山径の途中で、夫婦と思しき中年の男女に道を訊かれる。吉田神社へ行く道である。吉田山と呼ばれる神楽岡の頂の、吉田山公園の裾の山径である。中年の男女が登って来たのは、今出川通から入る北参道である。北参道は、入口で曲がり、ほぼ真っ直ぐな緩(ゆる)い上りを終えると、小刻みに曲がりくねりを繰り返しながら急斜面を登り詰める。訊いてきた男は、禿頭(とくとう)に汗を滲(にじ)ませ、息を切らしている。吉田神社は、神楽岡の西麓にあり、京大正門前の東一条通の東の行き止まりが、吉田神社の一の鳥居の前であり、東一条通を来れば行き迷うことはない。二の鳥居から石段と坂の並びを登れば、本殿である。吉田神社は、貞観年中(859~877)に藤原山蔭(やまかげ)が、その氏神である奈良春日大社と同じ健御加豆知命(たけみかずちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめかみ)の四体を勧請してはじまり、室町期に吉田兼俱(かねもと)が、密教老荘、陰陽五行などの教説知識で捻り出した理論と偽書を以て唯一神道の名のもとに国全土の神を束ね、神官権威を独り占めにした神社である。境内にある斎場所大元宮は、三千百三十二座神を祀り、一度の参詣がその三千余社すべてを参詣したことであると、吉田兼俱は神々を窮極にモノ化し、武家も公家もそれを手放しで受け入れたのである。四百年の星霜を経て、八角形の後ろに六角形を付け合わせた奇体な形(なり)の大元宮は現在重要文化財である。黄葉の雑木の間を縫う山径は、指さす先もくねって見通すことは出来ず、枝分かれして下る径もあるが、その径もその先でまた一つに繋がるのであれば、吉田神社からいまその径を辿って来たのであるから、たとえ落葉で埋め尽くされている所があっても、このまま道なりに、と応えて間違いはない。途中、吉田山公園を横切って道なき道を東に折れると、竹中稲荷神社に出る。道なりに神楽岡の外れまで行ってしまうと、黒住教の宗忠神社に出る。宗忠神社の緩い石段を東に下ると、そのまま真っ直ぐ真正極楽寺真如堂の参道に繋がっていて、その石段の上からは真如堂の本堂と三重塔がよく見える。真如堂の南は、会津藩の墓がある黒谷金戒光明寺である。二人を見送り、北参道を下り降りるまで、何人かとすれ違う。若いカップルの男は、白いマスクの中で咳をしながら、頭上のモミジにカメラを向ける。撮った写真がブレていれば、男は己れの咳を景色に写したのである。父と子の親子は、その男の子の首に空(から)のムシカゴがぶら下がり、男の子はワガタがどうしたという話をしている。年を越すクワガタもいるというが、十二月のいま、姿を見せないクワガタを獲るというのであれば、俄にこの親子にただならぬ気配が漂って来る。父親は相槌でもない言葉を返し、よそ事を思う顔で子の後ろをついて行く。カブトムシは、二三カ月の寿命で、越冬出来ない。車谷長吉の短編「武蔵丸」は、舎人公園で拾ったカブトムシを夫婦で飼う話である。食欲旺盛だった武蔵丸と名づけられたカブトムシは、十一月半ばで遂に死ぬ。妻はその日、長吉の出版祝いで貰った茹で蟹を喰って寒気を感じ、言い知れぬ淋しさに襲われるのある。

 「人影も人里も見えぬ大木の並木路をたどるときには、どんなにか人というものの臭(におい)が恋しかったであろう。牛馬の踏み荒らした無数の細路に迷って、山巓(さんてん)から襲いくる霧の中に立ち尽くしたとき、ふと眼にはいった牧牛者の影はどんなにか自分の心を温めたであろう。牧牛者は半里の山道を迂回して自分を宿屋の前まで案内してくれた。自分は礼心に袂の中にあった吸い残りの「八雲」をあげた。牧牛者は気の毒そうに礼を言って霧の中に隠れて行った。」(阿部次郎『三太郎の日記』角川選書1968年)

 「安全強調か…パネル「第2原発はなぜ過酷事故を免れたか」」(平成28年12月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)