『京内(きやううち)まいり』(宝永五年(1708)刊)に、「禁中 南北百九拾八間東西百貮拾五間半凡人(ほんにん)常(つね)の時御門に入らず時により御免(ゆる)しありて拜覧する日あり。」と載っている。『京内まいり』は、守拙斎が書き表した旅案内で、その前書きに、このような言葉が並ぶ。「一、此(この)小冊(せうさつ)専(もつはらに)順道(じゆんだう)をもとゝして寺社の混雑をかえり見ざる事は京に遊べる遠國(ゑんごく)邊鄙(へんぴ)の不知案内(ふちあんない)の人の手引なくして見るに安からん爲(ため)也。一、洛中洛外(らくちうらぐわい)神社仏閣名勝古跡あげてかぞへがたししかれども常人(じやうじん)の見聞になれざる所は是をのぞきてしるさず只名高き寺社を抜粋するのみ。一、勝(すぐ)れたる見物所にあらずといへども其順道につらなりたる名高き寺社はしばらくこゝにしるしてその道筋を系(けい)を引て是をわかつ也用捨(ようしや)は見る人の心にまかすべし。一、所々にしるせる左右は其見る人の左右なり。」左右は其見る人の左右なり、は江戸の時代のもの云いで、可笑しい。「さて町所をたづぬるに四つのこと葉あり南北のたつ町を北へゆくをあがるといふ南へゆくをさがるといふよこ町なればあの通をひがしへいるにしへいるといひてたづぬべし。」と断り、「内裏(だいり)よりはじめてとりべ山までの道のり一日につもりてしるす也。」と、旅の一歩を内裏、いまのいう御所に定めている。その「禁中」の内部は、簡潔にこう記している。「南門正面(しやうめん)なり。唐門(からもん)南門の西。公家門西表にあり公家衆参内(さんだい)此御門より御出入(いでいり)有此ゆへに名づく。日の御門東表の南に有。仙洞(せんどう)御所南北百七拾四間半東西百五拾四間半。院御所(ゐんのごしょ)南北百拾五間半東西百貮拾六間半。親王の御宅(ごたく))諸官家(しょくわんげ)御築地の内に有惣築地(そうついぢ)南北八丁余東西六丁余此内凡人(ほんにん)籃輿(かご)にのる事をゆるさず。」「常の時」であれば「御門に入らず」、踵を返し、「日の御門の前より東へ寺町通りへ出右へ貮丁余ゆきて又東へゆく町有荒神口(くわうじんぐち)といふ又吉田口共いふ。」春と秋の数日、御所の塀の内に、誰でも通りすがりに入ることが出来る。宜秋門(ぎしゅうもん)を潜り、雨晒しの縁側から、戸を開け放しがらんとした中を覗く。安政二年(1855)の、木と土と紙の建物である。襖には虎や鶴が描かれ、畳の上には何もない。正殿紫宸殿では、大正昭和の即位礼が行われたという。その白砂の前庭は、広大とは云えない。徳川の予算で建てられたその建物は、どれも簡素である。時の朝廷もその実用の寸法の内に、浮世離れの生活があったのである。日が傾き陰ると、空気が冷え込み、便所に人の列が出来ていた。御所のある御苑の紅葉がはじまっていた。富小路公園も御苑の中にあり、色づいた樹木に囲まれたその中で、野球をやっていた。金属バットの音が、木の間に響いた。その音はヒットかファウルかわからぬが、通りすがりの者にはどちらの音でもよかった。

 「彼は馬に拍車をあてて走り出させた。味方だろうと敵だろうと、生きている存在と無性にあい対してみたくなったのだ。」(イタロ・カルヴィーノ 米川良夫訳『不在の騎士』国書刊行会1989年)

 「中間貯蔵・双葉保管場へ輸送再開 川俣、三春から搬出」(平成27年11月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)