京都錦小路の青物問屋枡源の四代目、伊藤源左衛門を継いだ絵師伊藤若冲の代表作「動植綵絵(どうしょくさいえ)」三十幅の内の三幅に「丹青活手妙通神」の印がある。これは絵の筆捌(さば)きが神業であるという意味であるが、この言葉は、八十六歳の煎茶売りの元僧、売茶翁(ばいさおう)が四十五歳の若冲に送った言葉であり、若冲は感激のままにこの言葉を印に彫り、お墨付きの如くに己(おの)れの絵に押したものである。草庵茶室の茶の湯を極めた千利休の死から百年の後、その侘び茶から最も遠いところで新しい茶のもてなしをしていたのが売茶翁であり、その百年経った茶の湯形式を禅僧として選ばなかったことが売茶翁の、利休の侘び茶に対する態度なのである。「處世不也世 學禪不會禪 但將一擔具 茶茗到處煎 到處煎兮無人買 空擁籃坐渓邊 咦 世を処するに世を知らず 禅を学んで禅を会(え)せず 但(た)だ将(まさ)に一つの具を担ぎ 茶茗(さめい)を到るところに煎る 到る処に煎るも人の買うこと無く 空しく提籃(ていらん)を擁して渓辺に坐す 咦(い、笑うべし) 世を渡るのに、世の中がわかっていない。禅を学んだが、禅を悟っているわけではない。只単に、一揃(ひとそろい)の茶具を担いで、行く先ざきで茶を煎(に)て売る。到る処で茶を煎るけれど、買う人とて無く、空しく提籃を抱きかかえて、渓(たに)の辺(ほとり)に坐っている。笑いものではないか。」(大槻幹郎 訳注『賣茶翁偈語(げご)』全日本煎茶道連盟2013年刊)売茶翁、本名柴山元昭は延宝三年(1675)肥前国佐賀に生まれ、十一歳で地元蓮池藩菩提寺龍津寺で得度し、月海元昭となり、京都宇治の黄檗宗萬福寺に暫く身を置いた後、江戸、磐城三春を経て仙台安養寺に二十七歳まで身を寄せ、再び萬福寺での修行を経て、佐賀龍津寺に戻り、先住持の死後、己(おの)れの代わりに萬福寺に在った兄弟子、大潮元晧を呼び寄せて住持に据えると、四十九歳にして漂泊住所不明の坊主となり、享保十九年(1734)五十九歳で鴨川二ノ橋のたもとに茶店を開き、世間に売茶翁と名乗るのである。「対客言志」の題で売茶翁が記した問答がある。一人の客が売茶翁に、出家者は寺にいて信者の供養を受けるか、そうでなければ托鉢をして生きるのであり、茶を売って金を得ることは、仏の教えに背いているのではないか、と訊く。それに対して売茶翁は、こう応える。寺にある僧の十中八九は俗に塗(まみ)れ、信徒に媚(こ)び、布施をする信徒はそのような僧を軽蔑している。施者も受者も施物も空(くう)であると真に悟ることが出来るのであれば、色のついた布施を受け取ることが出来るのであるが、自分はその浄穢(じょうえ)の思いから逃れることが出来ない、「余未(いまだ)此(この)翳(かげ)を除くこと得ず。故に妄(みだ)りに空華(くうげ、※実体のない幻)の浄穢を見る。是を以て造次顛伂(ぞうじてんぱい)にも孜々(しし)として玆(こ)れを思うこと玆(ここ)に在り。」このことを思い続けるために世間から賤(いや)しく思われている茶売りとなり、それで飯を喰うためだけの金を得ているのである。聞いた客はこう云ったという。あなたの云う言葉を紙に書き残しておいて欲しい。売茶翁は宝暦十三年(1763)八十九歳で亡くなるまで、幾編もの偈(げ)と呼ばれる漢詩を手元に残していた。