後白河法皇は、院政執行三十余年の間、三十四度熊野を詣でている。異常な回数である。熊野は浄土と見なされていた。浄土は、誓願修行の果ての悟りの世か、悟りそのもの、あるいはその死後に待つ西方の地のことである。熊野は、観音菩薩の住むという補陀落浄土だった。後白河法皇は、そのすでに浄土の地である熊野に、三十四度足を運んだ。浄土で浄土を願ったのである。「應保二年(1162)正月廿一日より精進を始めて、同廿七日たつ。二月九日本宮奉幣をす。三御山に三日づゝ籠りて、其あひだ千手經千巻を轉讀し奉りき。同月十二日新宮に參りて奉幣す。其次第常の如し。夜ふけて又のぼりて、宮めぐりの後、禮殿にして通夜千手經を讀み奉る。暫しは人ありしかど、片隅にねぶりなどして、前には人も見えず。(源)通家ぞ經まくとてねぶりゐたる。やうやうの捧幣などしづまりて、夜中ばかり過ぬらんかしと覺えしに、寶殿の方を見やれば、わづかの火の光に、御正躰の鏡所々輝きて見ゆ。あはれに心すみて、泪もとゞまらず。なくなく讀ゐたるほどに、(源)資賢つやしはてゝ、曉方に禮殿へ參りたり。今様あらばや、只今面白かりなんかしとすゝむれば、かたまりてゐたる。すぢなくて、みづからいだす。よろづの佛よりも、千手のちかひぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに、花咲みなると説い給ふ。押返し押返したびたび歌ふ。資賢、通家つけてうたふ。心すましてありしけにや、常よりもめでたく面白かりき。」(『梁塵秘抄口傳集巻第十』岩波文庫1941年刊)千手経は、千手千眼自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経のことである。後白河法皇平清盛に命じて建てた蓮華王院三十三間堂に、一千一体の千手観音立像が壇上に並べられている。千は多いという云いではなく、千手観音の実数である。その実数の一千一体は、多数という意味を示すのではなく、一千と一という厳粛な事実を示している。眼前の、その一千一体の千手観音像の物量は、厳かで滑稽な生真面目を堂内に漂わせていた。その生真面目を後白河法皇は、観音菩薩浄土の説得手段としたのである。この生真面目さには先例があった。後白河法皇の父鳥羽上皇が、平清盛の父忠盛に同じ数一千一体の観音を安置した観音堂得長寿院を造らせていた。後白河法皇はこの観音堂を踏襲し、模倣したのである。三十余年に及ぶ院政も、白河上皇鳥羽上皇の模倣であった。模倣政治を行っている間に、平清盛が死に、木曽義仲が死に、安徳天皇が死んで平家が滅び、源義経が死に、源頼朝の世となった。後白河法皇も死に、枕元に巷の歌謡を拾い集めた『梁塵秘抄』が残った。熊野での精進修行の間にも自ら歌った今様の歌本である。よろづの佛の願よりも、千手のちかひぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲みなると説い給ふ 三九。佛は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあはれなる、人の音せぬ曉に、ほのかに夢に見え給ふ 二六。空より花降り地は動き、佛の光は世を照らし、彌勒文殊は問ひ答へ、法花を説くとぞ予(かね)て知る 五七。法華は何れも尊きに、此の品きくこそあはれなれ、尊けれ、童子の戯れ遊びまで、佛に成るとぞ説ひ給ふ 六七。氷を敲きて水掬び、霜を払ひて薪採り、千歳の春秋を過ぐしてぞ、一乗妙法聞きそめし 一一二。法華經持てる人毀(そし)る、それを毀れる報には、頭七つに破れ裂けて、阿梨樹(ありず)の枝に異ならず 一六二。極楽浄土は一所、つとめなければ程遠し、我等が心の愚にて、近きを遠しと思ふなり 一七五。