陰陽師歩にとられ行冬至哉 炭太祇。野ゝ中に土御門家や冬至の日 炭太祇。「歩にとられ行」はおぼつかない足取り、いまにも転びそうな様子が目に浮かぶ。「土御門家」は陰陽師安倍晴明がその元(もとい)の公家である。どちらの句も江戸時代の陰陽師という落…

昭和五十四年(1979)に公開されたアンドレイ・タルコフスキーの映画『ストーカー』では、ある国のある場所に「何事」かが起り、その場所に派遣された軍隊が一人も戻って来ず、その地域は「ゾーン」と呼ばれ立入り禁止となる。が、いつしかその「ゾーン…

東大路通の今熊野商店街から泉涌寺通の緩やかな坂を上ると、泉涌寺総門に出る。総門を潜った参道は両側に石垣を備えた車がすれ違うことの出来る今熊野山裾の緩い坂で、これを上った泉涌寺大門の手前泉山幼稚園の先を左に折れ下ると、今熊野観音寺の朱塗りの…

日あたりてまことに寂し返り花 日野草城。「返り花」は、帰り花とも書き、狂い花、狂い咲きともいう。風が肌寒く感じられ一枚多く着込むようになった日日の、晴れの日が続いたある日、葉を落とした木々の中に一本花をつけている木がある。それは桜かもしれな…

山茶花や宿々にして杖の痩 廣瀬惟然。八十村路通が編集した『芭蕉翁行状記』に寄せた廣瀬惟然のこの句の「杖」の主は芭蕉である。自宅を処分し「おくの細道」の旅に出て以降、弟子や他人(ひと)様の宅を宿として来た芭蕉の杖も痩せ細り、あるいは杖のように…

瑞龍山南禅寺の境内のモミジはようやく緑から黄に変わりはじめているが、山門に隣る塔頭天授庵の塀を越えて枝を伸ばすモミジだけは際立って赤く、その色に誘われ内に入ると、白砂を敷いた方丈の庭の奥まって植えられた何本かのモミジは確かに赤々と色づいて…

「天地と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 波の上ゆ なづさひ来にて あら玉の 月日も来経ぬ 雁がねも つぎて来鳴けば 垂乳根の 母も妻らも 朝露に 裳の裾濡(ひづ)ち 夕霧を 衣手濡れて さきくしも あるらむ如く 出で見つつ …

賀茂川沿いを入り口まで続く欅並木が色づきはじめた京都府立植物園の林の中の小流れのきわに、町なかでは見かけない釣舟草が咲いていた。『日本大歳時記』(講談社1983年刊)には、「初秋の頃、茎の先に花梗を伸ばし、淡紅色の花を釣り下げる。舟を釣っ…

上京堀川通今出川下ルにある西陣織会館の玄関脇に「村雲御所跡」の石標が立っていて、京都市の説明はこうである。「村雲御所は、瑞龍院日秀(1533~1625)が、豊臣秀吉(1536~98)に追放され自害した豊臣秀次(1568~95)を追善するた…

東山月輪東福寺は明治十四年(1881)失火により仏殿、法堂、方丈などが焼け落ちて灰になり、その内の方丈は明治二十三年(1890)に再建される。庭師重森三玲が東福寺の方丈の庭に取り組んだのは昭和十三年(1938)である。重森三玲は明治二十九…

千本通は平安京の朱雀大路に重なる道筋で、羅城門から大極殿正門の朱雀門までのこの道筋を北へ、大内裏を貫いて通りの尽きるところは鷹峯(たかがみね)と呼ばれ、今宮通から先は鷹峯街道とも呼ばれている。この鷹峯街道の西を並ぶように金閣寺参道前から大…

西大路通と四条通の交差点、西大路四条には阪急京都線の西院駅(さいいんえき)と嵐電嵐山本線の西院(さい)があり、通りは繁華である。この交差点の西大路通を挟んだ四条通の北側の町名は、西院東淳和院町と西院西淳和院町といい、交差点東角にある高山寺…

北野天満宮の西回廊に奉納図画の展示があり、画用紙に描かれたある一枚の画を目にして軽い驚きを覚えた。「蚕を飼う真けんに」と題する画で、小学三、四年の部の仕切りに貼り出されていたと思う。驚かされたのはその構図が、子ども時代に描いた画とほぼ同じ…

北嵯峨の広沢池の西に広がる田圃に、案山子(かかし)が十体余り並んで立っている。色とりどりの古着を身につけた案山子の立つその辺りの田圃の稲は、「祝」という酒米で、収穫の後伏見の酒蔵で大吟醸「げっしょう」になるという。落つる日に影さへうすきか…

祖母山(そぼさん)も傾山(かたむくさん)も夕立かな 山口青邨。祖母山も傾山も大分と宮崎の県境にある山で、作者は遠い場所からこの二つの山の上に黒雲が湧いているのを眺め、そう思っている。あるいは句の中の二つの「も」は、どちらの山もということだけ…

