市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅から地上に出てすぐのところに、通りすがりに一瞬横目に置いただけであるが、もう一度見たい場所があった。台風11号が去った朝の空に、幾つもの綿雲の群れが浮かんでいた。知恵光院横の橘公園で黒づくめの七つ八つの女の子が、鉄棒で逆上がりをやっていた。蹴り上げ、一回りして地に着くまで、両膝がまっすぐピンと伸びている。両足のその揃えた姿勢に、注意を払っていることが見てとれる。回転の度に子どもの目に空が、世界が逆さまに映っているはずである。アキアカネが顔すれすれに飛んで行く。烏丸中学の正面敷地が切れた、一斤染色立葵が咲く左の露地奥を、今度はじっくり眺めた。見えているのは二階建の建物の一部である。中学のブロック塀と民家のブロック塀に挟まれた突き当り、樹木の緑を後ろに、瓦葺の入母屋造りにもかかわらず、細かい窓格子が洋館のような雰囲気を漂わせている。壁はのっぺりとした平面で、練色が煤けところどころにシミが浮き出ている。露地を進むと、壁の端に掛かった、ほとんど消えかかっている看板の縦の文字を読むことが出来た。S田耳鼻科。一、二階の同じ形の窓の内に白いカーテンが下りている。露地は右に折れ、足を向けると、建物の正面は曇りガラスを嵌めた扉の、窪みを切った入り口になっていた。並びに同じような作りの建物がもうひと棟建っている。玄関表札にS田と出ている。病院と医者の住宅だった。病院も住宅も、壁にも窓にも凝った施しはない。しかしある時代の庶民住宅から二歩も三歩も距離を取った、その隔たりが誰にでも伝わるような洋風なのである。表現を変えれば、戦前を舞台にした映画ドラマに出て来そうな、お誂え向きの佇まいなのである。俗受けのする建物の印象なのである。そのようなものを気に留め、わざわざ見に来たのである。そうであっても、建物の値打ちが地に堕ちたわけてはない。往時のS田氏の、この建物に対する持っていたであろう理想は、いまも見る者にある憧れと畏敬の念を抱かせるのであるから。入り口に明りが点っていた。数分その場に立っていた。どの窓のカーテンもぴくりとも動かなかった。病院からほど近い応仁の乱のきっかけの舞台となったという御霊神社の境内で、買って来たちぎり餅を食った。子どもが捕虫網で蝉取りをしていた。石の縁に座っているその子どもの祖父らしいごま塩短髪の男が、食い終えたアイスキャンディの棒をいつまでも手に持っていた。御霊神社の参道口に、猿田彦大神社があった。鳥居脇の説明札を読むと、創建は詳らかではない、と書いてあった。詳らかではない、とは「神」に相応しい言葉である。猿田彦、道案内の神。俗の方へ。

 「そうです、わたくしは自由を求めたのではありません。出口だけを求めたのです。」(フランツ・カフカ 吉田仙太郎訳「ある学会への報告」『カフカ自撰小品集Ⅱ』高科書店1993年)

 「「地下水放出設備」申請 第1原発東電 試験くみ上げ」(平成26年8月12日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)