売茶翁はその客の男を信じ、己れの言葉を信じていたのに違いない。「瓦鼎翻波松籟發 點來賣與五湖人 柰何箇裡無知味 獨坐自煎絶等倫 瓦鼎(がてい)波を翻(ひるがえ)して松籟(しょうらい)発す 点じ来(きた)って売与(ばいよ)す五湖の人 奈何(いかん)ぞ箇(こ)の裡(うち)の味を知る無き 独坐自煎して等倫を絶す 素焼きの釜の中は湯が沸き立って波が翻り松風のような音を発する。茶を点ててあちこちの人々に売りひさぐ。この味を解する人が無いときはどうしようもない。独り腰を落ちつけて自分で煎て喫めば、茶は等しき倫(ともがら)としてこれにまさるものはない。身老殊知吾性拙 舊友盡占機先 可憐隻影孤貧客 賣却煎茶充飯錢 身老いて殊(こと)に知る吾が性(さが)の拙(つた)きことを 旧友尽く是(こ)れ機先を占む 憐むべし隻影(せきえい)孤貧の客 煎茶を売却して飯銭に充(あ)つ 自分自身が年老いて、ことさらに知ることがある。それは自分の生まれつきは拙であることである。古くからの友人たちは、皆それぞれが先んじて然るべきところを得ている。それにくらべ自分は憐れなるひとりぼっちのさびしいかげ孤独で貧乏な旅人である。ただ煎茶を売ることで、日々の飯代に当てている。夏日松下煮茶 獨愛清間夏日長 千株松下石爐香 人間炎熱復何到 洞裏風光豈是望 水擇麗泉汲音羽 茶烹唐製自家郷 此生尤喜脱煩累 世上笑吾心轉狂 夏日(かじつ)松下に茶を煮る 独り愛す清間(せいかん)夏日長きことを 千株(せんしゅ)松下石炉香(かんば)し 人間(じんかん)の炎熱(えんねつ)復(また)何ぞ到らん 洞裏(とうり)の風光豈(あ)に是を望まんや 水は麗泉を択(えら)んで音羽に汲み 茶を唐製に烹(に)て家郷(かきょう)よりす 此の生(せい)尤(もっと)も喜ぶ煩累(はんるい)を脱する 世上笑う吾が心転(うた)た狂(きょう)することを 夏の日の木陰で茶を煮る 心のどかに長い夏の日を独り楽しみ、多くの松が立ちならぶ林の中で、茶を煮る石の炉から立のぼる匂いが香ばしい。俗世間の焼けつくような暑さも、ここには来ないから仙人のいる洞天の風景をうらやましがることもない。水は麗(うるわ)しい 音羽(おとわ)の滝を選んで汲み、茶は故郷から唐製の釜炒り茶を取り寄せて煮る。煩(わずら)わしい世間のしがらみから脱け出ることを、最も喜びとしているのに、世の人々は私の心はますます狂っているとあざ笑う。遊新長谷寺煮茶 観音靈場在洛東 秋風扶我到河東 獨荷竹爐燒落紅 嶺上松音來入鼎 耳根透徹大圓通 新長谷寺に遊び茶を煮る 観音霊場洛東に在り 秋風我れを扶(たす)けて河東(かとう)に到る 独り竹炉を荷(にな)って落紅を焼く 嶺上の松音来りて鼎(かなえ)に入り 耳根(しこん)透徹す大円通(だいえんつう) 新長谷寺に遊んで茶を煮る 秋風に扶(たす)けさそわれて、鴨河を東へ新長谷寺に来て、独り荷ってきた竹枠の炉で、紅葉を焚いて茶を煮る。嶺から吹きおろす松風の音が、釜の中に入り、耳にははっきりと、すべての真理が大きくゆきわたるのが聞こえてくる。賣茶偶成 (一)非僧非道又非儒 黒面白鬚窮禿奴 執謂金城周賣弄 乾坤是一茶壺 売茶偶成(ぐうせい) (一)僧に非(あら)ず道に非ず又儒に非ず 黒面白鬚(はくしゅ)窮禿奴(きゅうとくぬ) 執(た)れか謂(い)う金城売弄周(ばいろうあまね)しと 乾坤(けんこん)都(すべ)て是れ一茶壺(いっさこ) 売茶偶成(ぐうせい) 其の一 僧侶でもなく、道士でもなく、また儒者でもない。