謡曲「東北」は、とうぼくと読む。世阿弥元清の作である。京に上った東国出の三人の僧が、京の鬼門に当たる北東の地に建つ寺、東北院(とうぼくいん)に咲く梅の香に誘われやって来る。東北院は、三人の娘を次々に天皇に嫁がせて世の頂点を極め、死後浄土に取り憑かれた藤原道長建立の法成寺の、その長女彰子発願の法華三昧堂の名であり、その位置もまた境内の艮(うしとら、北東)に当たっていた。彰子は一条天皇中宮であり、子は後一条、後朱雀天皇となり、紫式部和泉式部(いづみしきぶ)らが仕え、一条天皇の死後落飾し、上東門院(じょうとうもんいん)と名乗り、東北院を住まいとした。東国の旅僧三人が目にしている東北院は、道長の法成寺の伽藍がすべてこの世から消え失せた後にも残った寺である。旅僧が、寺の門前の者に問う。「このあたりの人のわたり候か。」「このあたりの者とお尋ねは、いかやうなる御用にて候ぞ。」「これは都初めて一見のことにて候。これなる庭に色美しき梅花の候。名の候か教へて給はり候へ。」「さん候。あれは古(いにしへ)和泉式部の植ゑ給ひしにより即ち梅の名も和泉式部と申し候。心静かに御一見候へ。」梅の木の名を和泉式部であると教えた門前の者が去ると、僧らの前に今度は里の女が現れ、その名は和泉式部ではないと云う。「先づこの寺に上東門院の住ませ給ひし時、和泉式部はあの方丈の西の端を休み所と定め、この梅を植ゑ置き軒端の梅と名づけ、目がれせず眺め給ひけるとなり。」名は違っても、梅の木は和泉式部が植えたものに間違いない。「げにげに聞けば古(いにしへ)の、名を残し置く形見とて、」「花も主(あるじ)を慕ふかと、」「年年(としどし)色香もいや増しに、」「さもみやびたるその気色、」「今も昔を、」「残すかと、」言葉を掛け合わすうちに、旅僧は、里の女に思いを寄せてゆく。里の女が云う。「露の世になけれども、この花に住むものを。」私はすでにこの世にはなく、霊として梅の花に住んでいる。そして「われこそ梅の主(あるじ)」と云うと、夕暮れに染まった梅の花の陰に隠れるようにその姿が見えなくなる。旅僧らは、里の女こそは和泉式部の霊であると確信し、夜梅の木の傍らで、その霊に捧げる法華経を読誦していると、里の女から姿を変えた和泉式部が現れる。「あらありがたの御経やな。唯今(ただいま)読誦し給ふは譬喩品(ひゆほん)よのう。思ひ出でたりこの寺に、上東門院の住ませ給ひし時、御堂関白(藤原道長)この門前を通り給ひしに、御車の内にて法華経の譬喩品を高らかに読誦し給ひしを、折節式部この御経の声を聞いて、門(かど)の外(ほか)、法(のり)の車の、音聞けば、われも火宅(かたく)を出でにけるかなと、かやうに申したりしこと、今の折から、思ひ出でられてさむらうぞや。」『妙法蓮華経』譬喩品(ひゆほん)第三に、「国・邑(むら)・聚落に大長者有るが若(ごと)し。その年は衰え邁(お)い、財富は無量にして、田・宅及び諸(もろもろ)の僮僕(どうぼく)を多く有せり。その家は広大なるに、唯一つの門のみ有り。」とはじまるたとえ話がある。その軒の傾いた古い家に突然火が起こり、長者の大勢の幼い子どもだけが中に取り残されて仕舞う。が、子どもらは、長者の叫ぶ声も火事の状況も何も分からず、楽しそうに遊び、走り回っている。長者は案じ、門の外に子どもらが欲しがっている羊車や鹿車や牛車があるから、早く出て来るように中に声を掛ける。と忽(たちま)ち子どもらは燃える家、火宅から競って飛び出して来た。長者は、約束した通り、どの子どもにも風のように走る宝の車を与えた。「諸(もろもろ)の菩薩及び声聞衆とこの宝乗に乗じて、直ちに道理(さとりの壇)に至らしむ。この因縁をもって、十方に諦(あきら)かに求むるに更に余乗無し。仏の方便をば除く。」和泉式部は、冷泉天皇中宮だった太皇太后昌子内親王の役人、大江雅致とその女房だった母の間に生まれ、大江雅致と関係のあった和泉守橘道貞と結婚し、娘小式部をもうけたが、陸奥守となった道貞は、和泉式部を捨てる。