く、躰は灰色であるが顔と羽先と尾っぽが黒い色をしていて、大きさはムクドリと同じくらいである。聖徳太子斑鳩(いかるが)宮をあるいは法隆寺を建てた斑鳩は、このイカルの群れなすところ、からきているともいわれているという。『枕草子』の「第三十八段」にもこの鳥の名が出て来る。「鳥は、異(こと)どころのものなれど、鸚鵡(あうむ)、いとあはれなり。人のいふらむ言をまねぶらむよ。郭公(ほととぎす)。水鶏(くひな)。鴫(しぎ)。都鳥。鶸(ひは)。山鳥。友を恋ひて、鏡を見すれば慰むらむ。心稚(わか)う、いとあはれなり。谷隔てたるほどなど、心苦し。鶴は、いとこちたきさまなれど、「鳴く声の雲居まできこゆる」、いとめでたし。頭(かしら)赤き雀。鵤(いかる)の雄鳥。巧婦鳥(たくみどり)。鷺は、いと見目も見苦し。眼居(まなこゐ)なども、うたてよろずになつかしからねど、「ゆるぎの森にひとりは寝(いね)じと争ふ」らむ、をかし。水鳥、鴛鴦(をし)いとあはれなり。かたみに居かはりて、「羽の上の霜払ふ」らむほどなど。千鳥、いとをかし。━━」鳥のなかで一番見てみたいのは、異国の鳥であるがオウムだ。人が喋るのを真似るそうである。それからホトトギス、次にクイナ、シギ、ミヤコドリ、そしてヒワ。ヤマドリはいつも仲間を恋しく思い、それが鏡に映った自分の姿でも安心してしまうほど寂しがり屋でかわいらしく、オスとメスが谷を隔てて別々に夜を過ごすというのを聞くと、かわいそうな気持ちになる。ツルは派手で人目を惹く姿が好きではないが、「雲の上まで響き渡る」という鳴き声には心が動かされる。それから頭の赤いニュウナイスズメイカルのオス、ヨシキリの鳴き声も好きである。サギは見た目も不細工で目つきも好きにはなれないが、「琵琶湖の畔にあるというゆらぎの森に棲むサギのオスはひとりで寝るのがいやでメスの奪い合いをする」という、まるで人間世界と同じで面白い。水鳥では、オシドリが互いに位置をずらしながら「羽についた霜を払ってあげる」というのが微笑ましい。チドリも好きな鳥である。いかる来て起きよ佳き日ぞと鳴きにける 水原秋櫻子。イカルがやって来て「オキヨヨキヒ」と鳴いたという。江戸の百科全書『和漢三才圖繪』はその囀りをこう書いている。「常に鳴く、春月、能(よ)く囀る、「比志利古木利(ヒシリコキリ)」と言ふが如し。」あるいは「お菊二十四」「月日星」「蓑笠着い」「赤いべべ着い」「じじ茸食え」などとその「聞きなし」を調べれば出て来る。新下立賣橋の上で聞いてメモを取った時のコトバは「ヒーキョリキョヒー」である。「いかるかよ豆うましとは誰もさそひしりこきとは何を鳴くらん」(『古今著聞集』)イカルの別名が「豆回し」というのは豆を咥えた時を見れば誰でも納得するが、「ヒシリコキ」というあの鳴き声は何と歌っているのであろうか。人の書きつけた言葉ではイカルの魂に触れることは出来ない。これはかつてウマオイの鳴き声を聞いて思ったことではあるが。国木田独歩に「春の鳥」という短篇小説がある。ある町に赴任して来た「先生」が六蔵という鳥の好きな「白痴」の少年と知り合いになる。が、ある日、六蔵が城山の石垣の下で死んでいるのが見つかる。「「けれど、なぜ鳥のまねなんぞしたのでございましょう。」「それはわたしの想像ですよ。六さんがきっと鳥のまねをして死んだのだか、わかるものじゃありません。」「だって、先生はそう言ったじゃありませぬか。」と母親は目をすえて私の顔を見つめました。「六さんはたいへん鳥がすきであったから、そうかもしれないと私が思っただけですよ。」「ハイ、六は鳥がすきでしたよ。鳥を見ると自分の両手をこう広げて、こうして」と母親は鳥の羽ばたきのまねをして「こうしてそこらを飛んで歩きましたよ。ハイ、そして、からすの鳴くまねがじょうずでしたよ」と目の色を変えて話す様子を見ていて、私は思わす目をふさぎました。」(「春の鳥」国木田独歩『号外・少年の悲哀 他六編』岩波文庫1939年刊)これは人が鳥の魂に触れることが出来た稀(まれ)な例であろう。

 「崩れゆく城壁の騒音のさなかに、すでに再建された街々からわきあがる歓喜の歌のあいだに、たえず変化にさらされる諸々の形態の永続的回帰を高らかに告げ知らせる急流のいただきに、人間や事物を上昇させもすれば下降させもするあの感情や情念のはばたく翼の上に、諸々の文明を痙攣(けいれん)させる一時的な火の手の上に、諸々の国語や風習の混迷の彼方に、私は人間を、そして渦巻の中心にありながら人間のうちでいつまでも不動のままであるものを、たしかに見る。」(『通底器』アンドレ・ブルドン 足立和浩訳 現代思潮社1978年)

 「ウクライナ情勢、福島県内企業の半数以上に悪影響 意識調査」(令和4年5月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 森の中の道ゆく葵祭かな 京極杞陽。今年も葵祭は中止となった。が、中止になるのは五月十五日の「路頭の儀」といわれる一キロの長さになる参向行列である。その葵祭のはじめの神事である下鴨神社流鏑馬(やぶさめ)が五月三日に三年振りにあった。これは祭りの露払いである。葵祭は葛野(かどの)山城に平安京が出来るより二百年以上前、第二十九代欽明天皇の代に続いた凶作を加茂神の祟りと見、それを鎮めるため四月吉日に鈴をつけた馬を走らせたのがはじまりであるという。天皇の使いが神に捧げる斎王を伴った警護の行列が「路頭の儀」である。糺の森の四百メートルの馬場に五千人が集まった。はじめに黒漆の箱を捧げ持つ平安装束姿の者を先頭に神官の乗る馬車が続き、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・笛の楽奏、公家・武者姿の騎馬、的持ち、弓持ち、鏑矢持ちが馬場の砂の上をぞろぞろ行列になり、競馬のように鞍を載せた馬が引き回され、漸(ようや)く流鏑馬がはじまる。的は三か所にあり、的を取り換える者も平安装束姿である。係に尻を叩かれた馬ははじめから全力の走りで、間近で走り抜けるその姿も人殺しの道具の弓矢も見慣れぬ者には相当の迫力がある。であるが、走る馬の背から三本の矢を次々放つのは容易ではなく、神事であっても皆が皆的を射抜いてゆくわけではない。次の矢の用意の動作が遅れる者もいる。落馬もあった。綱を張った前列にはパイプ椅子の用意があり、それに坐れぬ者は二重三重に立って的を射抜けば拍手を送るが、的近くのその二重三重の人だかりの後ろの者は走り来る馬の姿を目にすることは出来ず、気配に思わず背伸びをする。が、恐らくは毎年のように見に来ていたのであろう女の年寄りは草の上に坐り、その気配にひとり大きな拍手を送っているのである。「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながら思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(なほざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本(もと)には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果(はて)は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。さやうの人の祭見しさえ、いと珍らかなりき。「見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、おのおの肝潰るゝやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつゝ、一事も見洩さじとまぼりて、「とあり、かゝり」と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。たゞ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかゝらず、わりなく見んとする人もなし。