いちひくやよれるさね葛(かづら)、繰れども繰れども尽きもせず、やさうの池なる花蓮、拘戸那(くしな)城にぞ開けたる 一九二。はかなき此の世を過ぐすとて、海山かせぐとせし程に、萬の佛に疎まれて、後生我が身をいかんせん 二四〇。鷲の行ふ法華經は、鹿が苑なる草の枕、草枕や、白鷺が池なる般若經、鶴の林の永き祈なりけり 二八九。遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそ動かるれ 三五九。山城茄子は老いにけり、採らで久しくなりにけり、あこがみたり、さりとてそれをば捨つべきか、措(お)いたれ措いたれ種採らむ 三七二。月影ゆかしくは、南面に池を掘れ、さてぞ見る、琴(きむ)のことの音ききたくば、北の岡の上に松を植えよ 三七九。舞へ舞へ蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴(くゑ)させてん、踏破(わら)せてん、真(まこと)に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん 四〇八。波も聞け小磯も語れ松も見よ、我を我といふ方の風吹いたらば、いづれの浦へも靡きなむ 四五七。山伏の腰に着けたる法螺貝の丁と落ち、ていと割れ、砕けて物を思ふ頃かな 四六八。書き残さなければ消えてしまうことが、その動機とするならば、そうかもしれない。「そのかみの十餘歳の時より今に至る迄、今様を好みて怠る事なし。遅々たる春の日は、枝にひらけ庭にちる花を見、鶯のなき時鳥の語らふ聲にも其の心をえ、せうせうしたる秋夜、月をもてあぞび、蟲の聲々に哀をそへ、夏は暑く冬は寒きを顧みず、四季につけて折を嫌はず、晝はひねもすうたひ暮し、夜はよもすがら唄ひ明さぬ夜はなかりき。夜は明れど戸蔀をあげずして、日出るを忘れ日高くなるをしらず、其聲をやまず。大方夜晝をわかず、日を過し月を送りき。」(『梁塵秘抄口傳集巻第十』)院政を模倣する最高権力者の自尊は自尊の中に隠れ、虚栄は虚栄の中に紛れ込む。熊野詣の心の綻びも、信仰心に被われる。「樂音聲にてもゆうびにてのどやかにさはりなく、かんのふなるをさい上とするなり。おもしろくして花やかなるはその實にあらじ。すなおにして音せいの内にかん心するをよしとしるべし。たとへば哥にも古今集の序のごとし。げいのうはみなみなそれにしかり。又樂にてもをなじふりにしてすなほにするをかんのをとすべしとおもふべしと、かたりつたへはべりけるよしを、老父かたりしよしをつたへはべりきと、資賢卿語きかされしぞ。覚悟にしるし置ぬ。」(『梁塵秘抄口傳集巻第十四』)覚悟に、記憶するの意味があろうが、これは強い心の構え、決意をもって書き記したとすべきである。後白河法皇にとって今様だけが唯ひとつ、誰からもどのような理由をもってしても奪われることのないものであったはずであろうから。三十三間堂一千一体の観音像の最前列に、二十八部衆と呼ばれる守護像が並んでいる。その一体一体の前に浄財箱が置かれ、手押し車を押した腰の曲がった白髪の双子の老女が、その一つ一つの浄財箱に幾ばくかの銭を入れ、手を合わせて行った。双子の老女は、同じ灰桜色のナイロンの上着を羽織っていた。双子であるそのふたりは、一千一体の似た顔つきの観音の存在に引けを取らなかった。横から見た観音像の指先は、思いの外繊細だった。像の後ろの障子の外で、集った晴着袴の新成人が通し矢を射っていた。

 「あたしのした最初の旅行。あたしは六歳だった、五歳だったかもしれない。」(ミシェル・ビュトール 清水徹訳『合い間』岩波現代選書1984年)

 「県がALPS改善要請 汚染水処理、対策難航浮き彫り」(平成27年1月24日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)