色黒の顔に白いひげの貧乏なはげ男。京都の街の誰かが言っている。すぐれた茶であるとひけらかして広めていることを。だがしかし、天地自然のすべての心が、この一つの小さな茶壺の中にこめられている。偶成 性癖風顛世上違 賣茶生計愜其機 心休冷淡勝甘旨 意足破衫齊錦衣 曉酌井華涵月荷 暮挑瓦鼎帶雲歸 老身用得這般事 物外逍遥絶是非 偶成(ぐうせい) 性癖(せいへき)の風顛(ふうてん)世上(せじょう)と違(たが)う 売茶の生計其の機に愜(かな)う 心休して冷淡甘旨(かんし)に勝(まさ)れり 意足(た)りて破衫(はさん)錦衣(きんい)に斉し 暁(あかつき)に井華(せいか)を酌(く)んで月を涵(ひた)して荷(にな)い 暮に瓦鼎(がてい)を挑(かか)げて雲を帯びて帰る 老身用得たり這般(しゃはん)の事 物外逍遥(しょうよう)是非(ぜひ)を絶す 偶々(たまたま)成る 生まれつきの風変りな生き方は、世間の人々とは相容れないが、茶を売って生計を立てるのが気持はしっくり合っている。心が安らかであると、あっさりした味わいがうまい味にすぐれ、気持が満足していると破れ衣も錦の衣と同じ思いである。夜明けに井戸水を酌み、月影をざぶりと入れて荷って運び、夕べに素焼きの釜をかついで夕焼け雲と共に帰る。年老いた身であるが、このような事は行いたえることができる。世俗の外にゆったりと気ままに楽しみ、ことの善し悪しをこえた境地に暮している。舎那殿前松下開茶店 松下點茶過客新 一錢賣輿一甌春 諸君莫笑生涯乏 貧不苦人苦貧 舎那殿前(しゃなでんまえ)の松下で茶店を開く 松下に茶を点じて過客新たなり 一銭売与(ばいよ)す一甌(いちおう)の春 諸君笑う莫(なか)れ生涯の乏(とぼ)しきことを 貧人を苦しめず人貧に苦しむ 舎那殿前の松の下で茶店を開く 大仏殿前の松の下で、行き過ぎる新しい客に茶をたてて、一文銭で売り与える、一杯の新茶。皆さん方よ、一生涯貧乏であることを笑って下さるな。貧乏は人を苦しめるのではなく、人が貧乏であることを苦しいと思うのだ。晩夏偶成 竹林深處寄殘生 獨坐悠然物外情 屋後移花空有色 窓前對石聽無聲 甜留河畔梵音響 緩歩池邊荷氣清 客至扣參別傳旨 卽談家事最分明 晩夏偶(たま)たま成る 竹林深き処残生を寄す 独坐悠然たり物外(もつがい)の情 屋後(おくご)花を移して空しく色有り 窓前石に対して聴くに声無し 河畔に憩留(けいりゅう)すれば梵音響き 池邊に緩歩すれば荷気(かき)清し 客到りて別伝の旨を扣参(こうさん)すれば 即ち家事を談ずること最も分明(ぶんみょう) 六月偶(たま)たま詩を作る 奥深い竹林に、人生の残りを寄せる。独り悠々と坐っていると、俗世間の外にいるかのような気分である。家の裏に移し植えた花は、ひっそりと咲くも色美しい。窓先きの石に相対して、その声なき声を聞く。川の畔(ほとり)に憩(いこ)い留まると、読経の音が響き、池のまわりを緩やかに歩むと、荷(はす)の花の香りが清らかである。客がおとづれて、禅の極意は如何に会得するかと尋ねれば、そこで私の仕事として茶売りをしていることが、そのまま禅の在方を示しているといえばあきらかであろう。