何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るゝほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例(ためし)も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。かの桟敷の前をこゝら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺を鬻(ひさ)ぐ者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期(しご)なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫(しば)しも世をのどかには思ひなんや。継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵(つはもの)の、軍(いくさ)に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑(しづ)かに水石を翫(もてあそ)びて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵(かたき)競(きほ)ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍(いくさ)の陣に進めるに同じ。(『徒然草』「第百三十七段」兼好法師)月や花をいつもいつも皆が云うように直接この目で見なければならないとは思わない。桜の咲く春にわざわざ外に出なくとも、あるいは秋の月の輝く夜でも寝床でそれを思い描けば、わくわくして堪らなくなるのだ。が、世間でよく思われている人は、このようなことで熱狂するわけでもなく、たとえ面白がったとしてもどこか本気には見えない。それに比べて田舎者は、何にでもしつこく興味を持って面白がる。桜が咲いているのを見つけるとどんな場所でも、たとえ身を無理にねじってでも近づいて一心不乱に眺めたり、と思えばその下で酒を呑み、連歌の真似ごとをしたり、果ては酔った挙句に太い枝をへし折るような無礼なことをする。湧き水を見つけると必ず寄って手足を突っ込み、雪が降り積もった地面には足跡をつけなければ気がすまず、どんなものごとも一歩引いて見るということをしない。このような田舎者らが加茂の祭を見物しに来ていた時の様子は、何とも奇妙で滑稽なものだった。「のろのろしてやがる行列だ。何も通らないのにボケっと桟敷で待っているのもばかばかしい」と云って、奥の座敷で呑んだり喰ったりしながら碁石をいじり双六を広げ、桟敷で番をさせていた者が「お通りになられます」と声を掛けた途端、慌てふためきわれ先に桟敷に駆け上がって簾を押し上げ、身を乗り出し、押し合いながらひとつも見落としてなるものかとばかり、血まなこになって「ああだ、こうだ」と行列が来るたびに云い合いをし、それが過ぎてしまうと「次が来るまで」と云って降りて行った。この者らはただ通り過ぎる行列だけを見れば気がすむのである。かたや都のさも身分の良さそうな者は、たいして見もせず居眠りをしている。あるいは、まだ若くて位の低い宮仕いの者は上の者への給仕に忙しく、主人の後ろに控えていて前にのしかかるようなみっともない真似をしてまで見ようとする者はいない。加茂の祭の日には葵の葉を家々に懸けてあって何ともいえぬ独特の優雅さがあり、まだ夜が明けきらぬ頃、こっそり道端に寄せてゆく車の主を知りたくて、あの方のものだろうかなどと思って歩いていると、牛飼いや使いの者に知った顔の者がいたりする。加茂の祭の行列は趣向を凝らしていたり、あるいはまばゆく輝いていたり、とりどり道を行き交って見ていて少しも退屈しない。その祭りが終わって日の暮れる頃になると、ずらりと並んでいた車もぎっしり坐っていた見物人も皆どこかに消え失せてしまったようにちらほら人の姿があるだけで、ごったがえしていた車の行き来も収まり、簾や畳も桟敷から取り払われ、目に見えて寂しくなる様子を目の当たりにすると、改めてこの世の習いを思い知らされ、しみじみとした思いが込み上げて来る。大路の上で繰り広げられたこれらの端(はな)から終りまでをくまなく見てこそ、加茂の祭を見たと云えるのである。あの桟敷の前を行き交っていた多くの人たちの中に、何人も顔見知りの者を見つけると、こんなことを改めて思い知る。世間に住む人の数はべら棒に多いわけではないのである、と。たとえばこの者らが全部死んだ後で私が死ぬという順序になっていたとしても死ぬということに差があるわけではない。大きな器に水が入っていて、たとえば底に小さな穴が開いていれば滴る水はごく僅かでも休まずに洩れ、やがて水は器から消え失せてしまう。都にどれだけ多くの人が住んでいるとしても、人の死なない日は一日もない。死人の数も一人二人ではないであろう。鳥部野や舟岡やほかの野山でも、何人も野辺送りをする日はあっても野辺送りを見かけない日はない。そうであれば棺桶職人は右から左に休まず作ることになる。身体つきの若さとか丈夫さとかに関係なく、不意打ちをするのが死の時である。今日のいままで死から遁れることが出来ているのは奇蹟のようなことなのだ。そうであれば、ほんのちょっとの間でもこの世をのんきに思っていられるだろうか。継子立てという黒白二色の石取り遊びを双六に見立てて並べた時には、どの石から取られるのかは分からないが、十番目の石を数え当てて一つを取ると、ほかの石は遁れたと見えるが、次々と数を数えて並んだ石を抜き取ってゆくと、結局はどの石も取られてしまう決まりごとと同じである。兵(つわもの)が戦さに出る時、死は忽(たちま)ち身近に迫るのであるから、家のことも己(おの)れ自身へのこだわりもなくなってゆく。世を捨てて住む掘立小屋のようなところで静かに、庭に作った小流れや置いた石を見て心を慰めながら、兵(つわもの)の死の覚悟を他人事のように思うのを想像すると、空しい気分になる。静かな山奥にいれば本当に死には襲われないのか。戦陣に向かう兵と同じように、世捨人であっても常に死に脅かされていないはずはないのである。兼好法師は加茂の祭、葵祭の話から一気に死ぬことに思いが至るのは、愚かな田舎者も祭りが終わればあわれで、人に使われる知り合いの牛飼いもあわれであり、そう思えば思うほど一日も長く生き続けろと心ひそかに願っているからに違いないからなのである。

 「快活な蜻蛉(とんぼ)は流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身軽く滑走し、時々その尾を水にひたして卵を其処に産みつけて居た。その蜻蛉は微風に乗つて、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで、一行を追ふやうに従うて居たが、何かの拍子についと空ざまに高く舞ひ上つた。彼は水を見、また空を見た。その蜻蛉を呼びかけて祝福したいやうな子供らしい気軽さが、自分の心に湧き出るのを彼は知つた。さうしてこの楽しい流れが、あの家の前を流れて居るであらうことを想ふのが、彼にはうれしかつた。」(『田園の憂欝』佐藤春夫『筑摩現代文学大系26 佐藤春夫集』筑摩書房1976年)

