ひらいたひらいた なんのはながひらいた れんげのはながひらいた ひらいたとおもったら いつのまにかつぼんだ。手を繋(つな)ぎ、輪になってする「ひらいたひらいた」の遊戯で、ひらいていた輪がつぼんだことを、いつのまにかと思うのは、輪の中で目を閉じてしゃがむ幼児である。目を開け、輪の動きを見ていれば、いつのまにかの云いは成り立たない。目を開けている幼児がいれば、目を閉じるように先生から注意を受けるのである。このように子どもでも分かる言葉として、いつの間に、は使われるが、輪の中で目を開けていれば、つぼんだことが、いつの間にではないことが分かる。その幼児だけは、輪がせばまってゆく情報を知ることが出来るのである。蓮華(れんげ)、蓮の寺法金剛院は、JR嵯峨野線花園駅の前にある。法金剛院は明治30年(1897)、国鉄に譲る前の京都鉄道が線路を敷設し、その南半分の敷地を失い、昭和43年(1968)線路に並ぶ丸太町通の拡張で、再びその拡張分の地面を失い、削られることに甘んじたことを歴史とする寺であり、削られたことで、埋もれていた平安時代の庭の復活を見た寺である。その元(もとい)は、桓武天皇より四代の朝廷に仕えた清原真人夏野(きよはらのまひとなつの)の狩場の別荘地であり、その死後双丘寺、天安寺となり、死後怨霊となって恐れられた崇徳天皇の母、鳥羽天皇中宮待賢門院(たいけんもんいん)が、養父白河法皇の追善に法金剛院としたものであり、その待賢門院は、皇后の高陽院、美福門院に己(おの)れの居場所を奪われ、この寺で落飾、尼となり、鳥羽天皇の第二皇女上西門院(じょうさいもんいん)も母待賢門院の死後、引き継いだこの寺で落飾している。上西門院は、神護寺を再興した文覚が、北面の武士として仕えていた、後白河天皇の姉であり准母である。阿弥陀堂を三つ並べた、法金剛院のその苑池は、浄土の如くであったというのであるが、時経って荒廃し、落葉に埋もれ、土に埋もれ、九百年後に身を削られた代償でその浄土の一部が発掘され、再び日の目を見たのである。蓮は浄土の池を埋めて花開き、浄土の径も鉢植えの蓮が埋め、誂(あつら)えたような昨日降った雨の粒が、葉の上で揺らいでいる。が、いまここに浄土を見る者は恐らくいない。目に見える極楽浄土は、その教えもろ共土に埋もれるほどに衰え、誰もそれを思わなくなった。そのことを、いつの間にかとは、歴史家であれば認めない。時間に対する無責任な甘えは、言うまでもなく歴史家にはない。

 「──新石町はうまくいってます、ええ、由太夫という人をご存じですか、その人がね、あなたの代りに、新石町の稽古所で、冲也ぶしを教えているそうです。」(山本周五郎『虚空遍歴』山本周五郎全集15新潮社1982年)

 「5年後に年20ミリシーベルト未満 宅地・農地除染後の追加被ばく」(平成29年7月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)