帰る家あるが淋しき草紅葉 永井東門居。永井東門居は、小説家永井龍男の俳号である。帰る家はあるのであるが、足元の草紅葉のうら淋しい様よ、と平凡に読まなければ、この「あるが」の「が」は二つに働く。帰る家があるということそのことが淋しいと、帰る家があるにはあるが心が淋しい、である。帰る家があるにはあるが淋しい、より、帰る家があるということが淋しい、の方に表現解釈の飛躍はあるが、どの読み方であっても、「帰る家」という言葉に並んだ「淋しき」は、ある種のポーズ、気取りのように目に映る。それは「淋しき」という言葉に、作者が甘えているからなのである。枕あるところに帰る草紅葉 中尾寿美子。草枕という言葉は、野宿する姿、旅の途中を意味するが、作者はこの草枕を踏まえ、眠る場所を「枕あるところ」と言い表わし、その必ず枕がある場所である自分の家に、草紅葉になったいつもの道を今日も帰る、というのである。「枕あるところ」には、非凡な俳句跳躍がある。北嵯峨の草紅葉の田圃道を北に辿り、後宇多天皇陵を過ぎて南を振り返ると、穭(ひつじ、稲のひこばえ)が伸び出た田圃越しに、市街のビルと京都タワーが遥かに見えて来る。北に緩やかに地面が高くなっている京都盆地であるが、不意打ちのように見える景色である。田圃道から外れ、住宅の間の径を入って行くと、山裾の直指庵(じきしあん)の門に出て、径はここで行き止まる。直指庵は、薩摩藩主島津斉彬の養女篤子、天璋院篤姫が、第十三代将軍徳川家定の正室となるため一時養女となった右大臣近衛忠煕(このえただひろ)家の老女村岡局が、尊王攘夷の動きの最中に西郷隆盛らへの密通嫌疑で捕縛され、解かれた後に入った庵である。北嵯峨は村岡局、本名津崎矩子(つざきのりこ)の生れ故郷であるが、投獄のダメージを受けた、公卿家に仕えた老女には無住となって廃れていたこの庵の他に帰る場所はなかったのである。山裾の起伏のままの境内の紅葉ははじまっていたが、参拝者は数えるほどしかいない。聞こえるのは飛び交う鳥の声と、風に揺れて擦れる竹の音だけである。本堂の卓の上に、想い出草と記された悩みを綴るノートが置かれ、室の四方に寺の四季を撮した写真が飾ってある。このような人に甘えた俗ものは、庭の紅葉とは無関係である。人の寄らない本堂の小室の畳に座り、十分でも心鎮めてモミジを眺めることが出来れば、その十分は最早、その日の十分ではない。
「思想家は身体の話になると必ず、法や制度、道徳とか倫理、あるいは常識を持ち出してしまうんです。そして歴史とか政治とかという物語も。身体の行為や運動の入っていないイベントは生活環境を持たないものだから、ほとんどフィクションにならざるを得ませんね。特に六〇年代の思想は街や身体のない、いわゆる生活環境のないフィクションです。だから、三十年も経ないうちに使いものにならなくなってしまいましたね。」(荒川修作・藤井博巳 対談集『生命の建築』水声社1999年)
「「自分の目で見たい」 福島高生が第1原発に、18歳未満事故後初」(平成28年11月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)