衲衣 百綴裁成山水衣 通身贏得被雲歸 回頭直下返觀去 衣舊繋珠衲裏輝 衲衣(のうい) 百綴(ひゃくてつ)裁(さい)し成す山水の衣 通身贏(か)ち得たり雲を被(かぶ)って帰ることを 回頭(かいとう)直下(じきげ)に返観し去れば 旧(きゅう)に依って繋珠(けいしゅ)衲裏(のうり)に輝く ぼろ布を綴(つづ)った衣を着ていると、山水自然をそのまま衣としている思いで、体全体にあまるほど得て、雲をまとって行き帰って来た。頭を回らしてずばりと我が身を省みると、もと通りの貴重な宝珠が衣のうちに輝いているように思われる。自賛三首 (一)咄這瞎漢 謾打風顛 早歳入釋 事師參禪 百城烟水 遠探要津 熱喝痛棒 嘗苦喫辛 歴盡雪霜 自救不了 マンカン面皮 モラ多少 老來安分 爲賣茶翁 乞錢博飯 樂在其中 煮通天澗 鬻渡月花 若人論味 驀口蹉過 因憶昔年王太傳 依然千古少知音 自賛三首 其の一 咄(とつ)這(こ)の瞎漢(かつかん) 謾(みだ)りに風顛(ふうてん)を打(だ)す 早歳(そうさい)釈に入り 師に事(つか)えて参禅す 百城烟水(ひゃくじょうえんすい) 遠く要津(ようしん)を探る 熱喝(ねつかつ)痛棒(つうぼう) 苦を嘗(な)め辛を喫す 雪霜を歴尽して 自救(じぐ)不了(ふりょう) まんかんの面皮 もら多少ぞ 老来(ろうらい)分(ぶん)に安(やす)んじて 売茶の翁と為(な)る 銭を乞(こ)うて飯に博(か)え 楽は其の中に在り 通天の澗(たに)に煮て 渡月の花に鬻(ひさ)ぐ 若(も)し人味を論ぜば 驀口(まっく)に蹉過(さか)す 因(よ)って憶(おも)う昔年(せきねん)の王太傳(おうたいふ) 依然として千古(せんこ)知音(ちいん)少(まれ)なり 自分の画像の賛 其の一 おい、このわからずや、むやみに物狂いの様をする。年少に仏門に入り、師について参禅修行。多くの町や村、山川を越え渡り広く旅をして、遠く深い禅の要諦を探ってきた。熱く一喝され、痛(きび)しく棒を食らい、苦しみを嘗め、辛さを喫むこともあった。酷(きび)しい年間を過ごしてきたが、自分一人さえ救いきれないでいる有様。ぼんやり間の抜けた顔つきで、面の皮が厚く、赤恥をかくのがおち。年をとって分相応に、茶売りの翁となり、銭を求めて飯代とし、楽しみはこの中にある。東山東福寺の通天橋の澗間(たにま)で茶を煮たり、嵐山渡月橋の花の季節に茶を売る。若し人あって茶の味について議論するならば、まっこうから見当はずれ。その昔唐の王太傳のことを思うにつけても、昔も今も本当に心の通じ合える友は少ない。自警偈 夢幻生涯夢幻居 了知幻化絶親疎 貪榮萬乘猶無足 退歩一瓢還有餘 無事心頭情自寂 無心事上境都如 吾儕荀得体斯意 廓落胸襟同太虚 自(みずか)ら警(いまし)める偈(げ) 夢の生涯夢幻の居(きょ) 幻化(げんか)を了知(りょうち)すれば親疎(しんそ)を絶す 栄(えい)を貪(むさぼ)れば万乗(ばんじょう)も猶(な)お足ること無く 歩を退(さが)れば一瓢(いっぴょう)も還(かえ)って余り有り 心頭に無事なれば情(じょう)自(おの)ずから寂(じゃく)に 事上(じじょう)に無心なれば境(きょう)都(すべ)て如(にょ)なり 吾儕(ごさい)荀(いやし)くも斯(こ)の意を体(たい)するを得ば 廓落(かくらく)たる胸襟(きょうきん)太虚(たいきょ)に同じ 自ら警めてのべる ゆめまぼろしの一生、ゆめまぼろしの住まい。