平安の法典「延喜式」の神祇の巻の「神名式」に二千八百六十一の神社が官幣社として記載され、祈年祭に国から幣帛(へいはく)を受けるのであるが、その四時祭以外の臨時祭祀の一つの祈雨(アマゴヒ)神祭では、その神社の内の八十五座の祭神が指定され、京福電気鉄道嵐電嵐山本線蚕ノ社(かいこのやしろ)として駅名になっている木島(このしま)神社も、木嶋社(コノシマノヤシロ)一座としてその指定を受けている。その祈雨神祭の幣帛は、絹五尺、五色薄絁(し)各一尺、絲一絇(く)、綿一屯、木綿二兩、麻五兩、調布二端、軾(しき)料夫一人、庸布一段、裹薦(つつみこも)半枚である。木島神社の「神名式」の記載名は木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミムスビノ)神社であり、『梁塵秘抄』の流行り歌「金(かね)の御嶽(みたけ)は一天下(いちてんげ)金剛蔵王釈迦弥勒稲荷も八幡も木嶋も人の参らぬ時ぞなき」は、伏見稲荷石清水八幡宮と並んで平安末の木島神社の人気を伝えている。江戸に下って、貝原篤信益軒の『京城勝覧』には、「木の島明神。元糺といふ。太秦より壹町ばかり東道の南にあり。天照太神の御社なり。林の内なり。清泉有中に三面の鳥居たつなり。」と、木島神社の簡潔な様子の記述がある。更に下って現在、木島神社に参拝者の姿を見ることは少ない。明治期再建の本殿は、ココロザシを小さくされてしまった神の如くに簡素で、慎ましやかに木立の奥に控えている。林は数本の楠の巨木の他、境内を囲む屏風のように僅かに薄く残り、その境には立ち入り禁止の金網が立ち、倒木をそのままに見るから手入れのない野鳥の棲み処である。本殿西の清泉の水はすでに枯れ、三本足の奇妙な石鳥居がその泉であった土の上に立ち、御幣を挿し立てた内の石組と共に、その異様は、四囲を住宅が迫る中にあって際立ち、平安以前のこの地の豪族渡来人秦氏が持っていたかもしれぬ底知れぬ畏れのようなものの不可解を、見えるものとして人の目に見せている。その三柱の鳥居に引き比べれば凡庸に見えてしまう小ぶりの鳥居が、石窟の末社白清社宇迦之御魂大神の前に立ち構え、寄進者は東横映画京都撮影所で、昭和二十五年十月の日付が彫られている。東横映画京都撮影所は、1947年(昭和22)東横映画が満州映画協会所属だった者らで、太秦大映第二撮影所で始めた映画製作会社である。東横映画は、1951年(昭和26)太泉映画、東京映画配給と合併し東映となり、東横映画京都撮影所は東映京都映画撮影所となって、この鳥居寄進の一年後にその名は失せている。満州映画協会は、王道楽土満州国の国策映画会社であり、その第二代理事長は、関東大震災の甘粕事件で、大杉栄伊藤野枝、橘宗一を殺害した憲兵大尉甘粕正彦であり、その東横映画京都撮影所の者らは、甘粕正彦理事長の息を吸って日本に帰還した者らである。甘粕正彦は、1945年(昭和20)8月20日に服毒自殺をする。1897年(明治30)、甘粕正彦は福島師範附属小学校に入学し、その子ども時代に福島の息をその肺に吸っている。

 「次第に、夜間には、別の円陣が生徒たちの円陣をとり囲むようになっていた。それは好奇心を持ったカモメたちのグループで、ずっと何時間も闇の中で耳をすましているのだった。お互いに、顔を見たくも見られたくもない連中で、夜の明ける前には姿を消してしまっていた。」(リチャード・バック 五木寛之訳『かもめのジョナサン新潮文庫1977年)

 「福島市の「住宅除染」進捗91% 15年度内官僚を目指す」(平成28年1月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)