咳暑し茅舎小便又漏らす 川端茅舎。病気を抱えていた川端茅舎の自虐の句である。自分は暑さからも、小便を漏らしてしまう肉体からも逃れることが出来ない、ということを茅舎は嘆いているのでもなく、諦めているのでもなく、茅舎という者はそういう男なのだと…

京都府立植物園発行の「なからぎ通信」七月二十二日号にある「見頃の植物」のガガブタ、エボルブルヌピロサス、アリストロメリア、ルドベキア、ビロードモウズイカ、クササンタンカ、タイタンビカス、インパチェンス、ガイラルディアなどに混じって、ナス、…

花園妙心寺の塔頭退蔵院の墓地の裏を抜け、中門を潜ってすぐの「陰陽の庭」の片側、白砂の中の流れる楕円の形に苔を生やして石を立てたその「島」に、桔梗が数本花をつけていた。「陰陽の庭」の真ん中には鉄柱の傘で支えられた大きな枝垂れ桜が植わっている…

七月一日の空のまだ明るい夜の七時、四条通の月鉾町の、ビルに挟まれた二階屋の二階に白と赤の提灯が灯り、二階囃子と呼ばれる祇園囃子の稽古がはじまる。鉦笛太鼓の音色を「コンチキチン」といい表わすが、さほどに単純な演奏ではない。笛のピーヒャラと太…

姉小路通(あねやこうじどおり)を西に、JR二条駅を潜り、下ノ森通の先の住宅の立て込んだ中に、鳥居を十本ほど立てた小さな月光稲荷神社がある。この辺りにかつて徳川幕府の天文台、京都西三条台改暦所があり、月光という名はこの天文台と関わりがありそ…

梅雨に入るこの時期、花園妙心寺の塔頭東林院で「沙羅の花を愛でる会」が催される。六月十五日の朝日新聞DIGITALは「ナツツバキは、日本の寺院で、釈迦入滅の時に花を咲かせた「沙羅双樹」として植えられてきた。平家物語には無常の象徴として描かれ…

六月十日に、伏見稲荷で田植祭の神事があった。千本鳥居から逸れた斜面の下の沼地に、二つに分けた百坪の田と石垣の上に舞台があり、辺りを樹木で囲まれたこの「神田」の舞台に、十人ほどの神官と相撲の行司のような姿の者と、若苗色の「汗衫(かざみ)」と…

六月二日は天正十年(1582)、毛利軍と豊臣秀吉の戦いに出陣させられた明智光秀が、安土から上洛し手薄の人数で本能寺に泊まった織田信長を自刃に追い込んだ日であり、寺町通鶴山町の阿弥陀寺では「信長忌」の法要がある。信長と阿弥陀寺の関わりを『京…

紫野大徳寺の坂を上った西の離れの塔頭孤篷庵(こほうあん)の公開は七年振りであるという。孤篷庵は小堀遠州の寺である。小堀遠州は初代の伏見作事奉行で、二条城、後水尾上皇御所などを造作し、江戸期の作庭を語ればその筆頭に名が挙がる人物である。孤篷…

五月二十一日が「小満」であるという。「陰暦四月の中で、立夏の後十五日、陽暦の五月二十一日ごろにあたる。陽気盛んにして万物しだいに長じて満つるという意である。」(『カラー図説日本大歳時記』講談社1983年刊)たとえば、丸太町通から雙ヶ岡(な…

だるま寺、法輪寺のそばを流れる紙屋川の橋の上で、聞きなれない鳥の声を聞いた。聞きなれないというのはこちらが聞きなれないということにすぎないのであるが、声は下の底浅く流れる水の上に青葉を繫らせる桜の木からして、声の主は二度ばかり鳴いてだるま…

森の中の道ゆく葵祭かな 京極杞陽。今年も葵祭は中止となった。が、中止になるのは五月十五日の「路頭の儀」といわれる一キロの長さになる参向行列である。その葵祭のはじめの神事である下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)が五月三日に三年振りにあった。これは祭…

西大路通は平安京の野寺小路にほぼ重なるという。野寺小路は平安京の中心を南北に貫く朱雀大路から西に七つ目の通りである。が、その西半分はそもそも水捌けが悪く人の住まざる土地として長らく田畑や野っぱらであり続け、豊臣秀吉はこの通りのすぐ東を流れ…

東山蓮華王院、三十三間堂の南大門道を挟んだ東側に法住寺と養源院がある。車も通る二階のない平構えの南大門の片側に立つ築地塀は太閤塀と呼ばれている。これは道を北に上(あが)って七条通を越えた京都国立博物館の先にある方広寺の塀の名残りで、豊臣秀…

花筏(はないかだ)水に遅れて曲りけり ながさく清江。琵琶湖疏水の水は東からやって来て蹴上で分かれ、一方は南禅寺の中空を横切り、哲学の道が沿う流れとなって白川に注ぎ、もう一方は動物園、平安神宮一の鳥居の前を真っ直ぐ、ひと折れふた折れして鴨川に…