全(すべ)てがゆめまぼろしと悟り知れば、親しいとか疎(うと)いとかいう区別もなくなる。栄誉を欲しがれば、天子となってもまだ満足せず、慎(つつし)み深くすれば、一つの瓢箪(ひょうたん)の水でも十分すぎる。心に何事もなければ分別はなくなり、何事にも無心で向き合えば、知覚や思考の対象となる世界はすべてそのまま真実である。もしもわたしたちがこのことを体得できたならば、胸の中はさっぱりとして、大空と同じであろう。仙窠燒却語 仙窠是具籃名所以鬻煎茶也 我從來孤貧 無地無錐 汝佐輔吾曾有年 或伴春山秋水 或鬻松下竹陰 以故飯錢無缼 保得八十餘歳 今已老遇 無力干用汝 北斗藏身 將終天年 却後或辱世俗之手 於汝恐有遺恨 是以賞汝以火聚三昧 直下向火焔裏轉身去 轉身一句且如何 良久云 劫火洞然毫未盡 青山依舊白雲中 便付丙丁 乙亥九月初四 八十一翁高遊外 仙窠(せんか)焼却の語 仙窠は是(こ)れ具籃(ぐらん)の名、煎茶を鬻(ひさ)ぐ所以(ゆえん)也 我れ従来孤貧(こひん) 地無く錐(すい)無し。汝(なんじ)我を佐輔(さほ)すること曽(かつ)て年(とし)有り、或(ある)いは春山(しゅんざん)秋水(しゅうすい)に伴(ともな)い、或(ある)いは松下竹陰に鬻(ひさ)ぐ 故(ゆえ)を以(もっ)て飯銭欠くること無く、八十余歳を保得(ほとく)せり。今(いま)已(すで)に老遇(ろうまい)、汝(なんじ)を用うるに力無し、北斗に身を蔵(ぞう)して、将(まさ)に天年(てんねん)を終えんとす。却後(きゃくご)、或(ある)いは世俗の手に辱(はずかし)められれば、汝(なんじ)に於(おい)て恐らくは遺恨(いこん)有らん、是(これ)を以(もっ)て汝(なんじ)を賞(しょう)するに、火聚三昧(かじゅうざんまい)を以(もっ)てす。直下(じきげ)に火焔(かえん)裏(り)に向(お)いて転身し去れ、転身の一句且(か)つ如何(いかん)。良久(りょうきゅう)して云う、劫火(ごうか)洞然(とうぜん)毫末(ごうまつ)尽(つ)く 青山(せいざん)旧(きゅう)に依(よ)る白雲(はくうん)の中 便(すなわ)ち丙丁(へいてい)に付(ふ)す。乙亥(いつがい)九月初(しょ)四(し) 八十一翁高遊外(こうゆうがい) 仙窠(せんか)を焼きすてる語(ことば) 仙窠(せんか)は茶道具を納める籃の名前で、煎茶を鬻(ひさ)ぐいわれのものである。私はもとより孤独のたちであり、貧乏で住む土地とて無い。なのにそなたは、長い間私を助けて、ある時は春の山、秋の水辺、またある時は松の木陰竹林の中で茶を売ってきた。おかげをもって飯代を欠くこと無く、八十余年を生きることが出来た。ところが今や老いて、そなたを使うだけの力が無くなった。そこでひっそりと身を隠して、天命を終えようと思う。却(しり)いた後、或(ある)いは俗人の手にわたって辱(はずかし)められるようなことになると、そなたも恐らく残念なことであろう。この事によってそなたを賞(ほ)めて、燃え盛(さか)る炎の中で心の安らぎを与えよう。そのまま火燃の中で、身を転じて安住してほしい。身を転じた一句はさあどうか。しばらく沈黙して云う。世界の終末の炎に、すべてが焼き尽くされても、青々と樹が繁る山は、変わることなく白雲の中に聳(そび)えている。そこで火によせる。