 「東電、放水口整備へ海底の掘削作業着手 処理水放出方針」(令和4年5月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西大路通平安京の野寺小路にほぼ重なるという。野寺小路は平安京の中心を南北に貫く朱雀大路から西に七つ目の通りである。が、その西半分はそもそも水捌けが悪く人の住まざる土地として長らく田畑や野っぱらであり続け、豊臣秀吉はこの通りのすぐ東を流れる紙屋川に沿って高さ三メートル余の御土居を築き、その外は洛外となった。国鉄山陰線の二条駅が記されている明治四十二年(1909)の京都市実地測量地図にあっても、桂川に至るまでの一帯は田を示す記号で占められている。西大路通がいまの姿に整備されたのは昭和十四年(1939)である。JR嵯峨野線の下で大きく沈む西大路通を、その線路の下を抜けて南に上って行くと、二つ目の交叉点の左手東側に「西大路太子道」という表示が見えてくる。が、ひとつ手前の交叉点にも、南から北に向かって左手西側の中空にまったく同じ「西大路太子道」と記した表示が掲げられていて、ここで交叉する「太子道」は車一台の幅でゆるゆると東西に延びている。明治四十二年の二条駅付近より西のその実測図には、南を走る三条通とその上を走る道が一本、北に広がる何もない田圃の先を西に曲がって延びる山陰線の下、平行して田圃の中を西に走る道が一本ある。この田圃道が道幅の狭い方の「太子道」である。「太子道」の東のはじまりは、道筋が朱雀大路に重なる千本通である。そのはじまりの、千本通を挟んだ向こう側には平成二十四年(2012)に移転するまで出世稲荷があった。出世稲荷は豊臣秀吉聚楽第の邸の内に己(おの)れの出世祈願のために建て、寛文三年(1663)に聚楽第が取り壊された後、千本通に移されたものである。この稲荷に手を合わせ、踵を返して振り返り、そのままうねうねと曲りながら田圃の中を西へ進む「太子道」は、御室川の手前で一旦南に折れて広隆寺に辿り着く。広隆寺は、聖徳太子からその本尊となる弥勒菩薩を泰河勝が貰い受け安置した蜂岡寺が元(もとい)であり、太子堂とも呼ばれていた。「太子道」は広隆寺まで三・四キロのお参り道なのである。「━━いったん新二条通に出て奥畑町・池田町から(太子)道は南に振り、再び西へ。今は大阪に移転したイマジカの名を町内案内板に見つけたりすると、映画の町・太秦が近づいてきたなと思う。」(「太子道」樋爪修『続京都の大路小路』小学館1995年刊)ここに出て来る「新二条通」が、「西大路太子道」のもうひとつの二車線道路の「太子道」である。が、この書き手はこの「新二条通」を「太子道」とは呼んでいない。「千本通から太子道つまり旧二条通に入る。朱雀二条商店街の賑やかな通りを抜け、山陰線の踏切を渡る。」(「太子道」樋爪修『続京都の大路小路』)明治の実測図の中でくねる「太子道」は「旧二条通」とも云い、道の名としては「旧二条通」の方が実は古く、「太子道」となったのは昭和に入った辺りからであるという。二条通の西の末は徳川家康が築いた二条城の正面前である。が、二条通とほぼ重なる平安京の二条大路は、西の果ての西京極小路まで延びていた。が、その道筋は「旧二条通」の「太子道」の位置よりもかなり南であり、明治の実測図にはその辺りには何も記されていず、いま手許の平成二十六年(2014)版の地図を広げ二条城で途切れる二条通の続きを西に辿ってみれば、一本の通りが西ノ京中学の裏を通り、朱雀四小の南を進み、島津製作所の北を抜け、蚕ノ社に出る。ここから真っ直ぐ広隆寺までの道は、いまは南から大きく曲がって北上してくる三条通となっているが、「旧二条通」の「太子道」とも重なっているのである。いま二条城の西側から辿ってきたこの道は上押小路通と名がつけられているが、恐らくは二条大路の名残りであり、蚕ノ社から広隆寺までの道筋が重なる田圃道が「旧二条通」と呼ばれるようになったのは恐らくはこの理由からであろうと思われる。「新二条通」は「旧二条通」が「太子道」となった後に、狭くて勝手の悪い「太子道」の南に沿って造られ「新二条通」となった。が、「新二条通」を「太子道」と呼ぶ理由は詳(つまび)らかでない。が、誰かが、その途中で「旧二条通」の「太子道」と交わる「新二条通」を「太子道」と呼んだのである。この「話」はそうでなければならず、それを聞いた者も別の者の前で「太子道」と口に出した。それからまた別の者も「新二条通」に「太子道」の名を使うようになり、そうなればあるいはそうなってしまえば、この辺りに住まう者らはもはや誰がどちらの道を「太子道」と呼んでも、むきにどちらが「違う」とは口に出したりしない。という想像が確かであれば、これが京都人の「らしさ」であり、二つの交叉点の名が共に「西大路太子道」なのである。「━━(太子)道沿いに長く続く安井商店街に入る。衣類などの日用品を売る店、昔ながらの荒物屋、先程の感慨も重なり、一挙にタイムスリップする。大規模店舗が進出する前の活気あふれる商店街。昔、そこへ行けば何でも揃った。母親に手を引かれて買い物に行ったときの懐かしさがこみあげてくる。」(「太子道」樋爪修『続京都の大路小路』)このような「昭和」の匂うところは京都のそちこちにある。安井商店街はいまは半ば住宅に建て替わり、あるいはシャッターが下りたままの店が並んでいるのであるが、たとえば太秦安井東裏町、春日町、馬塚町、藤ノ木町が角を合わせる「旧二条通」の「太子道」のほんの一角は、ときわ衣料品、谷口酒店、もりかわ帽子、シャッターの下りた西川洋品のそれぞれが道の交わりが枝のようにずれている角にあって、はじめてここを通った時見たはずのない景色に胸迫る「昭和」が匂い立って来たのである。

 「「下鉢(あはつ)法。身を挙げ安詳(あんしよう)として定より起立し、身を転じて右廻し、掛搭単(かたたん、修行僧の名を記した札)に向いて合掌低頭す。略問訊し訖(おわ)りて鉢(はつ)を取るに、左手もて鉢に提(ひつさ)げ、右手もて鉤(こう)を解き、両手もて鉢を托(ささ)う。太(はなは)だしく高く、太だしく低きことを得ず。胸に当て、身を上肩に転じて曲躬(きょつきゅう)し、将(まさ)に坐せんとして盋盂(ほう)を上肩の背後に放(お)く。腰背肘臂(ようはいちゆうひ)を将(もつ)て隣位に撞著(どうちやく)することを得ず。袈裟(けさ)を顧視(こし)して、人の面(おもて)を払わしむることを得ず。」鉢の下ろし方。身のこなしを穏やかに、しっかりと立ち、身を右まわりに転じて掛搭単に向かい、合掌して頭を下げる。合掌して浅く頭を下げたら鉢を取るのだが、まず左手で鉢の包を吊るすように持ち上げ、右手で鉤を外し、両手で鉢をささえ持つ。高すぎても低すぎてもいけない。ちょうど胸の前にして身を左に転じ、屈んで坐りながら鉢を左うしろに置く。このとき、腰・背・腕で隣位の者を突いてはならない。また、袈裟に十分注意して、他人の顔をなでることのないようにする。」(「赴粥飯法(ふしゆくはんぽう)」道元 中村信幸訳『典座教訓(てんぞきようくん)・赴粥飯法』講談社学術文庫1991年)

 「第1原発、処理水満杯は来夏~秋の見通し 東電、春放出の変更なし」(令和4年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山蓮華王院、三十三間堂の南大門道を挟んだ東側に法住寺と養源院がある。車も通る二階のない平構えの南大門の片側に立つ築地塀は太閤塀と呼ばれている。これは道を北に上(あが)って七条通を越えた京都国立博物館の先にある方広寺の塀の名残りで、豊臣秀吉は奈良の東大寺に対抗する大仏殿のため辺り一帯を容赦なくこの土塀で囲んだのである。法住寺は永延二年(988)に右大臣藤原為光が己(おの)れの娘の菩提寺に建て、その寺が長元五年(1032)に焼き失せた後、永暦二年(1161)後白河上皇が御殿、法住寺殿を造り、上皇の勅願に応え長寛二年(1164)平清盛が千躰観音堂三十三間堂を建てるのである。通りからは見えないが番小屋の立つ囲いの厳(おごそ)かな後白河天皇陵が法住寺の裏にある。明治維新の前まで陵守をしていた法住寺は陵の管理が宮内省に移ると敷地を割られ大興徳院と名を変え、昭和三十年(1955)に再び法住寺に名が戻ったという。護摩法要の四角い砂場を中心に据えた狭い境内の築地のそばで山桜が咲いていた。何ものが死んでこの墓山桜 正岡子規。養源院の門前には血天井と書かれた駒札が立っている。「桃山御殿、血天井俵屋宗達、杉戸絵(白象、唐獅子)、襖絵(松図)。当院」慶長五年(1600)、意に従わぬ会津上杉景勝を討つため大坂城を出た徳川家康伏見城に寄り、十代から己(おの)れの側で仕えていた鳥居元忠に城を守らせる。が、大坂を離れた家康に隙を見た石田三成らの軍は千八百余の兵で守っていた伏見城を十三日で落城させ、命の残った徳川軍三百余人はその場で自害する。