俗を続ければ、雨女という言葉があり、雨男という言葉がある。言葉にはそれぞれに意味が備わり、片や、その言葉は無意味である、という云われ方もする。あるいは言葉は音を伴う。言葉になっていない音の羅列のようなものもある。音の羅列のようなものでも、何かの意味を表わしている場合もある。道具としての言葉、という云い方をする者もいる。その場合は、スコップやねじ回しと言葉が同等に並ぶのであろう。云うまでもなくスコップもねじ回しもまた一つの言葉である。雨、女、男のそれぞれの意味はどの辞書にも書いてある。雨女、雨男となると市販の辞書の掲載はあやしくなる。映画『レインマン』のレインマンはマイ・メインマンと意味が転じた。清水寺の千日詣りに行った。一日のお参りが千日のご利益に化けるという。履いていた靴を渡されたレジ袋に入れて手に提げ、献灯の蝋燭だけが点る薄暗い本堂の中に入る。布を敷いた、岩のように硬い床の凹凸が足の裏に直に伝わって来る。途中、盆の中にお守り札とそれを入れる封筒が並べて置いてあり、一人一枚と云う係の指示声があったが、二枚取って仕舞い、封筒も二つ頂き、外に出る。下の茶屋でひやし飴を飲み、参道坂を下りはじめて、雨が来た。坂を上り下りしていた傘のある者もない者も、土産物屋に駆け込んだ。雨は容赦のない降り方で、灰色い空に止む気配はなかった。その場に居合わせてしまった参拝の男、女は、扇屋和菓子屋雑貨屋の軒下で、坂を流れ下る川のような雨水を呆然と見るしかなかった。日が落ちた夜八時、雨は上がり、五山の送り火に火が点った。初めて見る者には、言葉でも意味でもないものとして、遠くで火が燃え、火は音を持たず、まだ燃えている送り火に背を向け歩き出した時、隣をしなやかに還ってゆく霊のことを考えないでもなかった。

 「それだから時間および空間を、物自体の現実的存在に属する規定と見なす説に依然として固執している人達が、この場合に行為の宿命性をどのようにして回避しようとするのかを、私はついに理解し得ないのである。」(カント 波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳『実践理性批判岩波文庫1979年)

 「医療機器生産14%増 県内前年比、産業復興の柱好調」(平成26年8月17日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)