竹田深草の、龍谷大学短期大学部の正面で交差する二つの通りは、南北が師団街道で、東西が第一軍道であり、どちらも些(いささ)か物々しい。師団街道の師団は、旧帝国陸軍第十六師団のことであり、軍道は南へ第二第三と並び、第二軍道の東の突き当りにあったその司令部の緑青の銅板屋根に赤煉瓦の建物が、払い下げを受けた聖母学院にそのままいまも使われている。龍谷大学とその北側の警察学校には、陸軍兵器廠(へいきしょう)があり、第一軍道を挟んだ南側は深草練兵場であり、京都教育大学には歩兵第三十八連隊、京都教育大学附属高等学校には輜重兵(しちょうへい)第十六連隊があった。騎兵第二十連隊は深草第三市営団地の辺りに、砲兵第二十二連隊は藤森中学校の辺りに、工兵第十六連隊は桃陵団地の辺りにあった。その帝国陸軍第十六師団の末路は、フィリピンレイテ島での一万八千余名の死であり、六百名足らずの生還である。小説家水上勉は、昭和十九年五月に深草練兵場の南にあった中部四三部隊に応召し、輜重輸卒で働かされた、と随筆「醍醐への道」に書いている。この中部四三部隊は、輜重兵第十六連隊である。水上は、教育兵として馬の世話や出陣の荷造りをしていたという。そのある日、同じ二等兵の同僚が牽いていた馬が暴れ、止めようとしたその同僚を引き摺ったまま苗を植えたばかりの田圃に入って走り回り、失態を演じた日ごろ要領のよかったその同僚は、懲罰として重営倉に入れられ、発狂して病院送りになったと人伝(ずて)に聞く。水上は、その日牽いて行った馬を桜の樹に繋いだ醍醐寺で見た五重塔の想い出を書いているが、立ち直った苗の植わった田圃の、その数日の後には消えて仕舞ったに違いない馬の蹄の跡は、紛れもなく戦争の足跡である。数年前に見たテレビの番組に、年のいった老婆が出ていた。途中から見たその番組は限界集落を扱い、腰の曲がったその老婆は、山の中に一人で住んでいて、茄子や胡瓜や隠元豆の植わった家の前の畑から見渡しても、辺りには一軒の人家も見当たらない。老婆は、夫を亡くしてから月に一度様子を見に来る娘に、一緒に住むようにいわれているが、断っているという。カメラの後ろにいる者が、その理由を訊くと、ひとりの方が気楽やけん、と平凡な応えを返した。そう応えて歩き出した老婆に後ろから、淋しくないですか、とその者が声を掛けると、淋しかよ、と老婆は後ろ姿の向うから平板な口調で応えた。野良着姿の老婆が、山道を辿って行った先は、古めかしい人の背丈ほどの社だった。毎日欠かさずお参りをする、と老婆は云う。屋根の落葉を腰を伸ばして手で払い、老婆が暫(しばら)く手を合わせる。カメラの後ろの者が、何をお祈りしたのですか、と訊く。終えて振り向いた老婆は、平和を祈うとります、と神妙に応える。それまで一度も姿を現わしていない、カメラの後ろにいた者の虚を突かれたような顔に、一瞬カメラマンがレンズを向ける。祈りは自分の健康でも子や孫の幸福でもない。老婆の口から出たそれは、ありふれた言葉であるが、人前で口にすることは時に躊躇(ためら)われる言葉である。書かれたその言葉は、正論にして疑わしく、理想として空々しく、読む者に受け流されて仕舞うか、あるいは反抗心をも催(もよお)させるかもしれぬ言葉である。が、この老婆が使ったその言葉は、この世に初めて使われた言葉のように原始的な響きを持ち、地に足をつけた農夫の云い様(よう)であったから、カメラの後ろにいた、世のすべてに疑いを持つようなその者は、虚を突かれたのである。その言葉は老婆にとって切実でも、当たり前のことでもない。山の農耕で使った肉体から、ただ生きるための息のように発せられたのである。虚を突かれた、恐らく都市で暮らしているであろうその者は、老婆が見ている山の景色に顔を向け、カメラの前で軽く笑んだ。その笑みは、例えば若年が勇気を得た時のような表情に見えたのである。その土曜の午(ひる)、第十六師団司令部を校舎の一部にしている聖母学院の門から、下校する児童が一列になって出て来るのに行き会った。引率の教員が腕を広げ、児童に道を渡らせる。足を止めた通行人のある者たちの笑みは、児童らの笑い顔の反映でもあるが、その笑みに、老婆の祈りの言葉を聞いたあの者の笑みを、重ね合わすことも出来るのである。
「彼は僕にクレイモア地雷を渡し、東西に走る道路沿いの一点を指さした。暗い道路に歩いて出て行きながら、僕は自分が勇敢であると同時に馬鹿なことをしているような気もした。」(ティム・オブライエン 中野圭二訳『僕が戦場で死んだら』白水社1990年)
「吉野復興相、東電会長・社長に「福島第2原発廃炉」判断を迫る。」(平成29年7月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)