豊臣秀吉正室淀が文禄三年(1594)、織田信長軍に破れ自害した父浅井長政とその一族の菩提寺として養源院を建てた。が、元和五年(1619)に焼け失せ、淀の妹徳川秀忠正室江が元和七年(1621)に寺を再興の折り、血の染みた伏見城の床板を本堂の廊下の天井に張ったのが血天井である、とラジカセのスイッチを入れ、髪の短い小柄な作務衣姿の初老の女の係がその声に説明を加える。長い竿で指したところが鳥居元忠の目鼻、胴、折った膝であると。昔神社の境内に立った見世物小屋の「身の丈六尺のオオイタチ」は「大板血」であった。が、この血天井下の廊下の杉戸絵は国宝、俵屋宗達の「白象」である。切り絵のデザインのようなのっぺりとした頭の、様子の違う二頭の象が二枚の戸に描かれている。太い足先に爪があり、鼻は長く、大きな両耳が垂れ、二本の牙が口元から反り出している。確かに象の姿である。この絵の向こう、表に近い戸の絵は二頭の麒麟である。麒麟は馬の面(つら)に角を生やせ、背中に甲羅のようなものを載せている。この裏、寺の客がはじめに開ける戸の表には二頭の見慣れた顔つきの唐獅子が描いてある。天正二年(1574)あるいは慶長二年(1597)慶長七年(1602)に象がやって来たという記録があるというが、象も麒麟も唐獅子もこの世のものとは思えぬ生きものである。血天井の下には草木や野山の鳥獣ではなく、この世のものと思えぬものだけを描いているのである。そのことの理由は係の者が回すカセットテープからも係の口からも出て来ない。象は普賢菩薩の乗り物で、獅子には文殊菩薩が乗り、麒麟が現れるのは聖人がこの世に姿を現す時である。係の者の話では、血天井は血を流して死んだ者への供養であるという。天井が「天上」であれば、見れば辺りにはこの世ならぬものが住んでいる。自害し果てた者らはこの世を彷徨(さまよ)いながら己(おの)れがあの世に来たことをこの絵で知るのである。養源院の山門を潜った参道のもみじが枝に若葉をひろげている。その色は潜った時に見た時よりも、帰り際の眼に濃く映った。吹入るる窓の若葉や手習い子 廣瀬惟然。

 「そうして三十年という歳月が経った。三十代が過ぎ四十代も過ぎ、五十代も尽きた。━━中頃までは世間に背を向ける緊張もあっただろう。よくよくの覚悟、静まり返った拒絶であったはずだ。何を境にして、意地が絶えたのか。銭湯へ通うほかはろくに外へ出なくなったのか。窓に鉢植を見なくなってからもひさしい。」(「背中ばかり暮れ残る」古井由吉『陽気な夜まわり』講談社1994年)

 「海側の作業4月25日にも着手 処理水放出、放水口設置へ海底掘削」(令和4年4月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 花筏(はないかだ)水に遅れて曲りけり ながさく清江。琵琶湖疏水の水は東からやって来て蹴上で分かれ、一方は南禅寺の中空を横切り、哲学の道が沿う流れとなって白川に注ぎ、もう一方は動物園、平安神宮一の鳥居の前を真っ直ぐ、ひと折れふた折れして鴨川に注ぐ。哲学の道にも岡崎の側にも桜が植えられているが、岡崎疏水には花の時期に遊覧船が出る。遊覧船は琵琶湖側から出るのもあり、その疏水船はトンネルを潜って山科の桜の中を通る。花の雲は雲にあらず、空が曇れば花曇りで、夜に出くわすのは花明り、花朧とは朧に花が失せゆくこと、思わぬ花冷えに一枚羽織り、東北の花の便りはいつも遅く、見れば桜は散り時で、花の主は花を惜しみ、その足元には花の屑、岡崎疏水も早やしな垂れた枝の先から花吹雪が舞い、満員の十石船が過ぎれば濁る水に浮かんでいた花びらが片寄せられ、長い花筏となってゆらゆら漂いその先が見えぬほどいまひと繋がりになる。花筏水に遅れて曲りけり。「水に遅れて曲りけり」という云いは、物理的な事実を無視し「そう見え、そう思わせる」ような「隙」を覚えさせる巧みな詠みである。が、水はつねに花に先んじている。土から根を通り花に先んじて枝を曲るのが水の道理であろう。

 「反対に、おのれの蝶番から外れてしまった時間は、発狂した時間を意味している。発狂した時間とは、神が時間に与えた曲率の外に出て、おのれの単純すぎる循環的な形態から自由になり、おのれの内容をつくってくれたもろもろの出来事から解放され、おのれと運動との関係を覆(くつがえ)してしまうような、そうした時間であって、要するに、おのれを空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。」(『差異と反復』ジル・ドゥルーズ 財津 理訳 河出書房新社1992年)

 「弁護団「国も倍書責任」 原発事故訴訟、過失前提の基準策定目指す」(令和4年4月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵐山の方から渡月橋を渡り長辻通を北に下って、JR嵯峨野線の線路を越え、そのまま突き当たるところに嵯峨清凉寺がある。その元(もとい)は『源氏物語』の人物光源氏のモデルともいわれている嵯峨天皇皇子、左大臣源融(みなもとのとおる)の別業棲霞観(せいかかん)にその没後(寛政七年(895)源融没)建てられた阿弥陀堂、棲霞寺にはじまり、天慶八年(945)に醍醐天皇皇子、式部卿源重明が正室の死に際し新たな釈迦像を安置する堂を建て、宋の仏聖地五台山から戻った東大寺の僧奝然(ちょうぜん)が愛宕山比叡山に並ぶ大伽藍大清凉寺の建立の野望を果たせず長和五年(1016)に没し、その弟子盛算が奝然が持ち帰った栴檀釈迦如来を新たな釈迦堂に安置したのが清凉寺のはじまりで、室町中期に流行の融通念仏の大道場として棲霞寺よりも清凉寺の名が知れ渡るようになったという。浄土宗清凉寺の通称は嵯峨釈迦堂(さがのしゃかどう)である。源融と源重明は『今昔物語集』の中に話を残している。「川原院の融左大臣の霊を宇陀院見給ふ語(こと)、第二。今は昔、川原院は、融左大臣の造りて住み給ひける家なり。陸奥国塩竃の形を造りて(景色を真似て)、潮の水を汲み入れて、池に湛へたりけり。様々に微妙(めでた)く可咲(おか)しき事(風流に凝った)の限りを造りて住み給ひけるを、其の大臣(おとど)失せて後は、其の子孫にて有りける人の、宇陀院(宇多法皇)に奉りたりけるなり。然(しか)れば、宇陀院、其の川原院に住ませ給ひける時に、醍醐天皇は御子に御(おは)しませば、度々(どど)行幸有りて微妙(めでた)かりけり。然(さ)て、院の住ませ給ひける時に、夜半許(ばかり)に、西の台の塗籠(ぬりごめ、妻戸を切った四方が壁の寝室)を開きて、人のそよめきて参る(衣ずれの音をさせて来る)気色の有りければ、院遣らせ給ひけるに、日の装束(昼の束帯)直(うるは)しくしたる(正式に着た)人の、大刀帯(は)きて笏取り、畏(かしこま)りて、二間許(ばかり)去(の)きて居たりけるを(跪いているのを)、院「彼(あ)れは何人ぞ」と問はせ給ひければ、「此の家の主(あるじ)に候ふ翁なり」と申しければ、院、「融大臣か」と問はせ給ひければ、「然(さ)に候ふ(そうでございます)」と申すに、院、「其れは何ぞ(何の用か)」と問はせ給へば、「家に候へば(私の家でございますから)住み候ふに、此(か)く御(おは)しませば(このようにしていらっしゃられると)、忝(かたじけな)く所せく思ひ給ふるなり(恐れ多く気づまりに存ずるのでございます)。何が仕(つかまつ)るべき(いかがいたしましょうか)」と申せば、院、「其れは、糸異様の事なり(いかにも妙なことを云う)。我れは人の家をやは押し取りて居たる(ひと様の家を勝手に奪ったとでも云うのか)。大臣の子孫の得させたればこそ、住め(お前の子が献上したから私は住んでいるのだ)。者の霊なりと云へども、事の理(ことわり)をも知らず、何(いか)で此(か)くは云ふぞ(何という云い草だ)」と、高やかに仰せ給ひければ(威厳をもって一喝されると)、霊掻消つ様に失せにけり。其の後、亦(また)現はるる事無かりけり。其の時の人、此の事を聞きて、院をぞ忝(かたじけな)く申しける。「猶、只人には似させ給はざりけり(並の人とはどこか違っておられる)。