理由は、冷泉天皇の第三皇子弾正尹為尊親王(だんじょうのいんためたかしんのう)との恋愛関係にあるとされ、二十六歳で為尊皇子が死亡すると、その弟である第四皇子太宰帥敦道親王(だざいのそちあつみちしんのう)と関係が出来、召人として宅に入り一子をもうけるが、敦道親王も二十七歳で死亡し、その宅を出た和泉式部は上東門院彰子に仕え、後に藤原道長の家司、藤原保昌と再婚する。君恋ふる心は千々にくだくれどひとつも失せぬものにぞありける。物おもへば沢の螢も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる。暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月。これらの和歌は、和泉式部が秘かに書き残したものではなく、読み手があるものとして詠んだものであり、その読み手は、目の前の読み手だけを思い描いていない。平安時代に生きた和泉式部の和歌は、室町時代世阿弥の心にも届き、世阿弥和泉式部の霊の口から、「門(かど)の外(ほか)法(のり)の車の音聞けばわれも火宅を出でにけるかな」と歌わせたのである。和泉式部の霊の云いを聞いて、旅僧は云う。「げにげにこの歌は、和泉式部の詠歌ぞと、田舎までも聞き及びしなり。さては詠歌の心の如く、火宅をば早や出で給へりや。」「なかなかの事火宅は出でぬ、さりながら、植ゑ置く花の台(うてな)として、詠み置く歌舞の菩薩となって、」「なほこの寺にすむ月の、」「出づるは火宅、」「今ぞ、」「すでに、」そのすべてに仏性が宿るとする自然を詠む和歌というものは、「法身説法の妙文」であり、その和歌を極め、色恋に迷う者を癒し救う功徳によって和泉式部は火宅、煩悩苦痛の三界を出て「今ぞ、」「すでに、」菩薩となった。世阿弥和泉式部にそう語らせる。が、和泉式部は云う。「げにや色に染み、香に愛でし昔を、よしやな今更に、思ひ出づれば我ながら懐かしく、恋しき涙を遠近人(おちこちびと)に、洩(も)らさんも恥ずかし。」旅僧らの前で舞いを舞う、和泉式部の心の様(さま)は、梅の匂いに思わずも火宅の内にあった頃を思い懐かしみ、和泉式部はその菩薩となった目から涙を零(こぼ)したのである。「これまでなりや花は根に、鳥は古巣に帰るとて、方丈の燈火(ともしび)を、火宅とやなほ人は見ん。こここそ花の台(うてな)に、和泉式部がふしどよとて、方丈の室に入(い)ると見えし。」舞い終えた和泉式部が、夜の明かりが点る方丈に入ってゆく。この世を火宅と思い住み暮らしたその方丈へ、菩薩となった和泉式部が戻ってゆくとは、どういうことか。涙を零した菩薩が、人に戻るということではない。人に戻ることが出来ないことで、和泉式部という菩薩は涙を零したのであるから。東北院はたびたび被災し、いまは吉田神社のある神楽岡の東に、小寺として残っている。境内に白梅の古木があり、謡曲「東北」に因(ちな)んで元禄に植えたものであるという。謡曲「東北」は、この白梅に宿ることはないが、物語りは語られるために、この白梅を必要とするのである。庭の荒れた東北院は、人の入山を許さず、白梅は花をつけていたが、かいだのは、崩れかけの山門からはみ出た沈丁花の匂いだった。

 「娘は鉄柵にしがみついて、テレビから眼を離そうとしない。私は背中の赤ん坊の重さにその場に腰かけてしまい、路地とガラス窓とに隔てられたテレビの画面に見入った。賑やかな番組だった。見ているうちに、出演者の一人が妙な具合に体をくねらせだした。テレビの前に坐っている家族の笑いだすのが見えた。私も、なんとなくおかしくなり、笑った。」(「幻」津島佑子『黙市』新潮社1984年)

 「「古里壊滅…変わらない」 いわき原発訴訟、原告は救済不十分」(平成30年3月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)