山科毘沙門堂の障壁の浄土絵には、蓮池の上に迦陵頻伽が漂い舞っているのであるが、浄土に車で行って、その帰り道のガソリンが足りないかもしれないことに気がつく。迂闊であると思う。四方八方から人、事が入り混じり来る日常にあって、その全てに意識を保つことは困難である。浄土が、仏の住む清浄な国、あるいは死後に待つ西方の地であるならば、その広大無辺の浄土景色を目にしたとしても、大抵の日常生活者は、そのまま浄土に留まることはしない。ドラマの人物は、間に合うか間に合わないかという思いをさせられる。出来るか出来ないか。どうすれば問題は解決するのか、しないのか。主人公は給油所のない山の中で車のガソリンの量が少ないことに気づくが、次々に遠回りせざるを得なくなる事柄にぶつかる。ついには車のエンジンが止まり、主人公は車を捨てて歩き出す。歩くことが、崇高な行為に見えてくる。福島浄土平に登った車のガソリンが覚束なくなる。磐梯吾妻スカイラインは、麓まで一直線に下ってはくれない。車を止めれば、眼下に雄大な景色が広がっている。地を這う獣は、目の前の景色に圧倒されることはない。景色は、人が陥る罠である。スカイラインは尽き、車は給油所に滑り込む。給油所が、浄土に見える。この思いも罠である。翌日の給油所は、ただのありふれた給油所に過ぎない。罠に嵌れば、浄土が見える。太宰治の云う「どにか、なる」は、いまもって捨てがたい言葉である。

 「人間どもに挑みかかる烈しい象を見た。《象》を征服した気高い少年を見た。象と少年を包み込む高い《森》を見た。世界は、良かった。大地と風は、荒々しかった…花と蝶は美しかった。」(藤原新也『印度放浪』朝日文庫1993年)

 「南相馬市が汚染土仮置き場返還へ 代替地確保進める」(平成27年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)