此の大臣に霊に合ひて、此様(かやう)に痓(すく)やかに異人は否(え)答へじかし(他の者ならこれほどきっぱりと云い返すことはできないだろ)」とぞ云ひけるとなむ、語り伝へたるとや。」(巻第二十七)生きていた時も変わり者と思われていた源融が死んでからも己(おの)れの住まいに執着するように現れ、宇多法皇に一喝されたという。「民部卿忠文の鷹、本の主を知れる語(こと)、第三十四。今は昔、民部卿藤原忠文と云ふ人有りけり。此の人宇治に住みければ、宇治の民部卿となむ世の人云ひける。鷹をぞ極めて好みけるに、其の時に式部卿の重明親王と云ふ人御(おは)しけり。其の宮も亦(また)鷹を極めて好み給ひければ、「忠文民部卿の許に吉(よ)き鷹数(あま)た有り」と聞きて、其れを乞はむ(譲り受けよう)と思ひて、忠文の宇治に居たりける家に御(おは)しにけり。(前触れもなくやって来たため)忠文驚き騒ぎて、忩(いそ)ぎ出で会ひて(出迎えて)、「此は何ごとに依りて(どんな御用で)思ひ懸けず渡り給へるぞ(思いもよらずお越しになられたのですか)」と問ひければ、親王、「鷹数(あま)た持ち給へる由を聞きて、其れ一つ給はらむと思ひて参りたるなり」と宣(のたま)ひければ、忠文、「人などを以て仰せ給ふべきことを(使いを寄こしてそう仰しゃればよろしかったのに)、此(か)く態(わざ)と(わざわざ)渡らせ給へれば(お越しいただいたのですから)、何(いか)でか奉らぬ様は侍らむ(どうして差し上げないことがありますか)」と云ひて、鷹を与へむと為(す)るに、鷹数(あま)た持たる中に、第一にして持たりける鷹なむ、世に並無く賢(かしこ)かりける鷹にて、雉(きじ)に合はするに(向かわせると)必ず五十丈が内を過ぐさずして(百五十メートルも飛ばないうちに)取りける鷹なれば、其れをば惜みて、次なりける鷹を取り出でて与へけり。其れも吉(よ)き鷹にては有りけれども、彼の第一の鷹には当るべくも(匹敵するものでは)非(あら)ず。然(さ)て親王、鷹を得て喜びて、自ら居(す)ゑて(肘にとまらせて)京に返り給ひけるに、道に雉(きじ)の野に臥したりけるを見て、親王、此の得たる鷹を合はせたりけるに、其の鷹弊(つたな)くて鳥を否(え)取らざりければ、親王、「此(か)く弊(つたな)き鷹を得させたりける(こんな無能な鷹を寄こしやがって)」と腹立ちて、忠文の家に返り行きて、此の鷹をば返してければ、忠文鷹を得て云はく、「此れは吉(よ)き鷹と思ひてこそ奉りつれ。然(さ)らば異鷹を奉らむ」と云ひて、「此(か)く態(わざ)と御(おは)したるに」と思ひて(わざわざお越し下さったのだからと思って)、此の第一の鷹を与へてけり。親王、亦(また)其の鷹を居(す)ゑて返りけるに、木幡の辺にて試みむと思ひて、野に狗(いぬ)を入れて雉を狩らせけるに、雉の立ちたりけるに彼の鷹を合はせたりければ、其の鷹亦(また)鳥を取らずして飛びて雲に入りて失せにけり。然(しか)れば其の度は親王、何も宣(のたま)はずして京に返り給ひにけり。此れを思ふに、其の鷹、忠文の許にては並(ならび)なく賢(かしこ)かりけれども、親王の手にて此(か)く弊(つたな)くて失せにけるは、鷹も主(あるじ)を知りて有るなりけり(誰が飼い主であるかを知っているのである)」。然(しか)れば、智(さとり)無き鳥獣なれども、本(もと)の主を知れる事此(か)くの如し。況(いはん)や心有らむ人は、故(ゆゑ)を思ひ、専(もは)らに親しからむ人の為には吉(よ)かるべきなりとなむ(自分を信頼している人のためには最善を尽くすべきであると)、語り伝へたるとや。」(巻第二十九)式部卿重明がだしぬけに立ち寄った民部卿忠文の鷹を欲しがり、はじめに貰った鷹は雉を取らず無能だと思って返し、再び貰った鷹は優秀であったが故に誰が主か知っていたため、重明が放した隙に逃げて行ったのである。四月のこの時期、清凉寺の境内の西に建つ狂言堂の二階の舞台で保存会が演じる嵯峨大念仏狂言が催される。九日、土曜日のはじめの回の出し物は「釈迦如来」と題する狂言である。公演の時間になると、木蔭や便所の軒下にいた者らが正面の日当たりに並べられた椅子に腰を下ろした。笛鉦太鼓のお囃子の中、一体の釈迦如来を両側から抱えるように坊主と脇差を差した寺侍が舞台の左手から入って来て、恭(うやうや)しくそれを据え、信心の手を合わせているところへ、ある母娘がお参りにやって来る。が、はじめ坊主と寺侍はこの親子の参拝を許さない。が、母親が懷から大きな「御布施」を差し出すと一変釈迦の元に招かれ、母親が釈迦をさすり柄杓で水を掛け手を合わせると、突然釈迦は「ガッテン、ガッテン」と身体を曲げてお辞儀をし、坊主と寺侍はそれを見てひっくり返る。幼い娘も母に倣って手を合わせるが、釈迦はくるりと背中を向けてしまい、娘は泣いて柄杓で釈迦を叩くと、親子は寺侍から蹴り出されてしまう。坊主と寺侍が手を尽くしても釈迦は正面を向いてくれず、寺侍が先ほどの母親を呼び戻し手を合わせてもらうと、釈迦はまた「ガッテン、ガッテン」と身体を曲げ、今度はあろうことか母親の肩を借りるように手を掛け、驚いて腰を抜かした坊主と寺侍が引き戻そうとしても釈迦と母親はお堂から出て行ってしまう。がらんとしたお堂を見渡し思い悩んだ坊主は自ら釈迦の姿を真似て右手を上げ「お釈迦様」に成り変わる。それを見つけて驚いた寺侍は慌てて手を合わせるが、「お釈迦様」は寺侍の「信心」を見抜いたように背中を向けてしまい、困った寺侍はさきほどの親子の幼い娘の方を連れて来て拝ませると、「お釈迦様」は「ガッテン、ガッテン」をし、娘の肩を借りてまたお堂から出て行ってしまう。お堂にひとり取り残された寺侍は何を思ったか自分も釈迦の姿を真似て右手を上げる。が、いつまでたっても自分を拝みに来る者は来ず、とうとう逃げるようにお堂から走り去る。演者は無言でこう演じる。時折シジュウカラが鳴き、風が吹くと辺りに残っていた桜の花びらが舞台の前で舞っていた。奝然(ちょうぜん)が宋がら持ち帰った釈迦如来像は、釈迦の生き姿を写したというインド伝来の「優塡王思慕像(うでんおうしぼぞう)」を見て感激し、その写しを現地の兄弟仏師にひと月で彫らせたものであるという。この釈迦如来像には、胎内に絹に綿を詰めて作った五臓六腑が納められていた。それはこの世で生きるための生身の証拠であり、生身であるがゆえに狂言の釈迦如来は母親に連れられる如くに滑稽であわれで切実に寺を捨てて出て行ったのである。見てゐるは里人ばかり嵯峨念仏 五十嵐播水。

 「ぼくは山椒魚に取り憑かれていたことがある。植物園にある水族館に出かけて行っては、何時間も山椒魚を眺め、彼らがかすかに身動きしたり、じっとうずくまっている様子を観察したものだ。今では、そのぼくが山椒魚になっている。」(「山椒魚」フリオ・コルタサル 木村榮一訳『遊戯の終り』国書刊行会1977年)

 「待ってた全域「再開通」 富岡・夜の森「桜のトンネル」」(令和4年4月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「武蔵国御家人、熊谷の次郎直実(なおざね)は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善(前世でおこなった良い行い、現世で良い果報を受けるという)のうちにもよをしけるにや、幕下将軍(源頼朝)をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、蓮生(れんせい)と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さやうの事は法然上人に、たづね申べしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。罪の軽重をいはず、たゞ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なしとの給(たまう)をきゝて、さめざめと泣ければ、けしからずと思たまひてものも給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰られければ、手足をもきり命をもすてゝぞ、後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、たゞ念仏だにも申せば往生はするぞと、やすやすと仰をかふり侍れば、あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申ける。