咳暑し茅舎小便又漏らす 川端茅舎。病気を抱えていた川端茅舎の自虐の句である。自分は暑さからも、小便を漏らしてしまう肉体からも逃れることが出来ない、ということを茅舎は嘆いているのでもなく、諦めているのでもなく、茅舎という者はそういう男なのだと…

京都府立植物園発行の「なからぎ通信」七月二十二日号にある「見頃の植物」のガガブタ、エボルブルヌピロサス、アリストロメリア、ルドベキア、ビロードモウズイカ、クササンタンカ、タイタンビカス、インパチェンス、ガイラルディアなどに混じって、ナス、…

花園妙心寺の塔頭退蔵院の墓地の裏を抜け、中門を潜ってすぐの「陰陽の庭」の片側、白砂の中の流れる楕円の形に苔を生やして石を立てたその「島」に、桔梗が数本花をつけていた。「陰陽の庭」の真ん中には鉄柱の傘で支えられた大きな枝垂れ桜が植わっている…

七月一日の空のまだ明るい夜の七時、四条通の月鉾町の、ビルに挟まれた二階屋の二階に白と赤の提灯が灯り、二階囃子と呼ばれる祇園囃子の稽古がはじまる。鉦笛太鼓の音色を「コンチキチン」といい表わすが、さほどに単純な演奏ではない。笛のピーヒャラと太…

姉小路通(あねやこうじどおり)を西に、JR二条駅を潜り、下ノ森通の先の住宅の立て込んだ中に、鳥居を十本ほど立てた小さな月光稲荷神社がある。この辺りにかつて徳川幕府の天文台、京都西三条台改暦所があり、月光という名はこの天文台と関わりがありそ…

梅雨に入るこの時期、花園妙心寺の塔頭東林院で「沙羅の花を愛でる会」が催される。六月十五日の朝日新聞DIGITALは「ナツツバキは、日本の寺院で、釈迦入滅の時に花を咲かせた「沙羅双樹」として植えられてきた。平家物語には無常の象徴として描かれ…

六月十日に、伏見稲荷で田植祭の神事があった。千本鳥居から逸れた斜面の下の沼地に、二つに分けた百坪の田と石垣の上に舞台があり、辺りを樹木で囲まれたこの「神田」の舞台に、十人ほどの神官と相撲の行司のような姿の者と、若苗色の「汗衫(かざみ)」と…

六月二日は天正十年(1582)、毛利軍と豊臣秀吉の戦いに出陣させられた明智光秀が、安土から上洛し手薄の人数で本能寺に泊まった織田信長を自刃に追い込んだ日であり、寺町通鶴山町の阿弥陀寺では「信長忌」の法要がある。信長と阿弥陀寺の関わりを『京…

紫野大徳寺の坂を上った西の離れの塔頭孤篷庵(こほうあん)の公開は七年振りであるという。孤篷庵は小堀遠州の寺である。小堀遠州は初代の伏見作事奉行で、二条城、後水尾上皇御所などを造作し、江戸期の作庭を語ればその筆頭に名が挙がる人物である。孤篷…

五月二十一日が「小満」であるという。「陰暦四月の中で、立夏の後十五日、陽暦の五月二十一日ごろにあたる。陽気盛んにして万物しだいに長じて満つるという意である。」(『カラー図説日本大歳時記』講談社1983年刊)たとえば、丸太町通から雙ヶ岡(な…

だるま寺、法輪寺のそばを流れる紙屋川の橋の上で、聞きなれない鳥の声を聞いた。聞きなれないというのはこちらが聞きなれないということにすぎないのであるが、声は下の底浅く流れる水の上に青葉を繫らせる桜の木からして、声の主は二度ばかり鳴いてだるま…

森の中の道ゆく葵祭かな 京極杞陽。今年も葵祭は中止となった。が、中止になるのは五月十五日の「路頭の儀」といわれる一キロの長さになる参向行列である。その葵祭のはじめの神事である下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)が五月三日に三年振りにあった。これは祭…

西大路通は平安京の野寺小路にほぼ重なるという。野寺小路は平安京の中心を南北に貫く朱雀大路から西に七つ目の通りである。が、その西半分はそもそも水捌けが悪く人の住まざる土地として長らく田畑や野っぱらであり続け、豊臣秀吉はこの通りのすぐ東を流れ…

東山蓮華王院、三十三間堂の南大門道を挟んだ東側に法住寺と養源院がある。車も通る二階のない平構えの南大門の片側に立つ築地塀は太閤塀と呼ばれている。これは道を北に上(あが)って七条通を越えた京都国立博物館の先にある方広寺の塀の名残りで、豊臣秀…

花筏(はないかだ)水に遅れて曲りけり ながさく清江。琵琶湖疏水の水は東からやって来て蹴上で分かれ、一方は南禅寺の中空を横切り、哲学の道が沿う流れとなって白川に注ぎ、もう一方は動物園、平安神宮一の鳥居の前を真っ直ぐ、ひと折れふた折れして鴨川に…

