栂尾(とがのお)高山寺の表参道は、そのなだらかな道幅から、山寺の懐の深さを予感させる。上りきって左に折れ、方形の踏み石の角と角をずらし並べた参道に立てば、その予感に違(たが)わぬ景色が目の前にある。老楓老杉老檜の巨木の木立ちの様を見通すことが出来るのは、建物の影が一つもないからである。寺の建物は、参道の奥に続く乱れた石段の上と、右手の石垣白塀の内にあって、いまはどれも目に入らない。木の間の参道は、進めば地面を這う木の根や岩であいまいになり、巨木の他に何もないのではなく、苔生(む)した石垣の列があり、かつてあった堂宇、僧房の跡であるというこの石垣は、いまは何もないということを証明するばかりで、このまま石段を上って金堂を拝まない限り、寺の雰囲気からは遠ざかったままである。金堂にある釈迦如来は、その扉が閉ざされている限り拝むことは出来ず、例えば山の上の木蔭に並び立つような墓もない。この位置からはまだ見えない開山堂は、明恵その人を敬う施設であり、白塀の内の国宝石水院は、明恵の当時の住まいである。この石水院の二間には、仏像ではなく、明恵のささやかなコレクション、複製の「鳥獣人物戯画」、複製の「明恵上人樹上坐禅像」、明恵がその前で右耳を切ったという複製の「仏眼仏母像」、「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」の額、愛玩の子犬の置物が並べ掲げられ、その小さくて見過ごされる「仏眼仏母像」を除けば、明恵が身を捧げた仏教は、この場所からも匂って来ない。履物を脱いだ拝観者は皆、東縁から眺める、清滝川を下に見る山の景色に目を奪われてしまうのである。明恵は云う。「凡(およ)そ仏道修行には、何の具足も入らぬ也。松風に睡(ねむ)りを覚まし、朗月を友として、究め来り究め去るより外の事なし。」(「栂尾明恵上人遺訓」)高山寺では、老杉の巨木の間に足を止めてこそ、この明恵の声が響き透るのである。清滝川は、河鹿が鳴き、楓が彩(いろど)る渓流である。高山寺から南に一キロ余くねり下って朱い高雄橋を渡ると、神護寺の参道口がある。神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)、神護寺は、高雄山寺と神願寺との合併の後の名であるが、このニ寺は、道鏡皇位野望を挫(くじ)く宇佐八幡の神託を持ち帰り、平安京造営大夫となった和気清麻呂(わけのきよまろ)の寺であり、高雄山寺は、その子広世(ひろよ)が招(よ)んだ比叡山最澄が奈良仏教のエリート学僧に法華経の講義をし、彼らに密教灌頂、仏位の継承を授け、同じく唐で最澄より高度な密教知識を身につけて帰朝した空海が、年長の最澄に弘仁三年(812)灌頂を授けた寺である。空海に預けた弟子が戻らず、経典より我が元で実践せよと言を返された最澄空海と絶交した舞台であり、仏法、真言密教による国家鎮護を唱えた空海が、東寺、あるいは高野山へ移るまでの十余年を拠りどころとした真言宗のもといの寺である。が、仁安三年(1168)に修験者文覚(もんがく)が見た神護寺は、住む僧もなく、荒廃を極めていたという。その文覚が、神護寺を再興するのである。文覚は、『源平盛衰記』によれば、人の妻を殺した男である。北面の武士だった文覚、十八歳の俗名遠藤盛遠(えんどうのもりとお)は、同僚渡辺渡(わたなべのわたる)の妻、袈裟御前(けさごぜん)を手に入れるため、渡を殺すに至るのであるが、実際に殺したのは、渡に扮(ふん)した袈裟御前であったという。この後人殺しの青年盛遠は、那智の瀧に打たれ、山岳荒行を経て、呪術使いの修験者文覚となるのである。『平家物語』による文覚は、空海の仏法王法を保つの思想と神護寺の再興に取り憑かれ、寄進運動の果てに、管弦遊びの最中の後白河法皇に寄進を迫って罵(ののし)り、その流罪先の伊豆国で、平家により流罪となっていた源頼朝と出会い、挙兵を勧め、その過程からは奇妙であるが、治承四年(1180)平家討伐の院宣をその近臣藤原光能(ふじわらのみつよし)を介し、後白河法皇から取り付けるのである。後白河法皇の第三皇子以仁王(もちひとおう)が源氏に出した平家打倒の令旨も治承四年であり、遠藤武者盛遠が仕えたのは、後白河法皇の同母姉、上西門院(じょうさいもんいん)であり、伊豆国に流される前の源頼朝も上西門院の蔵人であり、そうであれば、文覚の伊豆国流罪はあらかじめ別の意味、頼朝の説得を帯びて見えて来るのである。源頼朝後白河法皇の寄進で、文覚の願いの通り神護寺は再興する。が、この後ろ盾二人の死後の文覚は、謀反の謀議、後高倉院の即位の企(はか)り事で、佐渡対馬への再び三度(みたび)の流罪に処され、対馬への途中、鎮西で没する。この文覚の元に叔父の上覚(じょうがく)がいて、八歳で両親を失った明恵は、治承五年(1181)、九歳で俗塗(まみ)れの文覚の弟子になるのである。神護寺の参道は、険しい石段である。その三百数十段を上って構え立つ楼門を潜ると、目の前の地面には何もない。右手に、あるいはその奥に、書院堂宇が並び立つのであるが、平らに削られた山の上に、先ずは何もないのである。荒々しい石段の上の金堂の中に、朱い唇の薬師如来が祀られ、不死であるとされている、空海の出現の折りの住まいとなる大師堂があるが、およそ神護寺には、空海の気配はない。修験者文覚の目にもそう映り嘆いたのであり、文覚の死後、再び荒廃したのであれば、文覚もまた仮りの宿りをした者である。慈円は『愚管抄』にこう書いている。「文学(覚)ハ行(ぎやう)ハアレド学ハナキ上人(しやうにん)ナリ。」神護寺を嫌った明恵は、二度生まれ故郷紀伊国の白上に遁世し、天竺行きを企てる。明恵は釈迦の教えを仮りの宿りとしたのではなく、釈迦の教えが明恵を仮りの宿りとしたのである。

 「さてたまたま、垂直と水平にすすんでいたふたりが、同じ時刻に同じ場所で鉢合わせすることになった。」(ミヒャエル・エンデ 丘沢静也訳『鏡のなかの鏡』岩波書店1985年)

 「「土壌貯蔵施設」10倍の100ヘクタールまで増設 中間貯蔵施設」(平成29年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)