「此の柿は京都伏見桃山に庵(いほり)を結んでゐる愚庵といふ禪僧から贈つて來た釣鐘といふ珍しい名の柿であつた。さういへば形がどこか釣鐘に似てゐた。此禪僧といふのは維新の戰亂に母と妹とが生死不明になつてしまつた其行方を何十年かの間探したが遂に見當らなかつた其れが動機となつて中年から天龍寺の峨山和尚(がざんをしやう)の鉗槌下(かんつゐか)に僧となつたのであるが、此禪僧も主人と同じく肺を病んでゐる上に万葉調の歌をよくし又書に巧であつた。」(「柿二つ」高濱虚子 現代日本文學全集66『高濱虚子集』筑摩書房1957年)この「主人」は正岡子規で、「愚庵」は天田愚庵(あまだぐあん)である。天田愚庵が、戊辰戦争の最中に生き別れになったのは父母妹で、得度は林丘寺滴水禅師から受けている。天田愚庵の辞世の歌「大和田に島もあらなくに梶緒たえ漂ふ船の行方知らずも」を刻んだ石塔が、鹿王院墓所にある。石塔には他に、父母妹の戒名が刻まれているが、墓を立てることは、愚庵が遺言覚書で断っている。「一、金銀米穀ニ不足ナケレバ今日ヨリ一切ノ贈モノヲ受ケ不申候。一、御見舞ノ御方ハ、一面ノ後直チニ御引取リ被下候ガ第一ノ御心切ト存候。死後ハ遁世者ノ儀ニ付葬式ヲ為ス事ヲ許サズ。一、又塔ヲ立ルヲ得ズ。一、学術ニ補益アリトセバ解剖スルモ不妨。一、遺骸ハ二三ノ法弟ニ依テ荼毘セシメ、近親ト雖葬送スルヲ許サズ。右ノ箇條ニハ何人モ容喙スルヲ得ズ。」夏目漱石は、正岡子規宛の明治三十年の書簡の句で、愚庵を詠んでいる。「一東(いっとう)の韻に時雨るゝ愚庵かな」一東は、漢詩の約束事の韻の一つである。波乱の人生、と月並みの云いをされる天田愚庵の生涯は、『愚庵全集(増補改訂)』(政教社出版部昭和九年刊)の年譜によれば、このようにはじまる。「孝明天皇安政三年甲寅 七月二十日磐城國平城下に生る、父甘田平太郎、母浪(林龍卓の女)幼名久五郎。明治天皇元年戊辰 十五歳 奥羽二十四藩同盟成り薩長軍に抗す。六月薩長平城を包圍す。七月長兄善藏の後を追ひ城に入つて防戰に從事す。十三日平城陥る籠城の將士と共に仙臺に逃る。冬、亂平いで歸鄕す。父母妹の行方不明。明治三年 十七歳 兄善藏は卜者となり、父母妹を捜索して奥羽より越後方面に及ぶも依然不明。久五郎留りて藩校に學ぶ。明治四年 十八歳 姓を天田と改む、秋上京、神田駿河臺のニコライ神學校に入學す。明治五年 十九歳 神學校を退き、太政院正院大主記の小池詳敬に寄食。元薩摩浪士隊副総裁の落合直亮に國學を學び、幕臣明治天皇侍従の山岡鐡舟に禪を問ふ。明治六年 二十歳 春、落合直亮に從ひ仙臺志波彦神社に至り權禰宜となる。冬、正院を辞した小池詳敬に促され辭任。相携へて東海、中國、九州地方に石油會社の株券を募集す。明治七年 二十一歳 四月武官の從者として征臺(台湾)の軍に從ふ。六月凱旋。清国談判問題に憤慨、筑前博多に至り、清との開戦先鋒出立を雄圖するも挫折。更に鹿兒島に赴き桐野利秋中村半次郎)に寄食し吉田宇殿谷に在り。明治八年 二十二歳 春歸京。不應爲罪(反政府活動疑ひ)を以て禁獄三十日に處せらる。明治九年 二十三歳 歸鄕、兄を省し、故舊に會す。「吹く風は問へど答へず菜の花の何處や元の住家なるらん」の詠あり。初夏奥羽諸州を探索し、冬、北海道函館に至り同鄕學友漁業經營江政敏に寄る、初て肺を病む。