ヨーロッパと云う時、まずは地球上のある地域を示すことであり、縮尺した地図としてその地域を表わすことが出来る。地図で表わされたその地域には、線を引いて区切りを設けた幾つかの国の名が散らばっている。その国の名は具体的であるが、それだけでは、その国々を囲い込むヨーロッパは、具体的な姿を現わさない。盲人たちが象の鼻や耳や腹や足を触って、太い綱であるとか団扇であるとか壁であるとか柱であると応える話には、説話としての作為が施されているが、触って知り得た象の印象は、そのどれもが紛れもなく象であり、象以外のものを表わしていない。ジョン・フォックスの1981年のアルバム『ガーデン』に、「雨上がりのヨーロッパ」という曲があった。雨上がりの、と言葉を前に繋げただけで、ヨーロッパは不思議な、妙に鮮やかな輪郭をその言葉の上に持った。金魚の赤をちらしては雨ふり止まず 尾崎放哉。晩年の放哉の句には見ることのない技巧の優った句であるが、梅雨時の子ども時代の気分がここにはある。露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦。この句は、つげ義春の漫画『ねじ式』の一場面を下敷きにしている。主人公が乗り込んだ蒸気機関車が風鈴を鳴らし、突如露地裏に到着する場面である。金魚には露地裏も夜汽車も区別はつかない、と人間は思っている。が、金魚の目には、露地裏を、動く夜汽車の如くに見えているかもしれない。この句の露地裏は、京都以外ではあり得ない。雨の上がった夜の通りの奥で、祇園囃子の音がしていた。浴衣姿の背丈の違う二人の子どもが、露地を曲がって現れ、並んで新町通を上って行く。二人の腰の帯に、笛を包んだ袋が差してある。四条通を渡り、子どもが着いたのは、南観音山の稽古場である。通りに面したビルの入り口の前で、子どもと同じ浴衣姿の者たちが、笛鉦太鼓を鳴らしている。二人の子どもは一旦ビルの中に消え、出て来て笛の列の後ろに着いた。子どものひとりが、笛を横に構える前に、大きく肩で息を吸って吐いた。

 「半年前には、たしかにこんなものはなかった。しかし、それなら以前はここがどんな場所だったか、憶ひ出してみようとするのだが、浮かんでくる景色は何もない。」(「雁」安岡章太郎『酒屋へ三里豆腐屋へ二里』福武書店1990年)

 「5市町村で夏期特例宿泊 避難指示解除、居住制限両区域」(平成27年7月11日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)