花村萬月の小説『百万遍(ひゃくまんべん)』の中で、百万遍は知らない土地として出て来る。百万遍のある京都という街自体も主人公は知らない。「百万遍という言葉に反応して、とじていた目をひらいた。百万遍──。記憶の底にのこっている。地名だ。岩尾から聞いた京都大学のある場所、京大西寮のあるところ。」主人公の惟朔(いさく)は、京都駅から乗って来た市電を降りる。「東大路を隔てて文房具店や宝石屋に囲まれるようにして地味な郵便局があり、それらの建物の背後は緑が濃い。通称百万遍こと知恩寺だが、まだ惟朔は百万遍の謂(いわ)れを知らないし、そこに寺があることさえ気づいていなかった。」この十月末の時期、百万遍知恩寺に古本市が立ち、手に取った『百万遍 古都恋情』の出だしてまもなくの文である。元弘元年(1331)、後醍醐天皇の命により知恩寺第八世善阿空円が、七日の念仏百万遍を修して疫病を鎮め、百万遍の寺号を受けたのがその謂れであるという。百万遍の境内は、前夜の雨で足元が泥濘(ぬかる)み、曇り空から時折り小粒の雨が降って来る。市の棚に並んでいる筑摩書房の『放哉全集 第二巻書簡集』をぱらぱら捲(めく)る。俳人尾崎放哉(おざきほうさい)は、学生時代に結婚を申し込んで果たせなかった従妹の沢芳衛(さわよしえ)に、毎日のように手紙を出していた、とある。が、その手紙の殆どは放哉の要請で灰になっている。辛うじて沢芳衛の手元に残っていた一葉の葉書はこうである。「明治三十六年一月六日 帰郷致し候、今日安藤より帰るさ、本屋に立より候ひし処、此の絵ハガキのみ、斜ならず小生の気に入り候は、如何(いか)なる因果の有之候ひしなる可(べ)き、呵々、もし家をたてたなら、総(すべ)てこの色の銀襖、銀屏風、にこの淡紅色の桜をちりばめて、其の百畳敷のまん中に長嘯(ちょうしょう、吟ずる)致す可く候、此のハガキ余り気に入り候故に一字も書かずに送らんかと存じ候ひしも、それではつまらず、為に無茶苦茶に書き候、御宥(ゆる)し被下度(くだされた)く候、何時伺ひ申す可き、御隙の時を御一報被下候はば、年詞に参る可く候、「元日や餅、二日餅、三日餅」呵々」全集の附録月報に、脚本家早坂暁が文を寄せ、俳優渥美清が、酒で身を持ち崩した尾崎放哉を演(や)りたがっていたと書いている。その渥美清は、晩年俳句をやっていた。「遠くでラジオの相撲西日赤く」「テレビ消しひとりだった大みそか」「おふくろ見にきてるビりになりたくない白い靴」放哉と同じ渥美清の自由律俳句は、演じる「寅さん」からの遁(のが)れを思わないでもない。渥美清の放哉映画は、「寅さん」の死で潰(つい)えた。百万遍は、東大路通今出川通の交差点の名でもある。その今出川通を西へ、鴨川を渡り、河原町通を過ぎてすぐのところに、詩人中原中也が大部屋女優長谷川泰子と同棲していた家がある。古本市で買った大岡昇平の評伝『中原中也』(角川書店1974年刊)にこうある。「中原中也が大正十三年十月から十四年三月まで住んだ、京都市上京区中筋通米屋町角の家屋は現存する。河原町と寺町の間筋を、今出川通から十間ばかり下った西南の角の、北に向いた二階家で、関西風に板を縦に張った東側は、二階に二尺角の掃き出し窓を一つ持っているだけである。その窓を中原中也が「スペイン窓」と自慢していた──。」山口の中学を落第し、立命館中学に転校した中也は十七歳、泰子は二十歳だった。大正十三年(1923)、その前年に朝鮮火災海上保険の支配人を馘になった尾崎放哉は、知恩院の塔頭常称院の寺男になっている。放哉と「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」の中也は、大正十三年の京都の同じ空気を吸っていたことになる。

 「その頃、家では土蔵と納屋に囲まれた裏庭に、五、六羽の雌のニワトリを飼っていた。屑米と牡蠣の殻の砕いたのをやっておけば、井戸端で勝手に水を飲み、納屋の軒下の小屋にひとりで入って眠り、卵を産む。その他は、それほど広くもない裏庭を歩きまわったり、土をほじったりしているだけだ。雄がいないから追っかけたり追いかけられたりすることもない。」(「<私>という宇宙誌」日野啓三『魂の光景』集英社1998年)

 「映画「太陽の蓋」公開 3.11から5日間描く、福島で舞台あいさつ」(平成28年10月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)