明治十年 二十四歳 春、函館を去り歸京、淺草梅園院中に宿、山岡鐡舟の扶持を受く。小池詳敬死去。其遺族を京都に送り、歸途越前、加賀、越中、越後を捜索して、冬、歸京。明治十一年 二十五歳 東海道を經て京都に入り、山陰道を探索して大阪に滞在。山岡鐡舟の書状に接し、東上静岡にて鐡舟に面す。政治行動を叱責され、遂に俠客清水次郎長山本長五郎に託せらる。明治十二年 二十六歳 秋、清水を辭して東京に山岡鐡舟に面し、更に福島に至り家兄に會す。磐城に故舊を省し、東京に歸る。百金を懸けて父母妹捜索の廣告を諸新聞に出す。淺草の寫眞師江崎禮二に就き寫眞術を學ぶ。明治十三年 二十七歳 小田原に寫眞店を開く。次で旅寫眞師となり、伊豆各温泉を經て、東海道に入り京都より東山道を巡歴す。明治十四年 二十八歳 旅寫眞師を廢し、夏再び次郎長に寄食、富士裾野開墾事業を督す。遂に次郎長の養子となり、其姓を冒し山本と稱す。次郎長の傳記「東海遊俠傳」脱稿す。明治十七年 三十一歳 開墾事業中止、上京舊姓天田を稱す。春四月成島柳北閲、山本鐡眉著として輿論社より「東海遊俠傳」を出版す。肺患再發重篤に陥る。巫女の言に惑ひ山形に至り捜索。有栖川家々令藤井希璞に從ひ、下総猫實の開墾を援く。明治十八年 三十二歳 大阪内外新報社に入る。山岡鐡舟の紹介より時々京都に入り洛東林丘寺滴水禪師に參す。明治廿年 三十四歳 内外新報社退社、一朝翻然滴水禪師に得度を受く、鐡眉を改め鐡眼と稱す。「楚山呉水去悠々。二十年來事歴遊。踏斷身前身後路。白雲深處臥林丘。」「墨染の麻の衣手朝な朝な手向くる花の露にぬれつゝ」明治廿三年 三十七歳 陸羯南(くがかつなん)の新聞「日本」に半生の自傳「血寫經」原稿を送る。明治廿五年 三十九歳 林丘を出て江政敏資金寄付の清水産寧坂の盧に移る。知人十人より一人毎月白米一升の喜捨を受く。知人の一人北垣國道は後の第三代京都府知事。明治廿六年 四十歳 春、伊豆下田に至り七嶋に航せんとして果たせず歸庵。新聞「日本」に父母妹の菩提を弔う巡禮の旅費の寄付を募り、秋九月廿日彼岸の日出發、西國三十三所巡禮の途に上る。十二月廿一日歸庵。「十一月四日 大空は明そめぬらし百鳥の塒を出る聲のさやけき。 床の内に塒立つ鳥の聲を聞き、そゞろに心浮き立ちていそいそしく支度し、亭主が供養したる草鞋をはき、新晴に乗じて不動坂より下る、宿雲谷に滿て山は其巓を露はし嵐氣面(おもて)を撲て一經寂莫たり。雨洗千峯出。雲生衆壑(たに)深。諸天自空寂。處處聽靈禽。神谷を經て九度山に下り、眞田幸村が詫住居の跡を尋ね、慈尊院に詣づ。こゝは弘法大師が母刀自の尼を住ましめ給ひし處なり、高野山奥の院にて見たる芭蕉の句に、父母の頻りに戀し雉子の聲、とありしを、昨日はさまで心にしみても思はざりしが、今思へば誠に名句なり、此上に丹生七社の祠あり、參詣して下り、三度紀の川を北へ渡る、渡守年はやうやう十六歳、何事か打ち案じたる體なりしが、頓て袂より柑子のやゝ色つきたるを二つ取り出し、跪きて我に供養せんとす、其様の殊勝さ、賤しき者の子とも覺えず、親ありやと問へば今日は母なるものゝ命日にこそと、差しうつむく、あな不便、我れ讀經して得さすべしといへば、手を合わせて打ち拜む、大悲呪、開甘露門等を回向す、嗚呼芭蕉の句はいよいよ名句なり、芭蕉いよいよ名人なりけり。我袖も濡こそまされたらちねを戀ひ渡す子がかいの雫に。