京の三名水と云い伝えられている五条堀川にあった佐女牛井(さめがい)は影も形もなく、御所の縣井(あがたい)はとうの昔に涸れ、梨木神社(なしのきじんじゃ)の染井の水は、その云い伝えの通りであるとすれば、平安時代から地上に湧き出ている。梨木神社は御所の東、藤原良房の娘明子(あきらけいこ)で清和天皇の母、染殿皇后の里御所、旧三條邸の場所に、久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の発議で明治十八年(1885)、内大臣三條實萬(さんじょうさねつむ)を祭神として創建された神社である。三條實萬は、江戸末期の日米修好通商条約の勅許と徳川家定の将軍継嗣問題の重なりに幕府の意向に反対した者として、安政の大獄安政五年~六年(1858~59))で隠居落飾の処分を受け、その年に亡くなり、久邇宮朝彦親王もまた、当時青蓮院門跡第四十七世門主、尊融入道親王(そんゆうにゅうどうしんのう)として永蟄居を命ぜられている。尊融入道親王文久二年(1862)に赦免され、国事御用掛となり、翌年還俗して中川宮を名乗る。その文久三年(1863)、尊攘長州藩に意をそわせた三條實萬の子、公家急進派の三條實美(さんじょうさねとみ)は攘夷決行のための祈願、孝明天皇の大和行幸を企てるが、徳川家茂孝明天皇の異母妹和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を降嫁させ幕府の立て直しを図る公武合体派、会津藩薩摩藩らに同調していた中川宮朝彦親王らが起こした八月十八日の政変、御所を塞いだクーデターで、三條實美らの公家急進派は失脚し、長州藩は京都から追放される。慶応三年(1867)の大政奉還尊攘派は復権するが、中川宮朝彦親王は、明治五年(1872)まで謹慎状態にあり、後(のち)明治八年(1875)に伊勢神宮祭主となる。久邇宮(中川宮)朝彦親王の三男が久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)で、その娘良子(ながこ)が昭和天皇香淳皇后である。明治天皇の元で内大臣となった三條實美は、明治二十二年(1889)二カ月の内閣総理大臣兼任を経て、明治二十四年(1891)に死去し、大正四年(1915)梨木神社に合祀される。いま梨木神社の参道、一の鳥居から二の鳥居の間に、真新しいマンションが建っている。本殿の修繕費用捻出のため、参道にあった何百本もの萩を薙(な)ぎ倒し、地面を六十年の期限付きで業者に貸したものだという。一の鳥居は潜る用をなさず、神社から見捨てられたものとして、股を開いた奇妙ななりで、前を向いているのである。名水染井の水は、門を入った手水舎の水になっている。水は竹の切り口からも、捻った蛇口からも出て来る。云うまでもなく染井の水は、梨木神社が建つ以前から、地上に湧き出ている水である。不味い水は分かるが、旨い水の味は、分からない。

 「近ごろ撮りました私ども家族のスナップ写真をお送りいたします。しあわせそうでしょう? いちばん上の娘は八月で一二歳になりました。名前はシーラといいます。ついでながら申しあげますと、この子は夫の先妻の娘でして、主人は戦争中に最初のつれあいを亡くしたのです。下の子はメリーといいまして、先週で四歳になりました。」(ヘレーン・ハンフ編著 江藤淳訳『チャリング・クロス街84番地』講談社1980年)

 「【復興の道標・不条理との闘い】自信持ち語る力を 原発視察、若者の学びに」(平成29年3月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)