まことに後世を恐れたるものと見えければ、無智の罪人の念仏申て往生する事、本願の正意なりとて、念仏の安心こまやかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。」(『法然上人行状絵図』(『四十八巻伝』)第二十七巻)熊谷直実法然上人の前でさめざめと泣いた。大の大人が人目もはばからず泣いたのは、私のような者は手足を切り捨て腹を掻(か)っ捌(さば)かなければ往生出来ないと思っていたのに、ただ南無阿弥陀仏と唱えればいいと云ってもらえたことが嬉しかったからだと云うのである。「幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して蓮生と申けるが」は、この前年、建久三年(1192)の十一月二十五日と日付のある『吾妻鏡』にこう書かれている。「建久三年十一月小廿五日甲午。白雲飛び散り、午以後霽(はれ)に属す。早旦、熊谷次郎直実と久下権守直光、御前に於て一決を遂ぐ。是、武蔵国熊谷と久下の境相論の事也。直実武勇に於ては、一人当千之名を馳せると雖(いへど)も、対決に至りては、再往知十之才に足らず、頗(すこぶ)る御不審を胎するに依りて、将軍家度々尋ね問はしめ給ふ事有り。時に直実申して云はく。此の事、梶原平三景時、直光(直実の叔父、養父)を引級するの間、兼日道理の由を申し入るるか。よつて今直実頻(しき)りに下問に預る者なり。御成敗の処、直光定めて眉を開くべし。其の上は理運の文書無し。左右(とこう)に能(あた)はずと称し、こと未だ終へざるに、調度文書等を巻き、御壺の中に投げ入れて座を起つ、猶忿怒(ふんぬ)に堪へず。西の侍に於て、自ら刀を取り髻(もとどり)を除(はら)い、詞(ことば)を吐て云はく。殿ノ御侍ヘ登リハテと云々。則(すなは)ち南門を走り出で、私宅に帰るにおよばず逐電す。将軍家殊(こと)に驚かせしめ給ふ。或説に、西を指し駕を馳せる。もしや京都の方へ赴くかと云々。則ち雑色等を相模、伊豆の所々ならびに箱根、走湯山へ馳せ遣はす。直実の前途を遮りて、遁世の儀を止めるべしの由、御家人及び衆徒の中に仰せ遣はし被ると云々。直光は、直実の姨母(いぼ、おば)の夫なり。其の好(よしみ)につき、直実、先年直光の代官と為し、京都大番に勤仕せしめる時、武蔵国の傍輩等同じ役を勤め在洛す。此の間、各(おのおの)、人の代官を以て、直実に対し無礼を現す。直実其の鬱憤を散らさん為、新中納言(知盛卿)に属し多年を送りおわんぬ。あからさまに関東へ下向の折節、石橋合戦あり。平家の方人と為し、源家を射ると雖(いへど)も、其の後また、源家に仕へ、度々の戦場に於て勲功を抽(ぬき)んずと云々。而(しかう)して直光を棄(す)て、新黄門の家人に列するの条、宿意(すくい)の基(もと)と為し、日来(ひごろ)境の違乱(いらん)に及ぶと云々。」雲の動き早く、午後晴る。朝早く、御前で熊谷次郎直実と久下権守直光の対決があった。武蔵国の熊谷と久下は境界を巡って訴訟を起こしていたのである。直実は一人で千人を相手にするほどの武勇者であるが、裁判での言葉のやり取りが覚束なく、伝わりにくいところが何度もあったので頼朝様も何度も聞き返すことがありました。すると直実はこのようなことを申した。「このようにこちらの言い分が通じないのは、担当の梶原平三景時が直光に味方をしてあらかじめ直光の言い分の方が正しいと申し入れているからではないのか。だから私ばかりが質問攻めにあっているんだ。どうせ判決は直光が喜ぶことになるんだ。そうであれば証拠の文書なんかに意味はないし、もうどうすることも出来ない。」と云って、判決も待たずにその証拠の文書を丸めて庭に投げ捨て、座を立って、ますます怒りが治まらず西にある侍の詰め所で髻を自分の刀で切り落とし、「殿の侍にまで出世したのにこれだ━━」と吐き捨てた。それから直実は南門を走り出て、自宅へも戻らず行方をくらましてしまった。頼朝様はひどく驚かれたました。ある者は直実は西へ馬を走らせた、京都へ向かったのではないかと云う。すぐに頼朝様は雑色らを相模や伊豆や箱根や走湯山を向かわせ、御家人や衆徒に直実の出家を止めさせるよう指示を出しました。直光は直実の叔母の夫で、その縁で前に直光の代理で京都の警護に就いていた時、同郷からも何人か同じ勤めに来ていて、その者らから直実が代官(代理)の身分であることをからかわれ、直実は理不尽な鬱屈を晴らすため知盛卿のところに身分を移して数年の勤務を終え、関東に戻る途中で石橋山の合戦がはじまると、平家方について源氏方に弓を弾いたのであるが、後に源氏に仕え、合戦の度に抜きんでた手柄を立てたという。このような経緯があり、直光から離れ平知盛の家来になったことが恨みを買うもととなり、直実と直光はことあるごとに境界争いをするようになったという。源頼朝の前で行われた叔父直光との領地境をめぐる裁きのさ中、うまく弁明出来なかった直実は座を蹴って髻(もとどり)を切り捨て、出家まで一足飛びに気持ちが昂り止まず、走湯山の妙真尼の口からその名が出たという法然の前で膝を屈して泣くのである。「心ををこし、出家して蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、往生菩提の事をたづね申けるに、さやうの事は法然上人に、たづね申べしと申されれば、上人の御庵室に参じにけり。罪の軽重をいはず、たゞ念仏だに申せば往生するなり、別の様なし」この「罪の軽重」とは、直実が法然に己(おの)れの罪の告白をしたということである。この直実の「罪」の意識は、叔父との領地争いのことではなく、平敦盛の首を斬ったことへの「罪」である。「熊谷の次郎直実は、「よからん敵がな、一人」と思ひて待つところに、練貫に鶴ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂に鎧着て、連銭葦毛なる馬に乗つたる武者一騎、沖なる船に目をかけて、五段ばかり泳がせて出で来たる。熊谷これを見て、扇をあげ、「返せ。返せ」とまねきけり。とつて返し、なぎさへうちあぐるところを、熊谷、願ふところなれば、駒の頭を直しもあへず、おし並べて組んで落つ。左右の膝にて敵が鎧の袖をむずと押さへ、「首を掻かん」と兜を取つておしのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげなるが、薄化粧して鉄漿つけたり。熊谷、「これは平家の公達にてぞましますらん。侍にてはよもあらじ。直実が小次郎を思ふ様にこそ、この人の父も思ひ給はめ。いとほしや。助けたてまつらん」と思ふ心ぞつきにける。刀をしばしひかへて、「いかなる人の公達にておはするぞ。名のらせ給へ。助けまゐらせん」と申せば、「なんぢはいかなる者ぞ」と問ひ給ふ。「その者にては候はねども、武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実と申す者にて候」と申せば、「なんぢがためには、よい敵ごさんなれ。なんぢに合うては名のるまじきぞ。ただ今名のらねばとて、つひに隠れあるべきものかは。首実検のあらんとき、やすく知られんずるぞ。急ぎ首を取れ」とぞのたまひける。「あはれげの者や。ただ今この人討たねばとて、源氏勝つべきいくさに負くべからず。討ちたればとて、それによるまじ」と思ひければ、「助けたてまつらばや」と、うしろをかへりみるところに、味方の勢五十騎ばかり出で来たる。「直実が助けたりとも、つひにこの人のがれ給はじ。後の御孝養をこそつかまつらめ」と申して、御首掻いてんげり。のちに聞けば、「修理大夫経盛の末の子に、大夫敦盛」とて、生年十七歳にぞなられける。御首つつまんとて、鎧直垂をといて見れば、錦の袋に入れたる笛を、引合せに差されたり。