宝暦乙亥(ほうれききのとい)五年九月四日 八十一翁高遊外」(大槻幹郎 訳注『賣茶翁偈語』)『賣茶翁偈語』の「売茶翁伝」に「翁且(まさ)に七十にならんとす。復(ま)た国に還り、乞(こ)うて自(みずか)ら僧を罷(や)め、名を肥人の宦(かん)にして京に在る者に隷(ふ)して、以(もっ)て十年の限(かぎり)を免(まぬがれ)んことを欲す。」とあり、肥前蓮池藩の国外滞在十年ごと許可更新の帰国の免除を高齢を理由に願い出て、大坂藩邸詰めの身分を得、還俗(げんぞく)し、高遊外(こうゆうがい)と名を改めたという。還俗は、肥前への帰国の、肉体金銭の負担という理由だけでなく、僧、出家者の矜持(きょうじ)を、最早(もはや)脱ぎ捨てても一向に構わない衣にすぎないと思い至ったのに違いない。人を悟りに導くためには、まず自(みずか)らが悟らなければならないという、十一歳の得度の際に習ったであろう教えは、ここに至って、そうではなかったのである。禅は、すべては「空(くう)」であるという「色即是空 空即是色」を、一瞬間の体験こそが実体であり、そこにとどまって在るものはないという「悟り」を、その教えの根本とするのであるが、布施を貰って死者を葬る、あるいは供養の金、食い物で信者を説き導くことに、売茶翁は平気でいられなかった。果たしてその「交換」に平気でいられることが悟りなのか、それを思い続けるしかない、あるいはもう一歩踏み込んだ、僧であっても悟らなくても構わないのではないかという思いが、口を糊するための茶売りであり、その最も遠い煎茶売りに身を置いたことで、恐らくは「悟り」という呪縛から解放され、図らずも己(おの)れの悟りに触れたその様(さま)が、売茶翁が書き残した偈なのである。売茶翁の偈、漢詩の云うところは、ただ一つである。それは、松の木陰で煮た茶の味の旨さである。禅僧趙州(じょうしゅう)の云う「喫茶去(きっさこ)」は、「茶を飲んで出直せ」という意味である。売茶翁は、その「喫茶去」の、自分で飲むための茶を自分で煮、人にも勧め、思いを巡らす場を共有したのである。『賣茶翁偈語』に描かれている歯の抜けた売茶翁の肖像は、伊藤若冲の筆によるものであり、その自賛の筆を執ったのは池大雅である。この二人が、売茶翁の淹れた茶を存分に味わった者らなのである。

 「こゝでは、三人の教授が国語の改正をいろいろと熱心に考えていました。一つの案は、言葉を全部しゃべらないことにしたらいゝというのでした。その方が簡単だし、健康にもよい。ものをしゃべれば、それだけ肺を使うことになるから、生命を痛める、というのです。それで、その代りにこんなことが発明されました。言葉というものは、物の名前だから、話をしようとするときには、その物を持って行って、見せっこをすれば、しゃべらなくても意味は通じるというのです。しかし、これも一つ困ることがあります。それはちょっとした話なら、道具をポケットに入れて持って行けばいゝのですが、話がたくさんある場合だと大へんです。そのときは、力の強い召使が、大きな袋に、いろんな品物を入れて、背負って行かなければなりません。」(原民喜原民喜ガリバー旅行記晶文社1977年)

 「新米4年連続で基準値超ゼロ 17年度産956万点、18年も全袋検査」(平成29年12月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)