朱雀第二小学校の校庭で、裸足になった生徒たちが組み体操の練習をしていた。教師がホイッスルを鳴らすと、散らばっていた生徒たちがもぞもぞとピラミッドを作った。流れている音楽は、生徒の動きとは無関係のようだった。下で屈んでいる生徒の背中の感触は、忘れ得ぬものかもしれない。東寺裏の洛南高校の校庭でも百人を超える生徒たちが、体操でもないダンスとも踊りとも違う動作の練習をしていた。高揚を煽るような音楽に合わせ、全員が同じ動きを次々に行っていく。ひと繋がりの動きの終わりに、一斉に掛け声をかけ、同じ姿勢でそのまま留まる。何度も同じ動作を繰り返した手足が、次第に違う動作をしなくなる。違う動作をしないことで不自由を感じるわけではない。この場合不自由は、同じ動作を出来ないことで感じるのである。東寺平安京造営と共に羅城門の東に置かれた寺であるが、羅城門も同時に西に置かれた西寺も地上にない。東寺は、空海嵯峨天皇から譲り受け、教王護国寺と名を変えて生き残った。水上勉の随筆「六孫王神社界隈」に、「東寺はこの六孫王神社とはす向かいに、向きあわせてある広大な本山だった。云々。私の住んだ当時(昭和十年代前半)は、境内も荒れ放題で、仏殿も、宝物殿も、朱塗りの大柱や、仰ぐと巨大な扇子をひろげたようにみえる軒垂木の波も、鳩の糞がこびりついて、塗料もはげたままで、五重の塔の足もとなどは、しげるにまかせた夏草が、秋末までのび放題で、いちめん、雑草が蔽っていた。」とある。確かに広大である。オッケーと云いながら携帯電話片手に僧侶が乗り込んだ軽自動車と、何本ものプロパンガスを積んだトラックが白けた砂利の地面をすれ違って行く。そのトラックが巻き上げた土埃の中を、杖に鈴をつけた老婆が歩いていた。薬師如来、日光月光菩薩持国天増長天多聞天他を安置する金堂、講堂を外から巡った。鳩はいたが、軒垂木は糞で汚れてはいなかった。大日如来が座す五重塔は、境内の外れから眺めた。南大門の裏の日陰で、初老の夫婦が持ってきた昼飯を並んで食っていた。オン ベイシラマンダヤ ソワカと札の下がった毘沙門堂の脇のベンチで、タナベという男が、タナベですがと名乗って、部品が間に合った云々という話の電話を何箇所にも掛けていた。その合間に、隣のサングラスをかけた女に何か承諾のような言葉を掛けた。女は不満そうな口調で一言返した。タナベという男は、現世利益を手にしたのかもしれない。女に利益の不満があったとしても。空海が住居としていたという御影堂の中で、先ほどの杖に鈴をつけた老婆がしみの浮いた手を合わせ、薄く開いた口の奥で般若心経を唱えていた。表でも、やって来た若いカップルが手を合わせて行った。親子のような二人の女は、前のカップルよりも長く手を合わせた。空海は『即身成仏義』という教典を著している。「この身を捨てずして、神境通を逮得し、大空位に遊歩して、而も身秘密を成ず。」生きて成仏する。出来るものならやってみよ、と続けるのは意地の悪い読み方か。校庭で生徒たちが作ったピラミッドは、教師のホイッスルが鳴るまでの間崩れなかった。

 「涅槃に達するとはどういうことか。ただ私たちの行ないがもはや影を落とさなくなるにすぎません。」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 野谷文昭訳『七つの夜』みすず書房1997年)

 「「原発」争点にならず 福島で6氏が知事選・公開討論」(平成26年10月3日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)