昨年五月に急死した私小説車谷長吉は、短編集『金輪際』の最後に置いた短編「変」に、「私は夕食後、二階の自室に引き取って、明治の内閣総理大臣樞密院議長陸軍大将元帥従一位公爵山縣有朋(やまがたありとも)関係の資料を読んでいた。この世の悪を極めた男である。」の文を挿し挟み、山縣有朋に対する興味関心をさりげなく記していたが、生前それはかたち、作品にはならなかった。昭和十六年(1941)太平洋戦争開戦の年、南禅寺門前の山縣有朋の別荘無鄰菴(むりんあん)が山懸家から京都市に譲渡されている。山縣有朋が作った明治十五年(1882)布達の「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」は、開戦した日本陸軍の精神の基(もとい)だった。自由民権思想を弾圧し続けた山縣有朋の没年は大正十一年(1922)であり、昭和の日本も「軍人勅諭」を唱えた日本陸軍の末路も山縣有朋は見ていない。祇園祭宵山の日の午(ひる)の無鄰菴は、人影も目立たず、深閑としていた。無鄰菴庭園は名園であるという。庭師七代目小川治兵衛三十七歳の作であり、山縣有朋の創意が隅々に及んでいると、その解説には加えられている。母屋の建つ西になだらかに低くなる庭園は、東の奥で尖るように狭くなり、そのどんつき行き止まりにある、琵琶湖疎水を引き入れた一旦池のように溜まる水の流れが、二つの野川のように芝の起伏の中で分かれていく。芝は明るく丸みを持ち、母屋から見る視界の両側にはスギやモミが立ち並び、その木蔭は苔生(む)し、庭地が右に折れるところの巨石の様は渓谷の景を一瞬催させ、東のどんつきから見れば、水の面にカエデが幹を傾け、木の間の湧き水の広がりを思わせる。庭の背景は東山である。母屋の畳の上からその庭を、五十半ばの男と七十半ばのその母親と思われる容子の二人が見ている。二人の後ろの畳に腰を下ろし、庭の水音を聞いていると、男がどうぞと自分の坐っていた場所を譲るように立ち上がり、南に向いた畳に移る。片足を伸ばし、もう一方の膝を立てて坐っている母親が、このあとどこへいくんか、と男に声を掛ける。昼をどこぞで摂(と)って清水に行く、と男は応え、そろそろ行くかと云って腰を上げる。庭に顔を向けたまま母親が確かに、クニオと云ったのであるが、男は何も応えず、畳の上に立っている。外廊下の縁の沓脱石に、その二人の靴が並んでいる。伸(の)し餅のような沓脱石は、異様な大きさである。山縣有朋は、自然景色に見せかける庭の外れ、庭の下り口に人の力を示すその石を置いた。庭の自然は、この一個の沓脱石で山縣有朋にねじ伏せられている。男とその母親とおぼしき二人は、静かに靴を履いて出て行った。「国を」と、「この世の悪を極めた」山縣有朋は何度も口にした。国は、大日本帝国という名前の国である。男の母親の口から出た「クニオ」に、「国を」の響きはなかったが。

 「父親に丁寧に挨拶をして、俺は引き下がるように家の外へ出た。母親が持たしてくれた紙包みを持った。さっきのスルメをくれたのだが、この場合貰って、お礼を言ったほうがいいだろうと思ったからだ。」(「闇」深沢七郎『極楽まくらおとし図』集英社1985年)

 「「石棺」記述を削除 廃炉機構戦略プラン、地元反発で修正版」(平成28年7月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)