原文はポルトガル語であったとされる、フランス語の訳で1669年に出版された、リルケのドイツ語訳で有名な書簡小説『ポルトガル文(ぶみ)』は、駐留を終えて去って行ったフランスの軍人に宛てたポルトガルの尼僧の五通の恋文である。恋文であるが、中身は軍人への恨みつらみである。一通目の手紙の出だしはこうである。「ね、おまえは、わたしの大切な恋なのに、これが見通せなかった浅はかさには程があるわ、かわいそうに。おまえは欺(だま)されたのです。おまえは、当てにならぬ希望で釣って、わたしまで欺したのです。おまえが、たくさんの幸福を期待していた情熱も、いまとなっては、死の絶望のほかは、なにも与えることはできない。それも、無残に捨てられた女だけが知る絶望です。どうしてですって。あんなにして、行っておしまいになったのですもの。悲しくて、悲しくてどう思案しても、つれないお仕打ちを、うまく言い表わす言葉は見つかりません。」(リルケ 水野忠敏訳『ポルトガル文』角川文庫1961年刊)尼僧の名は、マリアンナ・アルコフォラドといい、十二歳で修道院に入り、フランス軍人シュヴァリエ・ド・シャミリイと知り合ったのは1666年、二十五歳での時で、翌1667年、シャミリイはフランスに戻っている。1580年、ポルトガルスペイン帝国ハプスブルク朝に併合され、その三十年後の1640年、王政復古戦争、ポルトガル革命が起り、尼僧マリアンナの恋人シャミリイが去った翌年、1668年、ポルトガル・ブラガンサ朝が独立を果たす。フランス軍はその独立の支援に、ポルトガルに駐留していたのである。「この現在の悩みにも不満ですし、いまだにあなたに対しありあまる愛情をもっているこのわたしにも不満です。と申しても誤解なさらぬように、残念ながら、あなたのなさったことに、満足しているなどというつもりはないのですから。わたしは死にませんでした。わたしは嘘を申しました。わたしはじぶんの命を縮める努力と同じ努力をして、命を長らえようとしているのです。」(『ポルトガル文』第三の手紙)東山妙法院に、「ポルトガル国印度副王信書」と呼ばれる国宝の手紙が残っている。ポルトガルの支配下にあったインドの副王が、天正十六年(1588)に豊臣秀吉に宛てた手紙である。1588年、ポルトガルはスペインの支配下にあった。その支配下のインド副王から、天下統一を果たした秀吉を褒めたたえ、ポルトガル宣教師たちへの秀吉の好意を感謝し、今後とも「慈愛を垂れ給うよう」、よろしく頼むというのがその内容である。信書は三方を装飾で縁取られ、第一行目に王冠を載せた秀吉の家紋「五七の桐」を置き、十七行の最後の日付は1588となっているが、1587の7の数字を8に書き換えた跡が残っている。これは持参者と同行だった日本に戻る遣欧使節の出航が、翌年に遅れたためであるという。秀吉の出した伴天連(バテレン)追放令は天正十五年(1587)であるが、この信書は追放令がポルトガルに伝わる前のものであり、秀吉の手元に届いたのは、書かれた1587年から四年後の1591年である。妙法院は、秀吉の建てた大仏殿のあった方広寺の東側にある。妙法院は、その大仏の月毎の千僧供養のため、建仁寺辺にあった寺を大仏経堂として移したものであるという。その千人の僧侶の食事の用意をした台所の棟、庫裡(くり)は国宝である。二十メートルの吹き抜け天井の煙出しまで、煤(すす)で汚れた梁と貫が剝き出しに幾重にも走り、板間は黒光りして冷たく、ひと時そこに佇(たたず)むことは、歴史の一端に触れることでもなく、歴史を味わうことでもなく、歴史のただ中に包まれているような畏れと安堵がある。この安堵とは、己(おの)れのする息と巨人のような庫裡のいまの息とが、厳(おごそ)かに交わることが分かる、ということである。「ポルトガル国印度副王信書」は、その印刷コピーが、薄暗い宝物庫のガラス戸棚の中に飾ってあった。真物は、京都国立博物館の倉庫に仕舞ってある。文久三年(1863)、会津藩薩摩藩らの公武合体派が起こした八月十八日の政変で追放された長州藩と、三條實美ら七人の急進派公卿は、この妙法院に集(つど)い、その翌十九日の未明、雨の中を蓑笠草鞋(みのかさわらじ)の姿で、長州に下って行った。未明も、蓑笠も人目を忍んでということである。『ポルトガル文』の最後の手紙の結びは、こうである。「わたしは静かな心境に達することができそうな期待が持てるようになりました。そしてそれを最期までやり遂げるでしょう。それが、もしもできなければ、わたしは不甲斐ないこの自分に叛逆(はんぎゃく)するなにか非常の手段を用いるほかなくなるでしょう。それでも、その知らせを受けるあなたは、それほど深くは悲しんでは下さらないでしょう。……でも、あなたには、していだだきたいと思うことは、何一つなくなってしまいました。わたしはばかな女です。一つ覚えのくりごとをまた始めましたわ。あなたをあきらめる、あなたのことは二度と思い出さない、これは必要なすべてです。お手紙をさしあげるのも、いっそさっぱりと止められそうな気さえしてきました。あなたへの感情が死に絶えてしまうさまを、くわしくお知らせする義務が、そのときのわたしに、まだ残っているでしょうか。」建物の内を一周して庫裡に戻り、いま一度吹き抜け天井を見上げてみる。『ポルトガル文』も「ポルトガル国印度副王信書」も三條實美らの七卿落ちも、無関係にばらばらの事柄でありながら、それらを入れ替わり立ち代わり思うことで、この庫裡の中では、それらは相(あい)照らす如くにすれ違う。

 「種まきの済んだばかりの畑から、過去五年の堆肥と、新しいこやしの匂いが漂ってくる。この匂いとともに、同じくらいかすかに、オーケストラの音が漂ってくる。時おり、音楽からはぐれた一音やフレーズが聞こえる程度だ──ちょうど、長いあいだ折りたたんでおいた恋人からの手紙を久しぶりに開いてみると、幽霊のような判読不能な一連のしみと、文脈から遊離した「元気で過ごしているこ…」しか見えないように。」(リチャード・パワーズ 柴田元幸訳『舞踏会へ向かう三人の農夫』みすず書房2000年)

 「放射線教育…「解決型」に モデル校指定、発信できる力養成」(平成29年3月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)