「己未年の春二月(つちのとのひつじのとしのはるきさらぎ)の壬辰(みづのえたつ)の朔辛亥(ついたちかのとのゐのひ)に、諸将(いくさのきみたち)に命(みことおほ)せて士卒(いくさのひとども)を練(えら)ぶ。是(こ)の時に、層富縣(そほのあがた)の波哆丘岬(はたのをかさき)に、新城戸畔(にひきとべ)といふ者有り。丘岬、此をば塢介佐棄(をかさき)と云ふ。又和珥(わに)の坂下(さかもと)に、居勢祝(こせのはふり)といふ者有り。坂下、此をば瑳伽梅苔(さかもと)と云ふ。臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのをかさき)に、猪祝(ゐのはふり)といふ者有り。此三処(みところ)の土蜘蛛(つちぐも)、並(ならび)に、其(そ)の勇力(たけきこと)を恃(たの)みて、来庭(まう)き肯(か)へにす(※帰順しない)。天皇(※神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと))乃(すなは)ち偏師(かたいくさ ※一部の軍)を分け遣(つかは)して、皆誅(ころ)さしめたまふ。又高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛(つちぐも)有り、其(そ)の為人(ひととなり)、身短(むくろみじか)くして手足長し。侏儒(ひきひと ※小人)と相類(あひに)たり。皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因(よ)りて改めて其(そ)の邑(むら)を号(なづ)けて葛城(かづらぎ)と曰(い)ふ。」(『日本書紀』巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇)土蜘蛛は、大和朝廷服従しなかった辺境の地の首長、民の蔑称(べっしょう)で、風土記には土雲、都知久母とも記されているのであるが、例えば『平家物語』では、蔑称であった言葉が具体的な蜘蛛の化物(ばけもの)として源頼光(みなもとのよりみつ)の前に現われ、頼光に、源家に伝わる二つの剣の内の一つである「膝丸(ひざまる)」を振り下ろされる。「また頼光、そのころ瘧病(ぎやへい ※熱病)わづらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化(へんげ)のものくだり、頼光を綱にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にてあり。鉄の串にさしてぞ、さらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申しける。」(『平家物語』巻第十一 剣の巻下)『拾遺都名所図会』は、この「北野の塚」を、蜘蛛塚として載せている。「蜘蛛塚、七本松通り一条の北西側、圃(はたけ)の中に一丈ばかりの塚あり、これをいふ。古(いにし)へこのところに大いなる土蜘蛛棲みしとなり。『太野記(※『源平盛衰記』)』に「北野のうしろ」とあり。後考あるべし。一名山伏塚といふ。」この塚は、明治二十年代に宅地にされていまはない。が、蜘蛛塚と呼ばれる塚がもう一つある。「源頼光塚、舟岡山の南田の中に有。又の説に蓮台寺のうち、真言院の後檀の上にある所也。」(『名所都鳥』巻第六)千本通鞍馬口上ル紫野十二坊町の上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)の塔頭真言院の墓地に「源頼光朝臣塚」の石碑がある。が、この石碑は、昭和初期に鞍馬口通千本西入ル紫野郷ノ上町にあった同じ蓮台寺の塔頭宝泉院の西裏の土饅頭にあったものを移したものであるという。源頼光は、藤原道長の側近であり、その父は、鎮守府将軍源満仲(みなもとのみつなか)であり、満仲の父は、清和源氏の祖、六孫王源経基(みなもとのつねもと)であり、経基は清和天皇の第六皇子貞純親王である。頼光は伊予、美濃、摂津などの国司を歴任して財を成し、道長の住まい土御門殿の再建に、その家具調度の一切を自腹で揃えたという。一条天皇の「摂津国大江山夷賊追討の勅命」を受け、四天王、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)を率いて「酒呑童子(しゅてんどうじ)」を征伐したのが頼光である。その頼光が高熱で臥(ふ)せっているところを、土蜘蛛の化物が襲いかかり、化物は返り討ちに遭って「北野の塚穴」に逃げ込んだ。北野は、菅原道真を祀る北野天満宮である。その頼光が退治した蜘蛛塚と称するものが、二つ存在していたのである。『源平盛衰記』の土蜘蛛は、七尺の法師に化けて頼光の前に現われ、能の『土蜘蛛』は、その僧形が、病む頼光に無数の紙の糸を擲(なげう)つのである。源頼光は実在し、蜘蛛塚と称するものも二つこの世にあった。が、土蜘蛛の化物はどうか。この話が説話であれば、権力に盾突く、土に籠(こも)る、土蜘蛛と呼ばれた者は悪とは言い切れない。土蜘蛛の法師は、頼光に向って「苦しめ、苦しめ、乱世が欲しい」と言ったというのである。あるいは頼光は財を成して、怨みを買ったかもしれぬ。二つの蜘蛛塚は、作り話の証拠としてあったのではない。怨みの重さと殺された者への畏敬の念の深さが、恐らく二つの塚を生んだのである。退治された者への哀れさの共鳴が、二つなのである。この蜘蛛塚と称するものがなければ、頼光の話は何ほどの面白味もない。上品蓮台寺にある、「源頼光朝臣塚」の石碑の傍らの楠(くす)の大木に、蟬の抜け殻が幾つもしがみついていた。蟬の幼虫の形(なり)は、土の中で何年も過ごすための形である。

 「スペインから流れてきたテージョ河は、大西洋に注ぎだす前に、リスボン付近で湾のような大河になる。地図にはその大河を横断する航路が点線で記されていた。どうやら、コメルシオ広場の先にあるテレイロ・ド・パソという駅からフェリーが出ているようだ。私は、不意にそのフェリーに乗りたくなってきた。」(沢木耕太郎『一号線を北上せよ』講談社2003年)

 「セシウム検出限界値下回る 二本松で「早場米」全量全袋検査」(平成29年8月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)