嵯峨広沢池(ひろさわのいけ)は遍照寺池とも呼ばれ、月の名所である。『都名所図会』は、抒情の墨にたっぷり浸した筆でこう記す。「いにしへの人は汀に影たえて月のみ澄める廣澤のいけ 源三位頼政。中秋の月見んと、都下の貴賤、池の汀に臨んでよもすがら盃をめぐらし、千里を共にしてくまなき空のけしきに、月も宿かす廣澤の池と詠みしも、今更に千々(ちぢ)に物悲しく、風は繊雲を掃(はら)って浄(きよ)く、露は月明に降りて寒し。」八月十六日には、五山の送り火の一つ鳥居形が曼荼羅山に点り、池に流し燈籠が浮かぶ。水上勉は『京都遍歴』(立風書房1994年刊)で、僧修業時代の広沢池の想い出を語っている。「遍照寺山が、麓へくるのにやわらかな稜線となり、池畔は葦やよしが茂って、いつも、かやぶき屋根の一軒家が、右手の高みに望まれる。山はふかい赤松が茂って、どこにもはげたところがなく、濃緑のびろうどをかぶせたようだ。大覚寺、釈迦堂の甍がしずんで、正面に、愛宕山、小倉山、それから岩田山と、嵯峨の背山がならんでゆく。秋末だったか、冬のさなかだったかわすれたが、池畔を歩いている時に、急に眼前に、乳いろのうすいビニールの帯をひくみたいに、愛宕山がけむってきて、小倉山、岩田山へとしぐれが走る。しぐれかとみるうちに、それは粉雪となり、眼の前をななめに降りかかり、わが身もろともそれにつつまれたかと思うまに、すぐにあがってしまうのだった。雪もしぐれも北から吹いてくる風にのって、山を染めぬいてゆくのだが、染めたあとから、あがってゆくけしきは、何ともいえぬ不思議なまぼろしでもみたようで、その時に浮いていた嵯峨の家々のけしきが、いまも瞼をはなれない。」池の畔に、繋がれたボートがいくつも浮かんでいる。ボート小屋の小窓から折った肘を突き出し、中で、白髪まじりの髪の女が煙草をふかしている。ボートは一隻も、池に出ていない。池の南を沿う一条通の、山桜の並木の葉の何枚かは色づいているが、池を囲む山々が紅く染まるのは暫く先である。ボート小屋の斜向かいの茶屋にも、客の姿はない。店の者が屈み込んで、店先の草毟りをしている。時季に外れた場所であっても、九月の衰えた日の光は注ぎ、ここを何もないとは云わせない。ボート小屋の白髪の女は、池に目を向け、何かを見ている。茶屋の者も手を休め、池の向こうに目を遣っている。池の西の田圃で、稲刈りがはじまっている。田圃の畦のそちこちに、曼珠沙華が咲いている。見ているものが、眼の前のものとは限らない。刈り取られ、脱穀機から吐き出された米粒が、緑色をしていた。手で掬ったその米粒を、宝石のようだと思った時があった。

 「往來を歩いてゐて、歩道の敷き石の一つ一つがあれほど克明に見えることは、もう當分ないに違ひない。澄み渡つた靑空にも無限に影があつて、それが我々にとつて苦の種にもなり、魅力でもあつた。」(吉田健一『感想B』垂水書房1966年)

 「環境省、問われる姿勢 除染袋管理不備、地元目線「足りず」(平成27年9月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)