これは、祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽の院より賜はられたりけるを、経盛相伝せられたりけるを、名をば「小枝」とぞ申しける。熊谷これを見て、「いとほしや。今朝、城のうちに管弦し給ひしは、この君にてましましけるにこそ。当時、味方に、東国よりのぼりたる兵、幾千万かあるらめど、合戦の場に笛持ちたる人、よもあらじ。何としても、上臈(じやうらふ)は優にやさしかりけるものを」とて、これを九郎御曹司(源義経)の見参に入れたりければ、見る人、聞く者、涙をながさぬはなかりけり。それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける。「狂言綺語のことわり」といひながら、つひに讃仏乗の因となるこそあはれなれ。━━あまり思ひのかなしさに、「敦盛の御形見、沖なる御船にたてまつらばや」とて、最後のとき召されたる衣裳、鎧以下の兵具ども、ひとつも残さず、御笛までもとりそへて、牒状を書きそへ、使ひに受け取らせ、小船一艘したてて、御船、修理大夫殿へ奉りけり。その牒状にいはく、直実謹んで申す。不慮にこの君に参会したてまつり、呉王、勾践がたたかひを得、秦王、燕丹が怒りをさしはさみ、直に勝負を決せんと欲するきざみ、にはかに怨敵の思ひを忘れ、すみやかに武威の勇みをなげうち、かへつて守護を加へたてまつるのところに、雲霞の大勢襲ひ来りて、落花の過ぐるときをなす。たとひ直実、源氏をそむき、初めて平家に参ずといふとも、彼は大勢、これは無勢なり。燓噲(はんくわい)かへつて養由が芸をつつしむ。ここに直実たまたま生を弓馬の家に受け、はかりごとを洛西にめぐらし、怨敵旗をなびかし、天下無双の名を得たりといへども、蚊虻むらがつて雷をなし、蟷螂あつまつて隆車くつがへすがごとし。なまじひに弓をひき、矢を放ち、剣を抜き、楯をつき、命を同朋の軍士にうばはれ、名を西海の波に流すこと、自他、家の面目にあらず。なかんづく、この君の御素意を仰ぎたてまつるのところに、「ただ御命を直実にくだし賜はりて、御菩提を弔ひたてまつるべき」よし、しきりに仰せ下さるるのあひだ、はからず落涙をおさへながら、御首を賜はり候ひをはん。うらめしきかな、いたましきかな、この君と直実、怨縁を結びたてまつり、嘆かしきかな、悲しきかな、宿縁はなはだ深うして、怨敵の害をなしたてまつる。しかりといへど、これ逆縁にあらずや。なんぞたがひに生死のきづなを切り、ひとつ蓮の身とならざらんや、かへつて順縁に至らんや。しかるときんば、閑居の地を占め、よろしく彼の御菩提を弔ひたてまつるべきものなり。直実が申状、真否さだめて後聞にその隠れなからんや。この旨をもつて、しかるべき様に申し、御披露あるべく候。誠惶誠恐、謹言。寿永三年(1184)二月八日 丹治直実。進上伊賀の平内左衛門尉殿(経盛の取次者)」(『平家物語』巻第九・第八十九句「一の谷」)直実は、「身分のよい平家の敵が一人でも現れてくれれば」と思って待機していると、絹の練貫に鶴をあしらった直垂に萌黄のぼかしの鎧を着け、まだらの葦毛に跨(またが)りやって来たひとりの武者が沖に浮かぶ船をめがけ五百メートル余を、波の中を走り泳がせて行く。敵に背を向ける卑怯に直実は扇を大きく広げ、「こっちに戻れ、戻れ」と大声で叫ぶと、馬は取って返し、波打ち際まで戻って来た。直実は待ってましたとばかりに自分の馬を寄せて並ぶとすかさず襲いかかって相手を馬から落し、両膝を使って相手の鎧の袖を押さえ、すぐさま首を斬ろうとして兜を無理やり取り払うと、まだ十六七の面立ちをした器量のよい上に薄く化粧までしていて歯を黒く染めている。直実は、この者は平家のご子息であらせられよう、侍のような身分の者とはとても思えない。自分の息子の小次郎がもしいまと同じようなことになったことを思えば、この者の父親もいまの自分と同じ思いであられよう。お気の毒だ、助けて差し上げよう、と思い直し刀に手を掛けたまま抜かずに、「どなた様のお子でいらっしゃいますか、お名乗り下さい。お助けいたします」と云うと、「お前は何者である」とお訊きになった。「名乗って、それですぐに知れるほどの者ではありません。武蔵を治める熊谷次郎直実と申します」と応えれば、「お前にとっては上等な、もったいない相手だぞ。お前は、こちらが名乗るような身分の者ではないが、名乗らなくても隠し通すことは無理であろう。この首を晒せばすぐに分かる。ぐずぐずしないでこの首を取れ」とおっしゃられた。健気(けなげ)なお方であることよ。いまこのお方ひとりを討ち取らなかったとしても源氏のこの勝ち戦がよもや負けるはずはない。であれば討ち取っても討ち取らなくても同じではないか、と思うと、「お助け申し上げたい」と咄嗟(とっさ)にそう思ったのであるが、気配で後ろを振り向くと味方の軍が五十騎ほどもやって来るのが見え、直実は思いを変える。わたしがいま見逃したとしてもこのお方はもはや逃れることはお出来になるまい。であれば、わたしが討ち取り、「必ずあなた様のご供養をいたしますから」と云い、その首を討ち取ったのである。後に知るところは、修理大夫経盛の末の子、大夫敦盛で、わすか十七歳であった。その御首を包むために、鎧と直垂の紐を解いてみると、脇を結ぶ引き合わせに錦の袋に入った笛が差してあった。これは笛の名手だった敦盛の祖父忠盛が鳥羽院から賜り、父経盛が譲り受けた「小枝」と申す笛である。直実はその笛を見て、「何とおいたわしいことだ。今朝、一の谷の城の内から聞こえていた演奏はこのお方でいらっしゃったのだ。いま、東国からやって来ている兵たちが何千何万いるのか見当がつかないが、合戦のさ中に笛を携えている者など間違ってもいまい。高貴な身分のお方は何と優雅であることよ」と云って、この笛を源義経との面会の時に持って上がったところ、見る者聞く者涙を流さぬ者はなかった。このことがきっかけで直実は出家をするのである。笛が奏でるような「音楽」は仏の教えに背くようなものとされているにもかかわらず、直実がこの笛に関わって出家したのは皮肉であり、だからこそ胸打たれるのである。━━直実は救いようもなく深く悲しんだので、「敦盛様の御形見を、沖に浮かぶ平家の御船にお届け申し上げたい」と思い、敦盛が身につけていた衣裳や鎧などの兵具もすべて残らず、それからあの笛ももちろん、書状を添え、使いの者に渡し、小船を一艘仕立てて修理大夫殿の元にお届けした。その書状にはこう書かれていた。私直実、謹んで申し上げます。はからずもあなた様のご子息敦盛君に相まみえ、中国の呉王と勾践のように仇敵と戦うということになってしまい、秦王と燕丹のように怒りにまかせ直ちに勝負を決めようと一旦は思ったのですが、どうしたわけかすぐに怨む心が失せ、敵を討つ気持ちなどどこかにいって、それどころかお守り申し上げようとまで思いましたところに、味方の軍が雲霞のごとく大勢で押し寄せて来て、花を吹き散らす風が過ぎるのを待つような状態になってしまいました。いまここで私直実が源氏に背いて平家に味方をしたとしても、多勢に無勢でしかなく、中国の燓噲という豪傑も養由もこのような時には人に秀でた自分の腕を慎むといいます。私直実もたまたま弓馬使いの家に生まれ、計略を一の谷にめぐらし平家を降伏させ、天下無双の名を得たからと云って、蚊虻が群がって雷のような音を響かせ、蟷螂が集まって車を倒してしまうのにはかなうわけがありません。なまじ弓を弾いて矢を放ち、剣を抜いて、楯ついて、命を味方の兵に奪われ、汚名を西海の波に流しても誰の面目にもならないということなのです。どうしても申し伝えたかったことは、あの時敦盛様のお気持ちをお尋ね申し上げたところ、「私の命をお前に下げ渡すから、菩提を供養せよ」とのお言葉を繰り返しおっしゃっていただく間に、思わす零しそうになった涙を堪え、御首を頂戴いたしてしまいました。うらめしいことです。いたましいことです。敦盛様と私直実が怨縁をお結びいたしてしまったこと、本当に嘆かわしく、悲しい限りです。恐らくは前世の因縁が深かったことが敦盛様を敵としてお命をお奪いいたしてしまったのです。