船岡山の登り口は八ヶ所あり、その内の三ヶ所は建勲神社の参道口である。船岡山は、平安京朱雀大路を内裏を越えて延ばした線上の北にあり、清少納言が、岡は舟岡、と褒めたたえた平安京の裏山である。山の西側は葬りの地、蓮台野である。西行は、舟岡の裾野の塚の数添へてむかしの人に君をなしつる、と船岡山に故人の墓を加えたと詠っている。船岡山は標高111.7メートルである。西の山裾は船岡山公園の広場になっていた。広場の登り口の前の店で、女の店員が灰色い犬の毛を刈っていた。刈りあがった犬は頭としっぽの毛を残して、裸同然にやせ細った。東京中野に住まいがあった時、なついた近所の飼い猫が、胴の半分の毛を刈られた姿になったことがあった。それからしばらく見かけなくなり、死んだことを飼い主のしていた立ち話で耳にした。その猫に墓が立ったかどうかはわからない。広場の遊具で休日の午後を、子どもらが親と遊んでいた。髪を染めた親が鬼の真似をして、逃げる子どもを追いかけた。頂上までの登り道は、途中まで広場のへりに沿って出来ていた。鬼は山から下りて来るとは限らない。山から下りて来ない鬼であっても、人間のことは知っていて、その場合の人間世界は、鬼の目の位置で見た人間世界である。紅葉したモミジの枝越しに見下ろした広場の様子が、鬼が垣間見ている人間世界のように目に映った。船岡山の頂上は細長く平らで、眺望が展け、南の京都タワーまで見渡すことが出来る場所だった。頂上の端に、波のような形の衝立で囲まれた石碑のようなものが建っていた。国旗掲揚台だった。掲揚台は竿を立てる溝をセメントで塞がれ、上から木の枝に覆われていた。かつてこの山の頂に、国旗を掲げておく理由を作ったことがあったのである。小道を東に下ると石段が現れ、上ったところが織田信長を祀る建勲神社だった。境内は落ちたモミジの葉がそのままになっていた。内に明りが点いた社務所から笑い声がしていた。男二人の声だった。飯島晴子の、春の蛇座敷のなかはわらひあふ、という不気味な句を思い出した。この句の不気味さは、蛇の世界と別の場所に人間世界があるとういうところにあった。境内を一回りするうちに、西に大きく日が傾いた。小道を戻ると、公園の便所の脇の叢で、中学生がオモチャの拳銃で撃ち合いをしていた。船岡山応仁の乱で、山名教之、一色義直の西軍が陣を張った場所だった。広場は、人が入れ替わっていた。子どもが姿を消し、若い男三人がキャッチボールのグローブの音を響かせ、高校生が遊具の周りをぶらついていた。登り口の店の明りに、犬も店員もいなかった。死んだ猫が、泥足で部屋の中に入って来たことがあった。猫は本棚を跨いで歩き、叱るとすぐに出て行った。猫の泥足の跡が、新雪の足跡のように本の上に残っていた。いまもその足跡は残っている。

 「しかしまだ全然駄目だ。全部間違っている。糞、明日こそどうしても顔をつかまえなければならない。」(矢内原伊作ジャコメッティみすず書房1996年)

 「汚染水の確実除去要望 トレンチ止水で廃炉監視協」(平成26年12月3日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)