嵐山の方から渡月橋を渡り長辻通を北に下って、JR嵯峨野線の線路を越え、そのまま突き当たるところに嵯峨清凉寺がある。その元(もとい)は『源氏物語』の人物光源氏のモデルともいわれている嵯峨天皇皇子、左大臣源融(みなもとのとおる)の別業棲霞観(…

「武蔵国の御家人、熊谷の次郎直実(なおざね)は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善(前世でおこなった良い行い、現世で良い果報を受けるという)のうちにもよをしけるにや、幕下将軍(源頼…

御室仁和寺の東の築地に沿って緩く上る道の右は仁和寺の駐車場で、その上、仁和寺の東門の向かいに小さな門を構える蓮華寺がある。京都市が立てた駒札を写せば、「平安時代の天喜五年(1057)に後冷泉天皇の勅願により藤原康基が創建した。はじめ広沢池…

冬に鶯の「あの啼き声」を聞くことはない。鶯がどこかに行ってしまって聞かないのではなく、冬には「あの声」を出さないから聞かないのである。チャッ、チャッというのが冬の鶯の鳴く声である。俳句はこの声を「あの啼き声」とは別の、笹鳴という季語にした…

平成七年(1995)一月十七日に起きた阪神淡路大震災のその刻に便所に入っていた俳人永田耕衣は、神戸須磨の二階家が倒壊したにもかかわらずその狭い個室の中で命拾いをした。九十五歳だった耕衣は住まいを失って寝屋川の老人ホームに入り、このような句…

グーグルマップは北野天満宮の一の鳥居から真っ直ぐ南に伸びる御前通の一筋東の狭い通りを相合図子通と記しているが、昭文社の地図(2014年刊)では下ノ森通(しものもりどおり)となっている。下ノ森通という名はいまの上京警察署の辺りの門前一帯が下…

南で梅の花が咲く梅小路公園の北の隅にスケートリンクがある。大きさは縦五十メートル横十四メートルとある、四方をフェンスで囲っただけの野外のリンクである。平日の寒風の吹く午後に誰も滑っている者がいないのは、まだ開く時刻の二時になっていないから…

猫の子にかがみて諭(さと)す京言葉 中戸川朝人。猫は年中子を産むが、俳句では「猫の子」は春の季語ということになっている。わざわざ「京言葉」と詠む作者は、恐らく京都の者ではなく、京都に生まれ育った者にとっては普段自分が使っている言葉以外はすべ…

結核に罹り昭和二十二年(1947)に三十三歳で亡くなる流行作家織田作之助がその前の年、京都日日新聞に「それでも私は行く」という奇妙な題の小説を連載している。その書き出しはこうである。「先斗町と書いて、ぽんと町と読むことは、京都に遊んだ人な…

「節分の翌日が立春で、大槪二月四日の年と五日の年と、二年づつ續けて來る。未だ中々寒いが、禪寺等では立春大吉の札が門に貼られどこやらに春が兆す。陰暦によつた昔は立春卽ち新年で、元日のことを今朝の春・今日の春などといつたものであるが、今ではさ…

紫野大徳寺の塔頭高桐院は細川忠興(ただおき)三斎が父藤孝幽斎の菩提寺として建てたもので、忠興の歯を埋めた墓には正室だったガラシャも祀っている。この同じ墓所に興津(おきつ)弥五右衛門という男の墓がある。京都町奉行与力神沢杜口(とこう)が書き…

一月十四日の雪は、渡月橋の欄干にも岸に寄る屋形船の屋根の上にも嵐山や小倉山の木々の枝にも降り積もり、その降りしきるさ中、景色は雪の思うままに従いみるみる姿を変えたのであるが、雲が南の方から割れ出すと降る雪の劣勢は太陽に晒され、やがて静かに…

桜の見頃も終わる四月半ばの今宮神社のやすらい祭は、緋色の幕をぐるりに垂らした風流傘を先頭に赤と黒の長いつけ毛と緋色の長い羽織を着た少年らが股を広げた腰構えで跳ねるように舞うのが独特であるが、この風流傘を思わせる「人気笠」が、大和大路通を挟…

昨年の末に出たなかにし礼の短篇小説『血の歌』(毎日新聞出版)に、平成三十年(2018)四月に孤独死で世を去った森田童子が生れ出た時の様子が書かれている。なかにし礼が産婆を迎えに行っている間に、後に森田童子と名乗るなかにし礼の兄の次女、小説…

その日のちょうど正午近く西陣の外れにいると、西から東から消防車のサイレンが上がり、自転車の足を止めて聞けばそれはどちらもこちらに近づいて来る響きである。ほどなく南の方角からも聞こえて来る。五辻通(いつつじどおり)に何人か人が出ていて、通り…