しかしたとえそうだとしても人の命を奪ってこれを機に仏の道に入ることは逆縁ではないのか、どうして互いにこの世の生死の縁を絶って、極楽に咲く蓮のような身になることは出来ないのでしょう。このことが逆に真っ当な仏縁にはならないのでしょうか。しかしもしそうなるためであればひとり静かな庵を結び、敦盛様の菩提を供養申し上げるのは当然のことです。私直実のこの申状にお書きいたしましたことことがうそであるかまことであるかは、後々人の知るところとなるはずです。このような思いが曲ることなくお伝え出来れば幸いに存じます。哀心からかしこみ畏れつつ謹んで申し上げる次第。一の谷の戦いで海へ敗走する平家軍からはぐれたように、源氏方熊谷直実の目の前に現れた武者一騎は、背を向けた卑怯から呼び返されところを直実に組み伏せられ、後に平清盛の弟経盛の子、敦盛と分かるその者はまだ若く、己(おの)れの子と同じ年ごろであると思い、勝負の大勢が決まってしまっているようなこの時直実は身分のあるこの者を一瞬逃すことを思うが、やって来た味方軍を見、この者に逃げ道はないと思い、必ず供養をすると誓って殺害し、後にその遺体形見と共に父経盛に宛てた書状には、庇って抵抗したとしても命は守れず、自分も汚名に染まるだけでありそうするほかになかった、と書き送る。最早敦盛を殺す理由がないと思ったにもかかわらず直実はその首を刎ねた。高野山蓮華谷で敦盛を供養した直実が法然の前でうれし泣きをするのは、この九年後のことである。黒谷金戒光明寺の御影堂の前に、熊谷直実の「鎧掛けの松」と札の立つ松がある。寺が立てたその駒札にはこう書いてある。「熊谷次郎直実(1141~1208)は建久四年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗い、この松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。供養塔は法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられている。平成二十五年九月に二代目の古樹が枯れ、現在は三代目となります。平成二十六年三月。」熊谷直実がわざわざ血のついた鎧姿でやって来て法然に会う理由がないことを思えば、この新しく植え直されたという「鎧掛けの松」は幾重にも不思議な松である。直実の書状を読んだ敦盛の父経盛はこう直実に返信を送っている。「返牒にいはく、今月(二月)七日、摂州一の谷において討たるる敦盛が首、並びに遺物、たしかに送り賜はり候ひをはん。そもそも花洛の故郷を出で、西海の波の上にただよひしよりこのかた、運命尽くることを思ふに、はじめておどろくべきにあらず。また戦場に臨むうへ、なんぞふたたび帰らんことを思はんや。生者必滅は穢土のならひ、老少不定は人間のつねのことなり。しかりといへども、親となり、子となることは、前世の契り浅からず、釈尊すでに御子羅睺羅尊者(らごらそんじゃ)をかなしび給ふ。応身の権化、なほもつてかくのごとし。いはんや底下薄地の凡夫においてをや。しかるときんば、去(さ)んぬる七日、うち立ちし朝より、今日の夕べに至るまで、その面影いまだ身を離れず。燕来たりてさへづれども、その声を聞くことなし。雁飛んで帰れども、音信を通ぜず。必定討たるるよし、承るといへども、いまだ実否を聞かざるのあいだ、いかなる風の便りにも、その音信を聞くやと、天にあふぎ、地に伏し、仏神に祈りたてまつる。感応をあひ待つところに、七か日のうちにかの死骸を見ることを得たり。これ、しかしながら仏天の与ふるところなり。しかれば、内には信心いよいよ肝に銘じ、外には感涙ますます心をくだき袖をひたす。よつてふたたび帰り来たるがごとし。またこれ甦るにあひ同じ。そもそも貴辺の芳恩にあらずんば、いかでかこれを見ることを得んや。古今いまだそのためしを聞かず。貴恩の高きこと、須弥山(しゅみせん)すこぶる低し。芳志の深きこと、滄溟海かへつて浅し。進んでむくはんとすれば、過去遠々たり。退いて報ぜんとすれば、未来永遠たり。万端多しといへども筆紙に尽くしがたし。しかしながらこれを察せよ。恐々、謹言(つつしんでまうす)。寿永三年二月十四日 修理大夫経盛、熊谷の次郎殿 返報。」(『平家物語』巻第九・第八十九句「一の谷」)今月七日に摂州一の谷で討ち取られた敦盛の首を、それから遺物の品々確かにお送りいただきました。あの時から京の町を出て西海の波の上を船で漂うようになってからはもはや運命も尽きたと思っていたので、今度のことはいまさら驚くようなことでもありません。あるいは戦場に出ることを思えば、どうして再び戻って来るようなことを期待しましょうか。生者必滅はこの世の習い、こうして子が親より先に死んでしまうようにこの世に人の死ぬ順序などはないのです。そうは云っても親となり子となるということは、前世からの契りが浅からずあったと云うことです。お釈迦様は子の羅睺羅尊者をお愛おしみなられました。衆生を救うために身を変えてこの世に現れたお釈迦様ですらそうでありますから、まして卑しい俗なこの世のただ人は云うまでもありません。そうであればこの七日の間、出陣した朝のあの時から今日の夕べに至るまで、敦盛の面影はありありと眼裏に残っていたのです。燕がやって来て鳴き交わしても敦盛の声を聞くことはもう出来ないし、雁が飛び去って行ってもあの子に便りを出すことも出来ません。間違いなく討ち取られてしまったことを承知したと応えても、本当に事実かどうかを聞かないうちはどんなかすかな風聞でもいいからわが子の消息を聞かせてくれと、天を仰ぎ地に伏して神仏にお祈り申し上げておりました。そのお示しを待っていたところ七日目にあのような遺骸(なきがら)を目にすることが出来たのです。これは間違いなく仏天がお与え下さったのです。そうであれば心の中ではますます信心を肝に銘じるのですが、一方では親心が痛んで涙が止りません。敦盛の遺骸をお送りいただいたことは、わが子が帰って来たことと同じなんです。いや甦ったようなことなんです。あなた様のお心遣いがなければ私はあの子の遺骸を目にすることはきっと叶いませんでした。いままでこのような例を聞いたことがありません。あなた様の恩の高さに比べれば、須弥山の方がずっと低いくらいです。あなた様の志の深さに比べれば、滄溟海などずっと浅いと云わざるを得ません。御恩をお返ししようと思っても、過去の因果は遙か遠くに思え、未来にその機会を得ることもまたいつの日を期すべきか分かりません。書くべきことが多すぎて到底手紙では書き尽すことが出来ません。私の千々の思いをお察し下され。恐る恐る謹んで申し上げる次第。金戒光明寺の山門前や石段の途中や墓地の上り口に咲いている桜は、ことさら懐かしさを催させる。その懐かしさは数年数十年のような懐かしさではなく、数百年前に見たことがあるような思いにさせる懐かしさである。それはたとえば、経盛の「進んでむくはんとすれば、過去遠々たり。退いて報ぜんとすれば、未来永遠たり。」という言葉を思い起こさせる。

 「噛まなくちゃいけねえぜ、よく噛めよ。私は臥したまま頬杖を突いて眺めていた。手を出して猫の腹を撫でてみると、消化しない煮干のためにごつごつしているような気がする。それだけの話で、うとうとっとするとまた身体が重いので寝返りをうつ。そんなことをくりかえしているうち、ひょいと眼をさますと猫は居なくなっている。その雄ばかりでなく、いろいろな成猫が晩ごと入ってくるようになった。純粋の野良猫ばかりで、はじめて入ってくるような気色ではないから、私の留守中は自由に出入りしているのであろう。かといって居続けをするわけではない。ひと休みしてまた出ていくという按配で、私と同じように、不意に、ドサッと出窓に飛びつき、障子の隙間と鉄格子をすり抜けて、すうっと入ってくる。」(『生家へ』色川武大 中公文庫1980年)

 「政府、数十年かけ風評対策、処理水海洋放出方針、基金積み増しも」(令和4月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)