平安京の東西の通りの一つ、四条坊門小路が蛸薬師通(たこやくしどおり)という名に取ってかわられたのは、通りの東の外れに蛸薬師堂が建った天正十九年(1591)より後のことであるが、その天正十九年には、豊臣秀吉の命で室町通姉小路の北にあった円福寺が、この蛸薬師堂の建つ地に移転し、その同じ年にこの薬師如来を本尊とする永福寺が円福寺に合併し、その子院となっている。が、いま蛸薬師堂に円福寺の名は見当たらない。円福寺は明治十六年(1883)、蛸薬師をここに置き去りにして、三河国額田郡岩津村に移り、その同じ地にあった岩津城主松平親則菩提寺妙心寺が檀家を置いて、居抜きとなった円福寺の空き家に移って来たのである。この蛸薬師堂と円福寺の元の場所は地名として残っている。地図を見れば、二条通とその一つ南の押小路通の間に蛸薬師町、その一つ南の御池通と次の姉小路通の間に円福寺町とあり、二つの町の真ん中を室町通が南北に通っていて、この二つの寺の位置が近かったことが分かる。が、その近さが合併に関わることなのかどうかは分かっていない。現在の妙心寺子院、蛸薬師堂の正式名は、浄瑠璃山林秀院永福寺である。その寺の伝えでは、この名にある林秀という名の者が、剃髪して比叡の薬師如来に参り、老いてその月参りが困難になり、養和元年(1181)、薬師如来に身の傍(そば)で拝める薬師仏を願うと、夢で薬師仏のありかを知らされ、そのお告げの場所で掘り出した石の薬師如来を、林秀は堂に祀る。時経(た)って建長(1249~1256)の頃、僧侶善光が、寺に引き取った病気の母が云った「好物の蛸が喰いたい」の願いを叶えるため、忍んで魚屋で蛸を買うが、見咎(とが)められ、母の病気のためであることをもってその薬師如来に念じ、箱の蓋を開けると、中の蛸のその足が八本の経巻に変身したのだという。別の話がある。林秀が薬師如来を祀った堂が水沢の近くだったため、沢の薬師、沢薬師(たくやくし)と呼ばれるようになった。もう一つは、蛸屋の家の土間に夜な夜な光るものがあり、掘り出すと碓(うす)の壺石で、そこに薬師像が浮かび上がっていた。病気の母の好物が蛸でなくても、魚をタブーとするこの坊主の話は成立する。恐らく語りのはじめにタク、タコの言葉があった。蛸薬師堂の前の、新京極通を上ったところに誓願寺がある。この二つの寺の移転合併の頃の誓願寺の住持は、落噺(おとしばなし)、落語の祖安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)である。タクが蛸になっても蛸薬師の物語りは、世の中に落語のように受け入れられたのである。生臭いのは、円福寺妙心寺の入れ替わりである。『京都大事典』(淡交社1984年刊)は、このことを二つの寺同士が「寺名・寺歴を交換した。」と述べている。居抜きどころではない。奇妙で滑稽な話である。僧侶善光の母は、語りによれば、蛸を喰わなかった。が、病は癒えた。善光が経を唱えると、経巻から姿を戻した蛸が光を発し、その光を浴びて、善光の母は病いが治ったのである。

 「はじめて聞いた。いはれを聞かされても、どうてえことないけど。」(石川淳狂風記集英社1980年)

 「改正福島特措法が成立 帰還困難区域内に「復興拠点」」(平成29年5月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)