こゝより大畑峠を越ゆ、上り四十町、下り三十町、紀伊、河内、和泉、三國の境なり、巓より眺むれば、紀の川長蛇の如く、東より西に流れ、多少の村落兩岸に點綴して風景特によし、北に下れば卷尾の奥の院に出づ、猶一里餘り左に上りて、和泉に入り頓て第四番卷尾山旋福寺に至る、寺は天台宗、本尊は彌勒菩薩なり、千手観音は脇立にてぞおはしける、此寺にて弘法大師は得度し給へりとぞ、例の如く納經し内陣にて通夜す。けふは七里。」(「巡禮日記」)明治廿七年 四十一歳 十二月痼疾再發、須磨に転療す、「巡禮日記」出版。明治廿八年 四十二歳 五言絶句「愚庵十二勝」を新聞「日本」に發表。明治廿九年 四十三歳 一月上京し子規を見舞う。五月鳴門に観潮、歸途神戸にて喀血七八合。明治三十一年 四十五歳 大隈板垣内閣を諷刺した「戊戌童謡」發表。明治三十三年 四十七歳 春、明治天皇の陵地選定のため品川弥二郎伏見桃山に赴く。秋、桃山の新庵に転居。明治三十七年 五十一歳 一月一日新聞「日本」に「兎なす政府人はも年と共に西へやらはむ海へなかさむ」「政府人仇とはかりていつまてか君をあさむく民を欺く」「仇し來は撃ちてしやまむ仇來すはさかしら人しうちてしやまむ」ほか「童謡」二十首發表。一月十七日寂。」陸羯南は、『愚庵遺稿』(文求堂明治37刊)に文を寄せている。「明治二十一年に我輩京都に行ッた其の時は天田五郎既に仏門に入ッて「鉄眼」と名を変えて墨染の麻衣を着て修学院村の林丘寺に居た。能(よ)くもこれだけの姿に変えへたものだと思ッたのである、昔し屁子帯(けこおび)で東京のアバレ書生の境涯にも居つた天田五郎、又双子縞に前掛で旅廻りの写真屋であつた天田五郎、又印半天腹掛で東海道の宿場に茶碗酒を呑んだ山本五郎、近くは大阪の北新地や京都の祇園町で極俗な交際をもやつた男、よくも境涯をかへたものだと坐(そぞ)ろに感心した。」年譜に並んだ事実からは、愚庵の肉声は聞こえて来ない。血肉も見えているとは言い難い。陸羯南の云いも、釣り糸が濁った水の底まで達しているという感触は受けない。己れが何者であるかを問われた時、会社員と応える者がある。その者の職業がそうであるとしても、会社員という応えが何者かの問いの応えになっているかどうかは分からない。愚庵であれば、父母妹を捜す者、あるいはその存在を捜した者とすれば、応えは正しい。

 「彼女(ジュリア・クリステヴァ)がここで「別の笑い」とよんでいるものは、意味の構築性や構造性と文字どおり直接結びついている笑いである。それは記号と直接結びついている笑いである。それは記号という不在の場所に送り返されることによって生ずる反作用的(ルサンチマン)な笑いではなく、意味の構築力がおこるまさにその地点で即座にはじけとぶ、パラドックスを肯定するような明晰な笑いなのである。つまり、ラブレー的哄笑にみられるように、ポジションをしっかり定めた「人間」がすでに構築ずみの体系を笑いとばす批判の笑いとちがって、この「別の笑い」はポジションというものがきめられたとたんにふきだしてきてしまうのである。」(「チベットモーツァルト中沢新一チベットモーツァルトせりか書房1983年)

 「指定廃棄物受け入れ 富岡、楢葉了承 全国初の処分場」(平成27年12月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)