季節は、言葉によって作られる。暦の上の一月二十日は、大寒である。探梅や枝のさきなる梅の花 高野素十。四条通の西の外れ、桂川の手前の梅宮大社(うめのみやたいしゃ)の境内の、早咲きの白梅が花をつけていた。鼻を近づけ冷たい空気と一緒にかぐと、紛れもなく梅の匂いであり、思い出した梅の匂いとして、梅は匂うのである。九相図(くそうず)という仏教絵がある。死体が膨らんだり、血や膿が滲み出て青黒くなり、鳥獣に喰われ、骨になって土に帰る様を、これが人間の正体であるとして子ども時代に教えられた絵である。その朧げな記憶の絵は、東山六道の辻の西福寺にある「檀林(だんりん)皇后九相観」だった。梅宮大社はこの檀林皇后を祀っている。「人皇五十二代、嵯峨の天皇の后、姓橘、諱(いなみ)は嘉智子(かちこ)、清友の女(おんな)也。少(おさな)くして経書に渉猟(しょうりょう)し、眉目画くが如し。人となり寛和にして風容絶(はなは)だ異なり(※美人である)。」(『雍州府志』)嵯峨天皇は、淳和天皇に譲位して後、今の大覚寺の地に御所、嵯峨院を設け、その死の後、嘉智子皇后はその地に別館檀林寺を創建して檀林皇后とも呼ばれ、仏教に篤く、己(おの)れの肉体は滅(ほろ)ぶに任(まか)すとして、その遺体は帷子ノ辻(かたびらのつじ)の辺りに捨て置かれ、犬鳥に喰われるままにされていたという。あるいは、風葬の地はその先で、葬送の際、この辻で棺を覆っていた帷子が風に飛んで落ちたのだともいう。嘉智子皇后は、「太子無きを以って凄々として楽しまず。茲(これ、梅宮大社)に因(よ)りて、神代の幽契に憑(たの)み、酒解(さかとけ)ニ座に祈る。一旦、応感、妊孕有り、遂に当宮の白砂を以って御座(みまし)の下に敷き其の上に居て児を生む。所謂(いわゆる)、仁明(にんみょう)天皇、是(これ)なり。」(『雍州府志』)車を降りた時からクズる三つ四つの孫を連れた若いなりの祖母が、梅宮大社の門を潜る。手水舎で与えた柄杓(ひしゃく)の水で胸をびしょびしょに濡らしたのにもかかわらず、祖母は引き摺るように孫の手を引き、本殿で子授け安産の神に手を合わせる。授かった孫の礼参りなのか、もう一人孫を授かりたいのかは分からない。が、グズる孫を連れて、わざわざやって来るほどの御利益のある場所なのである。本殿の傍らに「またげ石」と呼ばれる、またぐと子宝に恵まれるという、舟の形の石に二つの丸い石が載ったものがある。嘉智子皇后もこれをまたいだのだという。「またぎ石」でも「またぐ石」でもなく、「またげ石」なのである。
「生き生きとした孤独のなかで感覚や経験を陶冶(とうや)し、社交界の踏み段の上に、申し分なくゆっくりと、祈りのごとくひそかなすばらしい効果をいくぶん持ちうるような思想を形成するという夢を、ジルはなかば忘れていた。」(ドリュ・ラ・ロシェル 若林真訳『ジル』国書刊行会1987年)
「福島大が第1原発視察事業 新年度から学生対象、廃炉へ人材育成」(平成29年1月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)